坂上田村麻呂

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ:田村麿)は、平安時代の公卿・武官。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。
蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。
死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。
現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。

征夷大将軍として活躍した武人

蝦夷を平定した武将

坂上氏は後漢霊帝の末裔・阿知使主(あちのおみ)を先祖と伝える渡来系の豪族で、武門の一族として名を馳せた。
特に平安時代に、坂上犬養(いぬかい)、苅田麻呂(かりたまろ)、田村麻呂(たむらまろ)と続いた三代の間に大きく躍進し、田村麻呂は右近衛大将(うこんえのだいしょう)から、右大臣に次ぐ要職大納言にまで昇進している。

征夷大将軍として蝦夷を併合

田村麻呂の名を後世にまで轟かせている最大の事績は、蝦夷討伐における輝かしい武勲だ。
数度にわたり蝦夷討伐戦に参加していた田村麻呂は、最高指揮官の征夷大将軍に任命される。
そして、その能力を遺憾なく発揮し、長年朝廷軍を苦しめていた蝦夷の大将、アテルイとモレの二人を降伏させる事に成功する。

滋賀県甲賀市に鎮座する田村神社

武人である一方、富士山本宮浅間大社の社殿造営や清水寺の創建に関わったと伝えられるように、田村麻呂は生前から神仏とも縁の深い人物であった。 死後には田村麻呂自身も神として祀られるようになる。
田村麻呂を祭神とするのは、滋賀県甲賀市に鎮座する田村神社だ。

要衝地に祀られた神

田村神社のある一帯は鈴鹿峠と呼ばれた近江・伊勢の国境となる要衝だったが、嵯峨天皇の頃、ここに人々を苦しめる悪鬼が出没する様になった。
心を痛めた天皇は田村麻呂に悪鬼の退治を命じ、勅命を奉じた田村麻呂は見事に悪鬼(賊)の討伐に成功する。
そして田村麻呂の没後、その死を悼んだ天皇は所縁の鈴鹿の地に田村麻呂を祀らせる事にしたのである。

武の象徴として崇敬

蝦夷や悪鬼にも打ち勝った田村麻呂は、早くも平安時代から武の象徴として崇敬されてきた。
蝦夷討伐の為の臨時職であった征夷大将軍を、偉大な功績によって武家を象徴する職へと押し上げ、宮廷人としても大納言まで昇り文武両道を極めた田村麻呂。
彼は現在、あらゆる勝負事に神徳抜群の神として信仰を集めている。

勝利をもたらす神、厄除けの神

勝負事の神である事から、商売の世界ではコンペに勝利をもたらす神として崇敬される。
また退治した悪鬼が流行らせた疫病を封じたという伝説から、厄除けの神としても有名だ。


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