平城上皇

平城上皇と「薬子の変」

桓武天皇により平安遷都がなされて間もなく、平城天皇が即位、後に嵯峨天皇に譲位する。 上皇となった平城上皇が平城京遷都を企てる事件が起こる。 一般に「薬子の変」は藤原薬子という女性が平城をたぶらかし暗躍したと伝わるが、平城は優れた実績を残すも精神面で問題があったされ、平城が暴走しただけともされる。

目次

平城天皇〜桓武に代わり即位

弟・神野親王がのちに嵯峨天皇に即位

延暦25年(806)3月17日、桓武天皇が崩御する。
これにより皇太子の安殿親王が皇位を継承し、同年5月18日に大極殿で即位。これにより50代平城天皇の御代となった。
元号を「大同」と改めた天皇は、同母弟の神野親王を皇太弟とした。

非礼とされる「大同」への改元

六国史の第三『日本後紀』は、この改元に関して、儒教思想の孔子の道の観点から「非礼なり」と猛批判している。
年を越さないうちに、父帝が制定した元号を改めるのは、子としての道に外れるというわけだ。

「古の聖王にも劣らない」と評価された平城天皇

ただ、これは平城天皇の革新性の表れともみられる。
即位後の平城天皇は前例にとらわれることなく、次々と新しい施策を講じているからだ。
官僚機構の改革、地方統制の強化、儀式の簡素化による地方負担の軽減。
『日本後紀』はこれらの実績を踏まえて、「古の聖王にも劣らない」とも賞賛している。

猜疑心が強く寛容ではなかった、とされる

しかし、人間的には問題があったらしく「猜疑心が強く、人の上に立ちながら寛容ではなかった」と記している。
これは即位の翌2年10月に起こった伊予親王謀反を踏まえての記述だ。

伊予親王の謀反〜恣意的な刑

もう一人の平城の弟・伊予親王

伊予親王は桓武天皇と藤原南家出身の吉子との間に生まれた皇子で、平城天皇の異母弟に当たる。

家人に謀反を勧められた、ことにより自害に

謀反と言っても実際に画策したわけではなく、「家人に謀反をすすめられた」という噂が流れた程度だったようだ。
これを大納言・藤原雄友が聞き、右大臣の藤原内麻呂に注進した。
取り調べの結果、伊予親王は有罪となり、母親とともに大和(奈良県)の川原寺に幽閉されて自殺に追い込まれ、多くの人々が事件に連座させられた。

とくに証拠もなく一方的に罰してしまった

この事件に関して『日本後紀』は、「世間は“淫刑”だと論じた」と記している。
淫刑とは「恣意的な刑」という意味だ。
物的証拠があるならともかく、うわさ程度で厳罰に処しては、勝手気ままと批判されても仕方ないだろう。
国史学の村尾次郎氏は、『桓武天皇』(吉川弘文館)の中で同事件に触れ、「平城天皇の不安定な精神状態にも原因の一端があるのではないだろうか」と推理している。

藤原乙叡との確執〜忘れた頃に仕返しか

身体虚弱で精神的にも不安定だった平城

平城天皇は実際、皇太子時代から身体・精神の両面で不安定だった。
体質が虚弱なために病気がちで、神経質で檄しやすく、一度根に持つと決して忘れず、仕返しせずにはいられない性分だったという。
藤原乙叡との確執はそのあたりの事情を物語る。

全く関係のない確執から乙叡を処罰

藤原乙叡は右大臣・藤原継縄の子。『日本後紀』「薨卒伝」には、「性頑驕」と記されているから、相当わがままな性格だったようだ。
この乙叡は伊予親王事件の際、連座させられている。
平城天皇が皇太子だった時期、宴会の席で無礼を働いたことが原因だった。
長らく根に持ち、忘れた頃になって意趣返しをしたわけだ。
当人は不満を抱きつつ48歳で没した。

薬子と平城(皇太子時代)の不穏な関係

藤原薬子は暗殺された藤原種継の娘

この平城天皇のかたわらには、皇太子時代から、藤原薬子という女性がいた。この人物は、日本史上「薬子の変」で名を残している。
藤原薬子は長岡京造営中に暗殺された藤原種継の娘だ。

