明治時代とは1868年から1912年までの44年間。
幕末の黒船来航後の開国・戊辰戦争を経て新政府が樹立され、都が京都から江戸・東京へと移された。
廃藩置県や西南戦争や、欧米諸国を模範とした国内の近代化などが行われた。
清やロシアとの戦争を経験し、日本はこの時代に大きく躍進した事は間違いないが、後の大戦への歩みを始めてしまった時代でもある。
明治になって、新政府が初めに行ったのは、天皇を中心とする政権体制を固める事であった。
まず、諸藩に領地と領民を天皇に返上させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」で、薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)が手本を示す事で、他の藩もそれに従った。
明治初期には二官六省が置かれたが、政治を動かす参議のほとんどは薩長土肥の出身者であった。
版籍奉還を実施したものの旧藩主が藩政に当たっていた為、新政府の体制強化にはさほど効果がなく、藩の反発も強かったという。
そこで参議らは「廃藩置県(はいはんちけん)」の断行を密かに画策する。
西郷隆盛が中心となり、薩長などから政府直属軍の兵士1万を集め、計画断行に欠かせない軍事力を整えたのだ。
藩主の権限を奪う廃藩置県は、実質的にはクーデターといえる。
藩の大きな反乱がなかったのは奇跡と言え、殆どの藩が財政赤字で、抵抗する力が残っていなかったのだ。
また、諸藩も海外列強に対抗する為には、日本の中央集権化が必要だと考えていたのだろう。
土地制度も改められ、土地の私有制度が確立し、地価が定められ、これを元に地租改正が行われた。
これにより、財政が不安定だった政府は、取り合えず安定した財源を確保出来た。
その他、管制や身分制度などの改革が行われており、最も大きな変化は、秩禄や帯刀など武士の特権が剥奪された事だろう。
以後、武士は士族へと変わり、大きな不満を持つ事になっていく。
中央集権体制とともに新政府の重要な課題となっていたのは、欧米諸国と肩を並べる強い資本主義国家の建設だ。
いわゆる富国強兵である。
あらゆる面で欧米諸国に後れを取っていた当時の日本は、近代産業の育成、つまり殖産興業を必要としていたのだ。
金融関連では新貨幣制度が定められ、円(えん)・銭(せん)・厘(りん)の三つの単位を採用した。
また、アメリカの制度にならって国立銀行条例が発布され、第一国立銀行を建立する。
なお、「国立」とは国の法に基づいて設立されたという意味であり、国営の銀行という意味ではなく、私営銀行であった。
通信や交通も急速に発達した。
郵便制度は前島密(まえじまひそか)によって整備され、鉄道網は徐々に拡大し、1889年には東海道本線が完成した。
海運業では岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が政府の保護を受けつつ事業を発展させ、外国航路も開設している。
近代産業の育成は、官営工場が主な舞台となり、製糸業、紡績業(ぼうせき)に力が入れられた。
製糸業ではフランスの技術が導入され、本国から技術者が招かれているが、外国人技師の招聘(しょうへい)は殖産興業の大きな特色であった。
北海道の開拓にも、外国人の指導者が招かれている。
明治政府は天皇が古からの統治者である事を宣伝し、その神格化を進めていく。
神道が重視され、神仏分離令によって廃仏毀釈運動(はいぶつきしゃく)が広まり、仏教は一時大きな打撃を被るが、仏教の排斥は国民に深く浸透する事はなかった。
神道による国民教化も十分な成果は上げられなかったものの、天皇の神格化は祝祭日の設定や学校教育を通じて行われていった。
学校制度には欧米の制度が採用され、全国には二万以上の小学校が設立された。
高等教育機関も整備され、国立大学として東京大学が創設され、福沢諭吉の慶應義塾、新島襄(にいじまじょう)の同志社など私立学校も次々と創立されていった。
福沢諭吉はベストセラーとなる「学問のすゝめ」などを著し、青年たちに影響を与えた。
外国からの啓蒙書(けいもうしょ)が溢れるなか、西洋の学会を真似た明六社が結成され雑誌を発行したが、新聞紙条例により廃刊に追い込まれている。
西洋思想が広まる一方、政府は言論活動の取り締まりを強化していった。
電信、鉄道、ガス灯など産業技術の進歩は、人々の生活を激変させた。
風俗や日常の習慣も一変し、肉食や散切り頭、洋服の着用などが急速に広まっていく。
ただし、そういった変化を享受できたのは大都市のみで、地方にまで生活習慣の変化が及ぶのは、まだ先の事である。
