宗像大社の歴史

宗像大社〜創建と歴史

目次

建国神話を彩る海の女神

宗像大社(むなかたたいしゃ:福岡県宗像市)は七千余ある宗像神社、厳島神社、宗像三女神を祀る神社の総本社。記紀に記された日本最古の神社の1つ。

記紀に記された神宿る島・沖ノ島には、4世紀から20世紀にかけての祭祀跡が数多く残る。基本的に宗像大社の神職以外の入島は許されず、現在も原始の信仰を守り続けている。一方で、沖ノ島の祭祀についての記録は残されていない。

記紀に記された最古の祭祀場の1つでありながら、歴史のベールに包まれた沖ノ島の祭祀はどのように行われてきたのか。宗像大社の歴史を簡単にまとめる。

記紀に創建と起源が記された宗像大社

詳しい創建年代は不明

記紀に創建と起源が記されている宗像大社の詳しい創建年代は明らかになっていないが、古代より信仰され、ヤマト王権から重要視されていたのは間違いない。

雄略天皇とも関わり、航行の安全を司る神

『日本書紀』では、21代雄略天皇の時代にも宗像三女神の記述がある。
雄略天皇が新羅国に遠征しようとしたが、宗像三女神から「ならぬ」との神託が下ったとされる。雄略天皇はこれに従い、遠征を中止にした。
このことから、その後も宗像三女神は海上交通を司る重要な神として認識されていたことがわかる。

宗像氏〜朝廷と深く結んだ氏族

中央政権が重要視した宗像郡と宗像大社

辺津宮(へつみや)がある宗像の地はもともと宗像郡(宗像市、福津市)と呼ばれ、645年の乙巳の変後には、全国に8つしかない神郡となった。
神郡とは、国家にとって重要な神社が所領する社地のことで、宗像郡は九州で唯一の神郡だった。
このことからも宗像大社が中央政権から重要視されていたことがわかるだろう。

古事記では「胸形君」と記された宗像氏

『古事記』には、「この三柱の神は、胸形君等のもち拝く三前の大神なり」と記されている。
この胸形君がのちの宗像氏となる。

出雲と結び付き、広い海域を支配

宗像氏の祖はオオクニヌシの子孫、出雲と深い結びつき

宗像三女神が出雲の神に嫁ぐ神話が残っているように、古くから出雲との結びつきが深い。
『新撰姓氏録』では、宗像氏の祖とされる吾田片隅命は、大国主神の6世孫とされる。あるいは宗像三女神の7世孫ともいわれる。

宗像氏は九州北の海域を支配した海洋族とも

伝承によると、宗像氏は宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る広大な海域を支配した海洋族とされる。

長屋王と高市皇子は宗像氏の血筋

天武天皇に女性(尼子娘)を嫁がせ、高市皇子が生まれる

中央との結びつきも強く、宗像(宗形)徳善は大海人皇子(40代天武天皇)に娘の尼子娘を嫁がせた。
尼子娘が産んだ高市皇子は第1皇子(長男)だったが、尼子娘は皇族出身ではなかったため、皇族を母とする皇子よりも皇位継承の順位が下だった。

宗像氏の血族が、天皇に即位していた可能性も…

高市皇子は太政大臣まで務めたが、天皇に即位することはなかった。
ただし、高市皇子の長男である長屋王の邸宅跡から「長屋親王宮鮑大贄十編」と書かれた木簡が発見されたことから、高市皇子が天皇に即位したという説もある。
「親王」は天皇の皇子につけられる称号のためだ。

平安時代、大宮司を宗像氏が世襲

大化改新以降、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任してきたが、平安時代に入ると兼職が禁止された。
そこで新たに大宮司の職が設けられ、宗像氏が世襲した。
初代大宮司の清氏は、59代宇多天皇の皇子ともいわれる。