薬子は平城の義母、が、関係を持ってしまう

薬子は藤原縄主の妻となって三男二女を設けており、長女は皇太子時代の平城天皇に嫁している。
これを機に薬子は皇太子殿に出入りするようになり、あろうことか娘婿と情を交わすのだ。

桓武天皇が激怒、薬子を追放する

皇太子が義理の母親と通じるなど、あってはならないことだ。
桓武天皇は激怒し、薬子を宮中から追放した。

平城即位後、薬子&兄が宮中へ

しかし、即位した平城天皇は薬子を召喚。
薬子は堂々と宮中に入るようになり、尚侍(女官長)となって後宮で権力を振るい、天皇の寵愛をほしいままにした。
また、薬子の兄・藤原仲成も天皇の引き立てによって、政権の中枢に参画するようになった。

嵯峨天皇が即位し、平城が上皇に

健康上の理由から譲位か

大同4年(809)4月、平城天皇は約3年で皇位を皇太弟の神野親王に譲り、上皇となる。
これにより52代嵯峨天皇が誕生した。
譲位の理由に関して『日本後紀』は、同年2月26日の条に、貴人の病を意味する「不予」と記す。
虚弱体質な点を考えると、健康上の理由で譲位に踏み切ったと推察される。

平安京と平城京、二所朝廷という状況に

平城上皇が旧都・平城京へ

薬子の兄・藤原仲成が旧都・平城京に宮廷を造営すると、平城上皇は静養のため同地へと移った。

健康回復後、上皇が国政に口を出し始める

健康を回復するや平城上皇は、国政に口を出すようになる。
退位したとはいえ、上皇には相応の権限がある。
これにより国の舵取りをする都が、平安京と平城京に並立する「二所朝廷」という状況に陥ってしまう。

薬子の変〜上皇が平城遷都を強行

平城の旧都遷都に、嵯峨天皇が武力行使

世情が騒然とする中、弘仁元年(810)9月、突如として平城上皇が平城京遷都を命じる。
対して嵯峨天皇側は「武力鎮圧しか収束の道はなし」と判断。

薬子を追放、兄・仲成を誅殺

同月10日、平城上皇の要請に応じて、造営使を任命して従うふりを見せつつ、伊勢(三重県北中部)、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県南部)の国府と関所を押さえると、藤原仲成の身柄を拘束して誅殺。
さらに薬子の官位を解いて追放処分とした。

平城は降伏し許しを請うが、薬子は自害する

これを知って激怒した平城上皇は、薬子を伴って平城京から脱出。
東国に活路を求めるが、嵯峨天皇方の軍勢に進路を阻まれて、12日に平城京に帰還した。
平城上皇は剃髪して恭順の意を示し、薬子は毒を仰いで命を絶った。

一般的には薬子と兄・仲成が悪役とされるが…

歴史上、「薬子の変」と呼ばれるこの政変劇は今まで、嵯峨天皇派と平城上皇派の対立が根底にあり、藤原仲成・薬子の兄妹が主導して起こった事件とされてきた。

まだ院政が存在していなかった故の衝突か

しかし、近年では平城上皇の暴走こそ、変の主体であったとの見方もでてきている。
責任を平城上皇に負わせることができないため、『日本後紀』が藤原兄妹を悪しざまに書いたというのだ。
また、両者の間に明確な対立はなく、二重権力の矛盾が噴出した結果など、諸説が提示されているのが現状である。
この時代にはまだ院政が成立しておらず、こういう衝突に陥ったのは必然であったともいえる。

平城はその後、とくにお咎めはなし

その後も平城上皇は平城京に滞在、さらに「太上天皇」の称号はそのままとされた。
その他、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けており、かつてとさして変わらない待遇が保障された。
やはり、薬子と兄・仲成が悪役にされただけだったのだろうか。
薬子と仲成の死をしり目に、平城上皇はその後も14年ほどの余生をおくっており、824年8月5日(弘仁15年7月7日)に崩御した。


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