(サイト管理人は1983年生まれの地方出身ですが、僕の祖父母は確かに衣食住全部が和式でした。)
日墓人が西洋式の流行を取り入れるのに必死だったが、日本の伝統文化は忘れられる一方であり、むしろ外国人たちの方が日本文化に蚊地位を見出していた。
明治政府の外交課題は、何よりも幕末に締結された欧米諸国との不平等条約の改正だった。
そのため岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが欧米へ派遣されるが、条約改正の交渉は叶わなかった。
しかし、使節団は近代化された海外の視察をしっかりとこなしており、特にプロイセン(ドイツ)ではビスマルクの「対等な外交は国力によって獲得される」という演説に一行は感銘を受けている。
日本同様に新興国家だったプロイセンは、以後大きな影響を日本に与える事になる。
日本が幕末の頃から、朝鮮王朝は鎖国政策をとっていた。
明治維新後、新政府は中国と並ぶ地位を保つ態度を示した事もあり、朝鮮は日本との国交を拒否した。
国内では、士族の不満のはけ口を海外に求めるという背景もあり、朝鮮に対して強硬な姿勢を取るべきだという「征韓論(せいかんろん)」が高まっていった。
征韓論の主な論者は西郷隆盛である。
閣議では西郷を朝鮮に派遣する事が決定されたが、天皇は欧米視察中の岩倉具視(いわくらともみ)を待つように指示した。
西郷は士族の働き場所を確保する為には戦争が必要だと考えていたかもしれないが、勝海舟は西郷の訪朝は平和交渉の為だと語っている。
欧米の視察から帰国した岩倉たちは、国内の整備が先だとして征韓論に反対する。
しかし、閣議では西郷の派遣が決定済みだった為、反対派はこれに抗議、辞表を提出してしまった。
これに頭を抱えたのは太政大臣の三条実美(さんじょうさねとみ)であった。
西郷からは天皇への上奉を迫られ、三条は寝込んでしまったという。
しかし、ここで岩倉が強硬手段に出ており、岩倉は自身を太政大臣の代理とし、天皇に西郷の派遣が否決されたと上奉した。
これに激怒した西郷らは辞職、明治新政府初めての大分裂となった。
明治六年の政変
西郷隆盛と大久保利通が対立した1873年10月14・15日の閣議を描いた錦絵
右から四人目、脚を広げて座った髭の男が西郷、左側手前で西郷の方を向き、灰色の髭を蓄えているのが大久保
楊洲周延画(国立国会図書館蔵)
アジアでは清、朝鮮との国交を再開させる必要があった。
清国とは対等条約を結んだが、琉球の人々が台湾で住民に殺害される事件が発生する。
清はこれを責任外とした為、事件の処理は難航。
結局は、台湾へと出兵し、清から賠償金を得るという形で解決にこぎ着けた。
なお、木戸孝允は台湾出兵に反対しており、この時に下野している。
朝鮮に対しては、征韓派の辞任後も開国させようとする動きが政府にあった。
新政府は、朝鮮への通告なしに江華島(こうかとう)付近の測量を行った軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事を切っ掛けに、日本は島を占領した。
その方法は黒船来航のペリーと全く同じやり方であった。
日本は自分たちが体験した事を朝鮮に行い、開国と不平等条約の日朝修好条規締結を実現させたのだ。
この行為を卑怯だと非難したのは西郷隆盛だ。
その他、政府はロシアと樺太・千島交換条約、アメリカには小笠原諸島の領有を認めさえて領土を画定していった。
征韓論を主張して敗れた参議たちは、辞職した後、武力に訴える者と言論に訴える者とに分かれていく。
いずれにせよ、反政府活動が拡大する事は確実であり、政府は内務省や警視庁を設置してこれに備えた。
板垣退助らは民権運動の主導者となり、佐賀の士族であった江藤新平らが反乱を起こしているが、わずか二ヶ月で鎮圧され、江藤は処刑されている。
四民平等の政策の下、次々と特権を奪われていった元侍たち、士族に止めを刺したのが、廃刀令と秩禄処分(ちつろくしょぶん)だ。
言論活動に対しては、新聞紙条例と官吏の批判を禁じた讒謗律(ざんぼうりつ)が出され、官と民の対立はより激しくなっていく。
士族たちは「敬神党の乱(けいしんとうのらん)」を皮切りに、各地で反乱を起こし始め、地租に苦しむ農民の一揆も多発する。
1877年(明治10年)、ついに西郷隆盛が挙兵する。
政府軍は戊辰戦争以来の大きな内乱に直面するが、わずか半年後に鎮圧され、新政府軍の強さが証明される結果に終わった。
その後、竹橋騒動が起こるものの、不平士族の反乱は西南戦争で終わりを告げ、反政府活動の主流は、言論へと移っていく。
これ以降、日本から武装蜂起という考えが急速に廃れていったのだ。