富士山の女神である木花之佐久夜毘売命を祀る浅間神社は、世界文化遺産の構成資産となった富士山周辺の8社をはじめ、全国に約1300社ある。その総本社とされるのが、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社である。富士山本宮浅間大社は静岡県富士宮市の本宮と富士山頂の奥宮からなり、8合目以上の約120万坪が奥宮の境内地にあたる。毎年7月10日に開山祭が実施され、8月末まで神職が常駐している。
社伝によると、7代孝霊天皇の時代に富士山が大噴火をし、麓は長期にわたって荒廃した。時代が下って11代垂仁天皇は、このことを憂い、木花之佐久夜毘売命を「山足の地」に祀ったとされる。木花之佐久夜毘売命を祀ったことで、活発に活動していた富士山は鎮まったという。また日本武尊が東征で駿河国(静岡県中央部)を通った際に、草原で火攻めに遭ったが、浅間大神に祈願したところ窮地を脱した。これに感謝した日本武尊は山宮で祀ったとされる。
富士山本宮浅間大社はもともと現在の山宮浅間神社(下を参照)がある地に祀られていた。
現在地に遷座されたのは大同元年(806)で、坂上田村麻呂が51代平城天皇の勅命を奉じて社殿を建立した。
駿河国の一宮として広く信仰され、建久4年(1193)、源頼朝は富士山麓で巻狩りを行った際に流鏑馬を奉納してかいる。また戦国時代に甲斐国(山梨県)を支配した武田信玄も浅間大神を崇敬しており、信玄が寄進した桜は「信玄桜」と呼ばれている。初代将軍となった徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利したことを感謝し、慶長9年(1604)に本殿や拝殿などを造営している。
本宮境内には富士山を源泉とする湧玉池がある。かつては、この池で禊をするのが富士山登拝の慣わしだった。また本殿は浅間造りという独特な様式で、神社建築としては珍しい2階建てになっている。
富士山本宮浅間大社の元宮であり、富士山本宮浅間大社から富士山頂への登山道に鎮座している。
各地を平定した日本武尊が、駿河国(静岡県中央部)を通過する際に火攻めに遭ったものの、持っていた宝剣で草を薙いだことで難を逃れる。そのため、この宝剣は草薙剣と名付けられるようになったエピソードが知られる。社伝によると、この火攻めに遭った際に浅間大神に祈願したことで、窮地を脱することができたとされ、このことに感謝した日本武尊は浅間大神を祀ったと伝えられる。
山宮浅間神社は原始の信仰を残しており、本殿がなく、富士山の遥拝所がある。
この遥拝所は、富士山から流れた溶岩流の先端に位置している。山を遥拝する原始の富士山信仰を伝える。また伝承では、かつて村人たちが本殿を建てようとして、最終段階まで建築が進んだ。ところが棟上げ式を済ませたその日の夜に、大風が起こり完成間近の本殿は吹き飛ばされてしまった。その後も同じようなことが相次ぎ、どうしても本殿を完成させることができなかったという。
山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社から北に約6キロメートル離れた地にあり、明治時代初期までは、春と秋の2回、祭神が本宮と山宮との間を往復する山宮御神幸が行われていた。富士山本宮浅間大社の楼門前と山宮浅間神社には、鉾立石と呼ばれる石が残っている。
山宮御神幸では祭神の神霊が鉾に遷されて運ばれるが、休憩するときに鉾を地面につけるのは恐れ多いことから、道中に鉾立石が設けられ、この上に鉾を下ろした。平成18年(2006)の浅間大社遷座千二百年祭では、この山宮御神幸が再現された。
山宮浅間神社の境内からの発掘調査では、祭祀に使用されたと考えられる12世紀の土器が出土しており、古くからの富士信仰における聖地であったことがわかっている。
村山浅間神社は、村山口登山道の入口にあり、村山修験の中心地として発展した。
富士山に数百回登拝した末代上人は、久安5年(1149)に山頂に大日寺を建立した。その後、末代上人に関連する僧侶によって、寺院が建立されたと考えられており、正嘉3年(1259)につくられた大日如来坐像が伝わっている。これが村山浅間神社の起源である。
明治時代の神仏分離までは、興法寺という寺院だった。興法寺には、仏を祀る大日堂、神を祀る浅間神社、末代上人を祀る大棟梁権現社の3つのお堂があった。
