ヤマトタケルを悼む歌

大御葬歌とヤマトタケルの実在性

大御葬歌は天皇家の葬儀で歌われてきたものだが、これはヤマトタケルを悼む歌ともみられている。彼の死を悼む歌が歴代天皇(大王)の葬儀で歌われるようになった意義とは。そして、ヤマトタケルの活躍と悲劇は後世の創作なのか。

目次

大御葬歌〜『古事記』に残る4首の歌

『古事記』に残る4首の歌。これらはいずれも、ヤマトタケルの死を悼んだ歌であり、天皇家(大王家)の葬儀で長く歌われてきた。しかし、歌われてきた理由は正確には分かっていない。

  • なづきの田の 稲幹に 稲幹に匍ひ廻ろふ 野老蔓
    (御陵を取り巻く田の稲幹に、稲幹に、這いまわる野老(山芋)の蔓よ)
  • 浅小竹原 越なづむ 空は行かず 足よ行くな
    (丈の低い小竹の原を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。私たちは空を飛んで行くこともできず、足で歩いて行くしかないのです)
  • 海処行けば 大河原 植ゑ草 海処はいさよふ
    (海の中は水が腰にまとわりついてうまく進めない。大きな河に生えている水草のように、海では足をとられてゆらゆらしてしまいます)
  • 浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
    (浜の千鳥のように、あなたは浜辺の陸の上を飛ばないで、追いかけにくい磯づたいに飛んで行かれるのですね)

タケルは大王家を恨んでいたのか?

ヤマトに尽くしながらも報われなかったタケル

ヤマトタケルは故郷のヤマトを思いながら、朝廷(大王家)のために戦い、神の怒りに触れてヤマトに帰り着くことなく倒れた。ヤマトに大きく貢献しながら、天皇(大王)として即位することもなかった。ヤマトタケルは朝廷(大王家)を恨んで死んでいったのか?

そこまで恨む(祟る)理由はないと思われる

朝廷(大王家)がヤマトタケルを暗殺したわけではない(『古事記』によれば疎まれてはいたようだが)。また、自身は即位できなかったが、息子は天皇(大王)になっている(実在が疑われている14代仲哀天皇で、神功皇后の夫でもある)。歴史的にみればヤマトタケルも勝者側であり、恨む筋合いは、あまりなさそうだ。

大御葬歌が葬儀に歌われる理由

かつては恋の歌と考えられていたが…

この4首は、以前は男が女のもとに通うときに詠んだ歌、つまり恋の歌と長らく考えられてきた。

神話学者の故・守屋俊彦氏

これに異を唱えたのが、神話学者の故・守屋俊彦氏である。彼は『ヤマトタケル伝承序説』(和泉書房)で、この4首は「魂呼びの歌」であると推理している。

ツル草に【強い生命力と再生】の意味を込めた?

植物にツル草がからまる様子から、「なづきの田の」という部分が男女の恋への比喩として使われている万葉歌や民謡が多いのが、「恋の歌説」の根拠の一つであった。
しかし守屋氏は、古代の人間は成長の速いツル草に強い生命力を見ていたとしている。それを歌い込むことによって、生命の再生を望んだのがこれらの歌だ、というのだ。

死者の国は海の彼方にある、と考えられていた

また、その当時は死者の国は天上ではなく、海の彼方にあると考えられていた。死者の魂は川沿いに海に向かうと信じられていたのだ。つまり、4首は魂を呼び戻そうとする歌なのだ、と主張している。
古代の人々は【魂が戻れば死者はよみがえる】と信じていた。

【魂を呼び戻す歌】だから葬儀に歌った?

葬儀の場で歌われるべき歌として、【恋の歌】と【魂を呼び戻す歌】、どちらがより相応しいだろうか。
しかし、葬儀の場で歌う歌には【魂を呼び戻す歌】がふさわしいとして、なぜそれがヤマトタケルにからんだ歌でなければならなかったのか。
現代歴史学において、ヤマトタケルはその実在が疑われる、架空の人物として扱われることが多い。

ヤマトタケルは架空の人物なのか?

古代史において盛られた話は多少は多めにみる

神と戦ったり、死後に白鳥になったりしたから、ヤマトタケルは架空の人物である、というだけの話ではない。奇跡に彩られた実在の人物というのは、古代史では珍しくない。奇跡や神秘的な説話に関しては、ある程度は多めにみて解釈してもいいのではないだろうか。

古代の偉人は話が盛られるのが通常である

生まれてすぐに会話をこなし、10人の話を聞き分けたという聖徳太子。
地面を杖で突くと泉が湧き出たという伝説を、日本各地に残した弘法大師(空海)。
外国の人物だが、水をぶどう酒に変え、触れただけで病人を治し、水の上を歩いたナザレのイエス。

ヤマトタケルの奇跡は後世の付け足しと思われ

先にあげた3人は死後、その信奉者によって【創作された奇跡】に飾られたが、いずれも実在、あるいはモデルとなった人物がいた。
ヤマトタケルにしても、奇跡を付与された朝廷(ヤマト政権)の有能な軍司令官だった、と考えてもおかしくはない。神と戦ったとか白鳥になったとかは、その偉大さを飾る手段にすぎず、実在を否定するものではない。

「ヤマトタケル」という名前は都合がよすぎる

しかし、それらの奇跡を多めに見たとしても、近年の定説としてはヤマトタケルはやはり架空の人物とされることが多い。
その理由の一つに、その名前があげられる。ヤマトタケル(倭建命)とは「ヤマトの勇者」という意味である。彼が倒したクマソタケルやイズモタケルも、クマソや出雲の勇者を意味する。3人ともお揃いのような単純すぎる名前であり、これらが史実だったとは考えにくい。

本の名「ヲウス」という人物は実在したのでは

なお、上記の名前のエピソードに関して完全に創作で、ヤマトタケルの中の人ともいうべき「ヲウス」の方は実在した可能性は捨てきれない。
朝廷(天武朝:ヤマト政権)が自分達を正統化するために「クマソのタケルも我々をヤマトのタケルと認めたぞ」とアピールするために創った説話だったのではないだろうか。
嘘くさいエピソードが多いからと、ヤマトタケルを神話の世界の人物と、完全に決めつけてしまうことはできない。

ヤマトタケルは神話の人物ではない

実在性最古の10代崇神よりもタケルは後の人物

12代・景行天皇とヤマトタケルは4世紀の人物とされる。『古事記』や『日本書紀』では、初代神武天皇東征以降の話を「神話」はではなく「人間の歴史」として扱っている。
ただし、『日本書紀』は7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂された史書であるため、編纂時期から離れた時期、6世紀以前に関する記述などははあてにできない面もある。
それでも、10代・崇神天皇を実在した大王としてみる動きもあるし、17代・履中天皇あたりからなら実在視してよいだろう。
17代・履中と比較してヤマトタケルはそこまで年代も離れておらず、あくまで、ヤマトタケルは「神話」はではなく「人間の歴史」の時代の人物なのだ。

少なくとも、大御葬歌というものが葬儀のなかで歌われ、天皇家のために遺した歴史書とされる『古事記』にヤマトタケルのことが赤裸々に語られており、古代の天皇たちはヤマトタケルを実在の人物として疑っていなかったようだ。
詳細はわかりようもないが、歴代の天皇にとって、ヤマトタケルとは特別な存在であったようだ。


↑ページTOPへ