仁明天皇

仁明天皇〜承和の変の黒幕か?

目次

権力争いが表面化し、承和の変が勃発

父は嵯峨天皇、母は橘清伴の娘・嘉智子。天長10年(833)、淳和天皇が譲位し第54代・仁明天皇となった。

嵯峨天皇は子が多く、一部は源朝臣の姓をもらって臣籍に降った。源言・源融ら嵯峨源氏は、清和平氏と並ぶ一大勢力へと発展する。嵯峨・淳和・仁明と平和な時代が続いたが、水面下では嵯峨上皇、藤原良房、藤原愛発、藤原吉野らの勢力争いが続いた。淳和上皇と嵯峨上皇が崩御すると、この争いが表面化する。伴健岑、橘逸勢らが皇太子・恒貞親王を擁してクーデターを計画(承和の変)。恒貞親王は廃太子となったが、実は藤原良房が仕掛けたねつ造だった。

平安京遷都後に誕生した最初の天皇。

  • 和諡:日本根子天璽豊聡慧尊
  • 生没:弘仁元年(810)〜嘉祥3年(850)3月21日
  • 在位:天長10年(833)3月6日〜嘉祥3年3月19日
  • 宮:平安宮
  • 陵:方形/深草陵(京都府京都市伏見区深草東伊達町)
  • 父:嵯峨天皇
  • 母:皇后(橘)嘉智子
  • 后:藤原順子、藤原沢子
  • 子:文徳天皇、宗康親王、光孝天皇など

国史『続日本後紀』は仁明の一代記

それまでの国史(六国史)と異なり、『続日本後紀』は仁明天皇の一代記となっている。

それまでの国史は天皇数代に記事が渡ったが

『続日本後紀』は六国史の第四となる国史だ。『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』が数代、もしくは数十代の天皇の御代を物語ったのとは異なり、天長10年(833)2月から嘉祥3年(850)3月までの仁明天皇一代を対象としている点が、先行する3つの書と異なっている。

仁明の子・文徳天皇が編纂を命じる

全部で20巻にわたる同書編纂の提案者は仁明の子である55代・文徳天皇だ。
文徳天皇は即位後、「父帝・仁明天皇の治世が長期にわたり、かつ善政を敷いたにもかかわらず、史書が編纂されておらず、忘却してしまうのを恐れた」との理由から、史書の編纂を命じた。

編纂者が途中で失脚、藤原良房と春澄善縄が編纂を終える

藤原良房・伴善男・安野豊道・春澄善縄といった朝臣たちが撰修を担当。
文徳天皇が崩御し、50代清和天皇に代替わりした後も継続され、貞観11年(869)に完成した。
編纂中に撰修者の入れ替えや脱落(応天門の変で伴善男が失脚、藤原良房の暗躍説あり)もあり、最終的には藤原良房と春澄善縄の二人のみが、序文に名を連ねている。

「実録」とは中国における帝の一代記に由来

天皇の一代記という形式を取ったのは、文徳天皇の意に加え、中国の実録を意識したためと推定されている。
いずれにしても複数の天皇をまとめて扱っていた国史に、「一代だけの国史」という新境地が開かれた。

日常の細事に関しては詳細は記録されず

序文では撰修方針について、「日常の些細なことは採録しなかったが、帝の言動に関しては、細大洩らさず採録した」との旨が記されている。
日常の細事を載せないのは、『続日本紀』以来の撰修方針だが、天皇の言動云々は、同書になって初めて示された撰修方針だ。
一代の国史であるのと同時に、天皇中心の国史というのが『続日本後紀』の形式で、仁明天皇の実像をうかがえる史書といえる。

物の怪への恐怖心を持っていた仁明

泰平の時代であった為、政治外の出来事が細かく記載

平安時代初期に当たる仁明天皇の御代は、さしたる事件もなく泰平の時代であった。
こうした時代性を反映したことと、天皇の一代記という編纂方針も影響して、多くの枚数を必要としない事項に関しても相応の量が割かれている。
しかし、これがかえって当時の世相を把握するための利点となっている。

物の怪に関して13条も記録がある

例えば、「地震があった」などの自然現象や、「彩雲が出現した」など不可思議な現象は先行する三書で記されているが、『続日本後紀』では、鬼神や物の怪など禍々しい存在に対する記述が多い。
特に物の怪に関しては13条もある。先行する国史には、この類の記述はほとんどなく、『続日本後紀』の大きな特徴だ。