中世には、村山三坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)と呼ばれる宿坊が建ち並ぶとともに、東西に見張り用の施設である見付が設けられ、集落への出入りを取り締まるなど、修験の集落として発展した。
興法寺は、修験道の一派である京都の聖護院(本山修験宗総本山・聖護院門跡)の本山派に加わった。現在も京都聖護院との結びつきは深く、富士山開山祭などの行事には、京都の聖護院の修験者が、村山の修験者と一緒に儀式を行っている。
村山修験は明治時代の神仏分離まで、数百年続いた。境内には興法寺時代の中心的建造物だった冨士山興法寺大日堂が残っており、建物内には木造大日如来坐像や役行者像が祀られている。一方で、大棟梁権現社は廃止されることになったが、村山の人々によって裏山に高嶺総鎮守社が創建され、末代上人が村山の氏神として祀られることになった。
また、修験者が修行する水垢離場不動明王の石像が祀られた護摩壇など、神仏習合時代の名残を今に伝える。神仏分離後に、明治39年(1906)に登山新道が新たに開かれると登山道から外れたが、修験者の活動は1940年代まで続けられた。
須山浅間神社は、須山口登山道の起点に鎮座しており、御殿場口登山道が開かれるまで富士山東南麓の拠点として栄えた。須山浅間神社は、東口本宮冨士浅間神社を上宮として、南口の登山道の冨士浅間神社の下宮として、須山口登山道の開設とともに創建された浅間神社である。須山口登山道は、大同3年(808)に開かれたと伝わる、最古の富士登山道とされる。正治2年(1200)に記された『末代証拠三ヶ所立会証文』には、「東口珠山(須山)」とあるため、少なくとも鎌倉時代には登山道があったと考えられる。神社に所蔵される棟札から、大永4年(1524)には社殿が存在していたことがわかっている。
社伝によると、日本武尊が東征の際にこの地を訪れて創建したと伝えられ、29代欽明天皇の時代の552年に蘇我稲目が再興したと伝えられる。天元4年(981)には平兼盛によって再建されたほか、建久4年(1193)に、源頼朝がこの地で巻狩りをしたと伝えられる。その後も駿河国(静岡県中央部)を支配した今川家や甲斐国(山梨県)を支配した武田家などの武家からも信仰された。江戸時代には代々小田原城主が信仰した。
江戸時代初期には年間5000人の登拝者で賑わった須山口登山道だったが、宝永4年(1707)に起きた宝永大噴火によって、須山口登山道と須山浅間神社は甚大な被害を受けた。勝田惣次郎とその息子の勝田茂衛門によって、安永9年(1780)に須山口登山道が復興し、神社も再建された。19世紀には、登拝者の世話をする御師の宿泊施設が12軒あった。明治22年(1889)に東海道線が開通すると、駅に近い御殿場口登山道が人気となり、須山口登山道は衰退するようになった。明治45年(1912)に須山口一帯が陸軍の演習場として接収されると須山口登山道は廃道となった。
平成11年(1999)には須山口下山歩道が完成し、現在の須山口が形成された。
富士山の東方から山頂を目指す須走口登山道に鎮座する社で冨士浅間神社と呼ばれる。
延暦19年(800)に富士山が1ヶ月にわたって噴火。さらに延暦21年(802)、富士山の東側で大噴火が起きた。東海道の本道である足柄峠も通行困難になるなど、大きな被害がでた。当時の国司(地方の行政長官)が、度重なる富士山の噴火を鎮めるために、富士山東面の須走の地で祭祀を行ったところ、富士山の噴火が収まった。
このことから51代平城天皇の時代の大同2年(807)に、浅間大神を祀ったことが冨士浅間神社の創建とされる。
平安時代初期には空海がこの地で修行を行い、富士山に登拝したという伝承から、江戸時代まで弘法寺浅間宮と称された。
江戸時代に一般庶民による富士登拝が盛んになると、須走口登山道2合目の雲霧神社、4合目の冨士御室浅間神社、5合目の古御岳神社、6合目の胎内神社、9合目の迎久須志之神社において、祭祀が行われるようになった。
宝永4年(1707)の宝永大噴火では、約4メートルの降灰で境内が埋没したが、幕府による復興支援によって享保3年(1718)には社殿が再建されている。