宗像大社に時代の天皇がたびたび勅使を派遣

宗像大社が朝廷から重要視されていたことは、天皇の使者である勅使がたびたび遣わされたことからもうかがえる。
古くは5世紀の21代雄略天皇の時代にはじまり、54代仁明天皇の時代の承和5年(838)と承和9年(842)、56代清和天皇の時代の貞観11年(870)、68代後一条天皇の時代の寛仁元年(1017)に勅使が送られている。

武士化した宗像氏、1586年に断絶してしまう

宗像氏はその後、武士化し、戦国時代には大友氏の侵攻をしばしば受けた。
天正14年(1586)に79代大宮司の宗像氏貞が亡くなったことで宗像氏は断絶した。現在は大宮司の職がなく、宮司が神職の長となっている。

辺津宮の社殿〜小早川隆景が再建

遅くとも12世紀までに築造、焼失と再建を繰り返す

辺津宮の社殿は、遅くとも12世紀までには築造されたことがわかっているが、その後の戦乱で何度も焼失した。
弘治3年(1557)にも社殿が焼失するが、翌年に大宮司の宗像氏貞が再建。

現在の社殿は1590年に小早川隆景が建てたもの

さらに天正18年(1590)には、宗像の地を治めた小早川隆景によって拝殿が再建されており、これが現在の社殿である。
江戸時代には福岡藩黒田家によって信仰され、代々社殿の修理費用が寄進された。

出光佐三による調査と復興

近代以降はそこまで隆盛せず

明治維新後に官幣中社に、その後、官幣大社に列せられた。
高い社格を有した宗像大社だったが、近代以降は必ずしも隆盛したわけではなかった。

出光興産の創業者・出光佐三が復興に尽力

昭和12年(1937)、宗像郡の出身で、出光興産の創業者である出光佐三が宗像大社に参拝したところ、ひどく荒廃していることに驚いたという。
出光佐三は、昭和17年(1942)に「宗像神社復興既成会」を自らが中心となって発足し、社史の編纂に着手した。

戦後に施設の修復・建設がおこなわれる

戦後の混乱期の後にも、出光佐三の篤い信仰は変わらず、昭和29年(1954)から数次にわたって沖ノ島の学術調査を実施した。
昭和46年(1971)には悲願だった昭和の大造営が完了し、本殿や祈願殿のほか、さまざまな施設の修復・建設が完了した。
ちなみに出光興産の支社や事業所では宗像大社の分霊を祀った宗像神社が勧請されている。

2017年、ユネスコの世界文化遺産に登録

宗像大社は平成29年(2017)には、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、古代の信仰を現代に伝える。

離島に祭祀場がつくられた経緯

スサノオから生まれた三女神が宮に鎮座

宗像大社の三宮は海上交通の要路地にある

宗像大社は、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(大島)、辺津宮(本土)から成る三宮を一体とする神社である。
三宮は、大陸への海上交通の要路地にあり、古代から政治、経済、文化がもたらされる海上路でもあった。

三女神は天照の命で宗像の地に降臨、3つの宮に鎮まった

祭神の3柱の女神は、天上世界で素戔嗚尊(スサノオノミコト)が天照大御神に対して身の潔白を証明するために「誓約」をした際に誕生した。
その後、天照大御神は三女神に「筑紫の国(九州)に降り、沖津宮、中津宮、辺津宮に鎮まり、歴代のまつりごとを助けよ」という神勅を下した。
こうして三女神は宗像の地に降臨して、それぞれ鎮まったといわれる。

遣唐使が廃止され、海上交通の安全祈願がストップ

昭和29年(1954)から行われている数次の調査によって、沖ノ島には4世紀から10世紀末まで続けられていた祭祀の遺物が大量に残されていることが確認されている。
祭祀が停止されたのは、寛平6年(894)に遣唐使が廃止されたことが影響している。
公式な使者が大陸に送られなくなったため、海上交通の安全を祈願する国家祭祀が行われなくなったのである。