物の怪に関して複数例を上げる。

鬼神によって病が蔓延している、と読経を命じる

承和2年(835)4月3日の条は「諸国で疫病が流行し、病で多人々が苦しんでいるのは鬼神の仕業」とし、仁明天皇が主要寺院に「大般若経」を読経させるよう命じた旨を記す。

物の怪がでたからと疫神を祀らせた

承和9年(842)5月27日条では、天皇が「近頃、物の怪が出現し、占って見ると疫気の兆しと出た。諸国に疫神を祀らせるべし」という勅命を出したとある。

物の怪を祓うため大規模な僧を動員する

承和10年(843)8月24日条には、物の怪を祓うため、100人の僧を内裏に呼んで「大般若経」を読経させ、30人の僧を真言院に派遣して、祈祷を行わせたと記されている。

撰者の春澄善縄も物の怪に怯えていた

当時の人々は物の怪を真剣に信じ、心の底から畏怖していた。
『続日本後紀』の撰修にかかわった春澄善縄などは、物の怪出現の報に接するたび、門を閉じて引きこもった。ひと月のうちに10回にも及ぶこともあったという。
同書中にも、善縄が「物の怪を占ったところ、亡者の祟りと出ました」と朝廷に訴え出た話が、承和11年(844)8月5日の項に見える。

不老不死の秘薬〜鉱物から調合

平安初期は不老不死の願望が強かった

平安時代初期は不老不死の願望が強い時代でもあった。この空気も『続日本後紀』の随所に反映されている。
もっとも敏感に反応していたのは仁明天皇その人で、『続日本後紀』の末尾にまとめられた仁明天皇の崩伝において、この点がうかがえる。

決して頑健ではなかった仁明、幼少から薬を服用

仁明天皇は虚弱ではないが、頑健とは言い難い体質で、幼少期から病気に悩まされていたようだ。
そこで七気丸・紫苑・姜薑など、植物から薬効成分を抽出した薬湯を服用した。これらは当初こそ効き目があったが、次第に効果がなくなっていった。
この際、仁明天皇は父の嵯峨上皇の勧めで「金液丹」を服用。病を克服した旨を記している。

金液丹〜中国由来の薬を重用していた仁明

金液丹は『和名類聚抄』に、「一名、不老不死丹」と記された丹薬だ。中国由来の薬で、黄金・水銀・硝石・雄黄などの鉱物を原料としている。
古代中国では不老不死を目指す神仙道が古くから盛んで、神仙説を集大成した葛洪撰の『抱朴子』によって、日本にも知識が伝えられていた。

鉱物由来の薬は安全性が憂慮されていた

鉱物由来の薬など安全か、という危惧は多くの官人や医師たちが有していたらしく、これら怪しげな薬を忌避する空気も強かったようだ。
例えば、仁明天皇が鉱物を原料とする「五石散」という薬を廷臣に出した際、多くの人が拒む中、藤原良相のみが服用し、天皇から賞賛された話が、第六の国史である『日本三代実録』の貞観9年(867)10月10日の条に見える。

「多様厳禁」として注意が必要をされた鉱物

実際、これらの薬は取り扱いが難しく、10世紀成立の医学書『医心方』が「万病に効く」としながらも、「養生の丹薬ではないから多様厳禁」と釘を刺し、11世紀成立の歴史物語『大鏡』が、「眼に副作用が出る」と記した劇薬中の劇薬であった。

金液丹と『竹取物語』との類似性

『続日本後紀』が記す金液丹のくだりは、10世紀初頭に成立した『竹取物語』において、月に帰るかぐや姫が帝に不老不死の薬を残す元ネタになったと推定されている。

不老不死の願望は永くは続かず

なお、不老不死願望は平安時代中期以降、「現世より来世を…」と願う浄土思想や、「仏法の終末期に入り、生きていても救われない」とする末法思想の流行により、次第に先細っていった。

承和の変〜上皇崩御の直後に政変

仁明の先代・淳和天皇の代に遡る

淳和が譲位、仁明が即位(二人は叔父と甥)

承和9年(842)に起こった承和の変の遠因は、53代淳和天皇から仁明天皇への皇位継承にある。
変から遡ること9年前の天長10年(833)、2月、淳和天皇は譲位し、3月に皇太子の正良親王が即位して、仁明天皇となった。
この二人は叔父と甥の関係に当たる。