修験道が盛んだった富士山周辺の浅間神社では、明治時代の神仏分離によって大きな影響を受けた。
しかし、須走の冨士浅間神社では、大正時代から昭和時代初頭にかけて隆盛する。その契機となったのが、明治3年(1899)に須走村まで馬車鉄道が開通したことである。
さらに明治36年(1903)には都留馬車鉄道・富士馬車鉄道が大月まで開通。冨士浅間神社は多くの参拝者で賑わうようになった。須走口登山道の起点にあたり、登拝回数が刻まれた記念碑が約80基残っている。
貞観大噴火で創建された甲斐国最古の浅間神社。
河口浅間神社は、富士五湖の1つである河口湖の北東に鎮座する神社である。浅間神社では珍しく、「せんげん」ではなく古い呼び方の「あさま」と読む。
貞観6年(864)に発生した貞観大噴火では、富士山の北西麓の1合目から2合目あたりで地割れが発生し、溶岩流が溢れ出た。この溶岩は2ヶ月間にわたって富士山の北西部の広範囲に広がり、のちに青木ヶ原となった。またこの貞観大噴火では、「せのうみ」と呼ばれた巨大湖が2つに分断され、現在の富士五湖が形成された。青木ヶ原の樹海には溶岩が多くあるが、これは貞観大噴火のときのものである。
この大規模な富士山の噴火を鎮めるために創建されたのが、河口浅間神社である。
それまで浅間神社は駿河国(静岡県中央部)側にしかなかったが、甲斐国(山梨県)の国司が朝廷に奏上し、甲斐国側にも浅間神社が建てられることになった。境内には、創建当時から立つ推定樹齢1200年ともいわれる七本杉がある。
修験道が盛んになると、長野・山梨・埼玉県方面の登拝者が多く訪れ、河口御師の町が形成され、最盛期には140軒もの宿坊があったと伝わる。江戸時代、富士山周辺の浅間神社で修験道が発展したことから、徐々に吉田口(北口)の吉田御師が主流となり、登山道から外れている河口御師は衰退していった。
富士山の信仰は、富士山を小高い丘から遥拝する形式から、修験道、そして登拝と発展していくが、河口浅間神社はこの3つの信仰形態を備えている。
令和元年(2019)には遥拝所「天空の鳥居」が建立されているほか、富士山を模したミニ富士山の登拝を行うことができる。
神社の北東には、修験者が禊や滝行を行う母の白滝と父の白滝があり、河口浅間神社から山宮を経由して奥宮(白滝神社)を経由するルートで登拝を行うことができる。平成11年(1999)には須山口下山歩道が完成し、現在の須山口が形成された。
長谷川角行が登拝した登山道に鎮座
吉田口登山道2合目に鎮座する冨士御室浅間神社は、富士山中で最も早く祀られた神社ともいわれる。
冨士御室浅間神社は、本宮と里宮の2社から成る。社伝によると本宮の創建は42代文武天皇の時代の699年のことで、藤原義忠によって富士山2合目に浅間大神を祀ったのがはじまりとされる。
その後、和銅元年(708)に祭場が設けられ、養老4年(720)に祭祀場を保護する雨屋、大同2年(807)に社殿が建立された。
富士山中に最も早く祀られた神社ともいわれ、「御室」の社名は、かつて祭祀が執り行われた、石柱をめぐらせた施設に由来する。
里宮の創建は、天徳2年(958)には、62代村上天皇によって河口湖の南岸に里宮が創建されたとする。
吉田口登山道に位置するため、中世には修験道が隆盛。戦国時代には武田家から信仰され、武田信玄直筆の安産祈願文が残されている。江戸時代には富士講と結びついて隆盛した。
昭和39年(1964)に河口湖から富士山5合目を結ぶ富士スバルラインが開通すると、吉田口登山道の登山者が減少。本宮社殿の維持・管理のために、昭和48年(1973)に富士山2合目から里宮に移築された。この本殿は、慶長17年(1612)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建立されたもの。本宮本殿があった本宮境内地には現在、奥宮がある。奥宮は富士吉田市の中に位置しているが、奥宮の境内地は富士河口湖町の飛び地となっている。
冨士御室神社は河口湖の南岸に位置しており、本宮は富士山を背に、里宮は河口湖を背に向かい合うように建てられており、湖と山が一体となって信仰される地となっている。
吉田口登山道の入り口に鎮座している北口本宮冨士浅間神社は、12代景行天皇の時代に、日本武尊によって創建されたと伝えられる。