山岳信仰に近い神社の形態

山を御神体とする場合も宮が分けて置かれる

沖合の島と港町に社殿を置く形態は全国的にも珍しいが、山岳信仰に置き換えるとわかりやすい。
山自体を神として信仰する神社は全国にあるが、特に山域が広範囲に及ぶ山では、頂上に奥宮、中腹に中宮、麓に里宮(あるいは前宮)が鎮座していることが多い。
例えば、日本を代表する霊山である立山では、山頂に立山頂上峰本社、中腹に芦峅中宮祈願殿、麓に岩峅寺前立社壇が置かれている。
宗像大社の三宮も、沖津宮を奥宮、中津宮を中宮、辺津宮を前宮と同様に考えられる。

沖ノ島祭祀の変遷〜岩上祭祀にはじまる

“沖ノ島祭祀”と“神社祭祀”の変遷は一致する

沖ノ島の祭祀は4つの段階に分けられる。そして、その変遷は、日本の神社祭祀の形態の変化と一致する。

岩上祭祀と岩陰祭祀〜岩を依り代とする

まずヤマト王権が政権基盤を安定させ、外交に乗り出した4世紀後半から5世紀にかけては、巨石の上で祭祀が行われた。沖ノ島では巨大な岩が12個ほどある。
この岩上祭祀は、露天で行われることから、神は天から降りてくることになり、天津神への祈りだったとも考えられる。
次に5世紀後半から行われた岩陰祭祀である。
岩上祭祀と同じく磐座信仰に基づくもので、岩陰からは豪華な宝飾品や祭祀用の器などが出土している。

巨石から離れた場所で祭祀が行われるように

古墳時代の終わりにあたり、記紀が編纂された時期にもあたる7世紀後半から8世紀前半にかけては、巨石から少し離れた場所で祭祀が行われるようになり、半露天・半岩陰での祭祀となった。
そして、8世紀から10世紀になると、完全に露天での祭祀となる。

巨岩の前の社殿で祭祀が行われるように

時代が下るにつれて、岩の上から岩の下、さらに少し離れた場所へと祭祀場が移されていったのである。
現在では、巨岩の前に社殿がつくられ祭祀が行われている。

やがて沖ノ島祭祀は軽視されていった

沖ノ島の祭祀の終末期には、出土品は外来の豪華なものではなく、国内でつくられた比較的簡素なものに変わっている。
祭祀の重要性が低下したためか、あるいは露天祭祀のために多くの人々が見ることになり、秘儀である意味合いが薄れたため、とも考えられる。

遣唐使船の航路変更が祭祀に影響か

宗像大社は航路の安全祈願を行っていた

宗像大社では、遣唐使船の航路の安全祈願が行われたが、この遣唐使船の航路の変更が祭祀の重要性の低下を招いた可能性が指摘される。

国際都市、唐の長安へ日本が派遣した外交団

618年から907年まで続いた唐王朝の都・長安は、世界各国から人材が集まる国際都市だった。
この唐の長安に倭国からも積極的に人材が派遣された。それが遣唐使である。

630〜894年、計15回派遣された遣唐使

遣唐使は34代舒明天皇の時代の630年以降、唐の滅亡直前の寛平6年(894)に菅原道真の建議によって停止するまで続けられた。
遣唐使任命は18回行われ、実際に渡海したのは15回である(3回は中止)。

唐津→壱岐→対馬と並行に並ぶ宗像三宮

3世紀末に記された中国の歴史書『魏志』倭人伝には、日本と大陸とを結ぶ最古の記述がある。
これによると、博多(奴国)、唐津(末盧国)、松浦などから壱岐(一支国)、対馬(対馬国)を経由して朝鮮半島の釜山に行くルートとなっている。
この海上ルートと並行するように、宗像大社の三宮は位置している。