淳和のまえは嵯峨天皇

淳和天皇は桓武天皇の第3皇子がで、嵯峨天皇(淳和の異母兄)が即位した際に皇太弟に立てられた。
嵯峨天皇が同年齢(ともに38歳)の異母弟を厚く信頼していた結果である。
弘仁14年(823)4月、嵯峨天皇は譲位して嵯峨上皇となり、淳和天皇が即位した。

淳和は我が子ではなく、兄の子を皇太子に立てた

淳和天皇は皇位に就くや、異母兄である嵯峨上皇の皇子・正良王を皇太子に立てた。
淳和天皇には恒世王という皇子がいたが、「異母兄→異母弟」で皇統を継いだ淳和天皇としては、「父→子」という流れは避けたい。
そのため、自身に恒世王という皇子がいながら、異母兄の皇子である甥の正良王を立太子したのだ。

仁明も我が子ではなく、甥を皇太子に立てる

続く仁明天皇(正良親王)も、淳和上皇の皇子・恒貞親王を皇太子に立てた。
仁明天皇には道康王という皇子がいたが、「天皇→甥」という前例に倣ったわけだ。

上皇崩御の直後、承和の変が起こる

淳和上皇と嵯峨上皇が短期間に二人とも崩御

そんな中で承和7年(840)5月、淳和上皇が、同9年(842)7月には嵯峨上皇が崩御する。
承和の変はこの直後に起こった。

仁明の甥は廃太子に、仁明の実子が皇太子に

上皇らの生前から道康王を皇太子に擁立する動きがあり、それに不安を抱いていた橘逸勢と伴健岑が、皇太子の恒貞親王を奉じて謀反計画を立てる。
しかし、計画は露見し、恒貞親王は廃太子にされ、橘逸勢と伴健岑は配流処分となった。
新しい皇太子には仁明天皇の実子・道康親王が立てられた。

藤原氏による他氏排斥、とされてきたが…

橘逸勢と伴健岑が事件後に流刑ではもっとも重い遠流となっているため、この政変は「政権独占を目論む藤原氏による他氏排斥の最初」とされてきた。
しかし、『続日本後紀』に対する詳しい検証により近年、この論は疑問視されている。

承和の変の黒幕は仁明天皇?

配流にされた二人は有力者ではなかった

主犯の橘逸勢と伴健岑は、当時の政界ではさして影響力を持たない小物で、皇太子を奉じて反乱を起こせる実力はなかった。
罪をなすりつけても差し支えないと判断され、標的に選ばれた可能性もある。

廃太子された恒貞を支えた公卿らが死亡していた

国史学の遠藤慶太氏が着目しているのは、正三位大納言・藤原愛発、正三位中納言・藤原吉野、正四位下参議・文室秋津の3人が、遠方に追いやられ、配所で死んでいる点だ。
同氏によればこの3人は、「淳和→恒貞親王」という皇位継承ラインを支えるもっとも新しい公卿であったという。

皇位継承を「父→子」に変えるための政変か?

つまり、承和の変の発生前までは、皇統継承ラインは「天皇→甥」という図式だったが、承和の変後の恒貞親王の廃太子と道康親王の立太子によって、皇統継承ラインが「天皇→実子」の図式に代わるのだ。
遠藤氏は『仁明天皇』(吉川弘文館)の中で、「政変の本質は皇位継承の方針転換にある。これによって淳和系の皇太子・公卿が排除された」と結論づけている。

まんまと我が子を皇太子にすり替えた仁明天皇

このような大陰謀を企てたのは誰か。
近年では「仁明天皇こそ影の司令塔で、中納言・藤原良房らを駒として動かした」との説が提示されている。
実際、藤原良房は変後、大納言に昇進している。論功行賞の人事だろうか。
『続日本後紀』は政変に関して、発生のみを書いて多くを語らないため闇は多い。

仁明崩御、実子が文徳天皇に

道康親王が55代文徳天皇に

嘉承3年(850)3月に天皇が崩御すると、 嘉祥3年(850年)3月19日に病により、仁明は道康親王に譲位。同月に道康親王が即位し、55代文徳天皇となる。 仁明は太上天皇位に就くことなく、2日後の同年3月21日に崩御。宝算41。

陵・霊廟

陵は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵に治定されている。宮内庁上の形式は方形。これは文久の修復の際にに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

和風諡号・異名

和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。和風諡号を奉贈された最後の天皇。御陵の在所をもって深草帝(ふかくさのみかど)という異称がある。


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