記紀では、日本武尊が相模国(神奈川県西部)から甲斐国(山梨県)の酒折宮に向かったことが記されているが、社伝ではその際に大塚丘を訪れ、「この地から富士山を遥拝するように」といい、鳥居を建立したという。その後、祠が建立され、浅間大神と日本武尊が祀られた。
『続日本紀』に記された天応元年(781)における富士山の噴火が最古の記録とされる。このとき甲斐の国守だった紀豊庭が卜占(占い)をして、延暦7年(788)に大塚丘の北方の現在地に社殿が建立された。現在、大塚丘には小さな社があり、日本武尊が祀られている。
平安時代以降、修験道が広まり、江戸時代に富士講が盛んになると、吉田口は富士講の中心地として栄えた。上吉田口の御師町には富士信仰を全国に伝えた御師住宅が残っている。
長谷川角行は、元亀3年(1572)に初めて吉田口から富士山を登拝したと伝えられる。その後、富士講の1つである村上講を大きな講にしたのは、角行の6世の弟子にあたる村上光清である。村上光清は享保18年(1733)から元文3年(1738)にかけて幣拝殿、神楽殿、随神門などを造営し、境内の整備を行った。
武士からも信仰され、東宮本殿は貞応2年(1223)に北条義時によって造営されたのち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建したので、境内の社殿で最も古いものである。また西宮本殿は文禄3年(1594)に浅野氏重によって造営された。現在の本殿は、元和元年(1615)に鳥居成次によって造営されたもので、東と西に旧社殿が遷された。
富士山周辺の8社の浅間神社にはさまざまな祭事があるが、富士山の山開き後には、富士登山客が加わり、各社は一層の賑わいを見せるようになる。
登山口に鎮座する神社では、山開きに伴い、開山祭が行われる。富士山の山開きは、山梨県側は7月1日頃から、静岡県側は7月10日頃からである。そのため、開山祭は山梨県側からはじまる。
吉田口に鎮座する北口本宮浅間神社では山開きの前日の6月30日に前夜祭が行われ、金鳥居市民公園に富士講や山伏、御師、氏子総代などが集まり、神職からお祓いを受ける。その後、集まった人々は、富士講の「かけ念仏」とともに御師町を練り歩き、北口本宮冨士浅間神社に向かう。
7月1日の開山祭では神楽が奉納され、富士登山の安全が祈願される。神事ののちに神社の裏手の旧社地・大塚山でお境参りが行われる。開山祭が無事に終了したことを浅間大神に報告し、富士講によるお焚き上げが行われる。
また静岡県側では、須山口の須山浅間神社と須走口の東口本宮冨士浅間神社でも7月1日に開山式が行われる(山開きは10日)。
静岡県側の富士宮市に鎮座する村山浅間神社と富士山本宮浅間大社では、7月10日に開山祭が行われ、登山の安全祈願が行われたのちに開山が宣言される。
村山浅間神社では山開きに伴い、山伏などが水垢離場で禊を行う。富士山に入る前に山から湧き出る神聖な水で罪や穢れを祓い清める。
富士山本宮浅間大社では、拝殿できり出された忌火でつけられた手筒花火が披露される。旅の安全を祈る切り火(火打石を鳴らす作法)は古くからあるが、この手筒花火も清らかな火で、登山客を祓い清めるためだろう。
山開き後には神職が登山し、翌日11日には富士山の山頂にある奥宮でも開山祭が行われる。霊山の火は御神火と呼ばれ、神聖視される。
8月5日には富士山頂の奥宮できり出された御神火が麓に運ばれ、8基の御神火神輿(御神火台)に点火される。御神火神輿は市内を巡った後に、湧玉池から流れる神田川をさかのぼる。
8月下旬には、まず富士山頂の奥宮で閉山祭が行われる。閉山祭後に閉山にむけて室閉め作業を行う。
山梨県側の閉山の儀式として知られているのが、日本三奇祭に数えられる吉田の火祭り(鎮火祭)である。北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社の祭事で、毎年8月26日、27日に行われる。明神神輿の「お明神さん」と、富士を表す「御影(お山さん)」の2基の神輿が町内を巡る。高さ約3メートルの大松明90本以上が点火され、約2キロメートルにわたる道が照らし出される。この火祭りは、火中出産をした木花之佐久夜毘売命の故事に由来するといわれる。
麓の富士山本宮浅間大社で閉山祭が行われるのは9月11日である。