宗像三宮の近くを通っていた遣唐使船が通らなくなる

遣唐使船の航路は3つあった。
まず7世紀の航路では、『魏志』倭人伝と同様に、九州北部から壱岐、対馬を経由して、朝鮮半島沿岸を経由するルートだった。
ところが、朝鮮半島の新羅との関係がたびたび悪化した8世紀以降は、奄美や琉球を島伝いに進む南島航路が取られた。

宗像三宮が安全祈願の役割から外れたか

さらに、8世紀後半には九州北部を出発して直接長江河口域を目指すルート・南路に変更された。
つまり、露天祭祀に移行する8世紀は、沖ノ島や大島に近い壱岐を経由するルートは使われなくなった時期でもあるのだ。
航路が代わったことで祭祀の重要性が変化し、その内容も変わっていったのではないだろうか。

宗像大社のお祭り

みあれ祭〜勇壮な漁船が行く海上絵巻

10月1日から3日に行われる神迎えの神事

宗像大社では、三宮でそれぞれ年間を通じてさまざまな祭事があるが、代表的な祭りが【みあれ祭】である。10月1日から3日まで行われる秋季例大祭の第1日目に行われる。「みあれ」とは「御生れ」と書き、神の出現を意味する。

もとは「御長手神事」と呼ばれていた

みあれ祭は、中世には「御長手神事」と呼ばれていた。春夏秋冬の4回、宗像三女神を象徴する紅白の旗竿をたてた船が沖津宮から辺津宮にやってきて迎え入れる神迎えの神事だった。みあれ祭はこの御長手神事を昭和37年(1962)に再興したものである。

2隻の御座船に100隻以上の漁船団が続く

辺津宮と中津宮の神霊を乗せた2隻の御座船は、午前9時過ぎに大島を出発。宗像七浦の漁船100隻以上が大漁旗を掲げて一斉に続く。海上神幸は15キロメートルにわたって玄界灘を進み、漁船が立てる白浪が幾重にも重なる勇壮な祭りである。10月1日にはこの海上神幸とともに陸上神幸も行われる。

流鏑馬と翁舞が奉納

秋季例大祭の2日目には流鏑馬と翁舞が奉納される。翁舞で用いられる翁面は、明応8年(1499)に大宮司・宗像氏国が海中に沈んだ鐘を引き上げようとした際に浮かび上がってきたと伝えられる古面である。翁舞は「能にして能にあらず」といわれる別格のもので、神聖視されている。

1375年まであった「八女神事」を再興

最終日となる3日目の夕刻には、高宮祭場で高宮神奈備祭が行われる。これは平成17年(2005)に、応安8年(1375)まであった「八女神事」を630年ぶりに再興したものである。神歌を奉唱後に巫女による神楽を奉納、「あおつみの餅」を供えるというものである。みあれ祭でお迎えした祭神に、秋季例大祭が無事斎行されたことへの感謝を、宗像三女神に奉告する神事である。

その他の四季のお祭り

五月祭〜5月5日の「浜殿五月会大神事」

かつては、みあれ祭と同等の祭事だったとされるのが、5月5日に行われる五月祭だ。みあれ祭が再興された翌年の昭和38年(1963)に再興された祭事である。中世には「浜殿五月会大神事」と呼ばれていた。現在は、五月宮の五月会と浜宮社の濱降り修祓が行われる。五月宮と浜宮社は玄界灘を望む河口の森に鎮まる社である。

古式祭〜12月15日前後の日曜日

みあれ祭と同じく長い伝統を伝えるのが、12月15日前後の日曜日に行われる古式祭である。約800年もの歴史がある神事で、特殊な神饌(九年母・ゲバサ藻・菱餅)を神前にお供えする。この神事後には、お供え物をいただく「御座」が行われる。同日の10時からは鎮火祭が行われる。祭壇で焚かれた火を、古式に則って瓢土川菜を用いて消火する神事で、火除けのご神徳がある。

古式の祭事を忠実に再興

宗像大社では、文献などをもとに古式の祭事の再興を行い、古い伝統を現在に伝えている。


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