原田左之助(1840年〜1868年7月6日)は新選組の隊士(副長助勤)。伊予松山藩の武家奉公人であったが、近藤勇に出会い浪士組に参加、新選組隊士となる。戊辰戦争の途中で近藤勇らと別れ、永倉新八と共に一次行動、後に京都への帰途につくが断念、上野戦争で負傷、その傷がもとで死去した。(29歳没)
壬生の八木為三郎(新選組が屯所としていた八木家の子息)は、原田左之助のことをこう伝えている。
「原田は気短かでせかせかした男でした。二た言目には、『斬れ斬れ』と怒鳴りましたが、これもいい男でした」(『新選組遺聞』)
荒々しい性格だが、容貌万端の美男でもあったとも伝えられている。
伊予松山藩の中間の子として生まれた原田は、国許で若党(武家に奉公する者)をつとめていたころ、ある武士と口喧嘩になった。
「腹切る作法も知らぬ下司下郎」とののしられたのに怒った原田は、いきなり裸になると、刀を抜いて左から右に腹を切った。
傷は浅かったので命は助かったが、原田はこんな無茶を平気でやる男だった。
腹には一文字の傷跡が残ったが、のちによくこの腹をたたきながら「てめえ達のような蚤にも食われねえようなのとァ違うんだ、俺の腹ァ金物の味を知ってるんだぜ」(『新選組物語』)と威勢のいい啖呵を切ったという。
この話は多くの創作が確認できる子母澤寛の作品・新選組物語にのみ確認できる話であり、事実ではないと思われる。しかし、切腹未遂をしたことがあるのは事実のようで、その傷跡を妻であった菅原マサが目撃している。
この原田がいつのころか江戸に出て、近藤勇の試衛場(試衛館)に出入りするようになった。
得意な武芸は種田宝蔵院流(たねだほうぞういんりゅう)の槍術。
しかし、種田流と宝蔵院流のそれぞれの槍術はあるが、二つを合わせたような種田宝蔵院流という流派は存在しない。
そもそも種田流は真っ直ぐな素槍、宝蔵院流は十文字鎌槍を使用する。それほど違う二つを掛け合わせた流派が、存在するほうが不自然なのだ。
どうやらこの種田宝蔵院流とは、原田が自分で名乗っていただけの流派だったようだ。
原田が実際に学んだのは種田流で、そこに何某かの狙いから宝蔵院流を上乗せしていたようだ。
文久3年(1863)3月、近藤勇らとともに新選組を創設した原田は、副長助勤の幹部職につく。 勇猛果敢な原田は局長近藤の信頼も厚く、新選組の中心戦力として大いに働いた。
同年9月26日には、隊に潜入していた長州藩の間者・楠小十郎を斬殺した。
屯所の八木為三郎は、目撃談をこう伝えている。
「『あッ!』という叫び声と共に、楠はのめるようにして、水菜畑の方へ走り出しました。私はビックリして、同じ方へ駈け出そうとすると、楠のすぐ後から、ピカリと刀が光って、『野郎!』といって、叫んで出て来たのは、確かに原田左之助です。楠が門の前でぼんやりしているのを、門内から、背後へ一刀浴びせたものでしょう」(『新選組遣聞』)
逃げる楠をつかまえた原田は、近藤の面前へ連れていこうとするが、抵抗していうことを聞かない。すると原田は、眉をつりあげたかと思うと、腰をひねって一刀のもとに楠の首を斬り落としてしまったという。
元治元年(1864)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属していたため、現場に到着するのが遅れたが、到着後は遅れを挽回する働きをみせた。
原田の奮闘は、当時の風聞書にも記録されており、どう誤り伝えられたものか、「壬生浪人の内一人、原田何某と申仁、勇戦討死致候由」(『池田屋騒動風聞聞取書』)と書かれている。
勇ましく戦って討ち死にしたという、原田らしい誤聞だった。
慶応元年(1865)5月ごろの新編成で、原田は十番隊の組頭に就任。 その後、再編成による小隊の減少で七番隊に異動した。
この七番隊組頭をつとめていた慶応2年(1866)9月12日、三条制札事件に出動した原田は、土佐藩士・藤崎吉五郎と刃を交え、負傷しながらも藤崎を倒した。
『壬生浪士始末記』(西村兼文著)によれば、当夜原田が使っていた刀は「三尺(約90センチ)計の長剣」であったという。
刀の定寸は二尺三寸であり、原田のものはかなり長い。槍に慣れた原田にとっては、普通の長さの刀では物足りなかったのか。
長ければその分だけ重量が増すため、使いこなすにも腕力が必要になる。三尺の長剣は、原田が並はずれた剛力の持ち主であったことを示している。
なお制札事件のあと、出動した隊士たちの論功行賞がおこなわれ、指揮官の原田と新井忠雄が近藤に呼ばれた。
しかし2人は、自分たちが先頭に立って戦っていたので、ほかの隊士たちの働きは見ていないといい、それに待機中に酒を飲んで酔っていたので判定し難いと答えた。
隊内でも無類の酒好きで知られた2人であったが、飲酒に対して特にお咎めはなかったようだ。
慶応3年(1867)11月18日の油小路事件では、原田の槍の実力が最大限に発揮された。
この夜、新選組を裏切って御陵衛士となった伊東甲子太郎を殺害したものの、衛士のひとり服部武雄は強敵で、両手に刀を持った二刀流をふるって新選組を苦しめていた。
この服部武雄は沖田総司や斎藤一に匹敵する剣の腕を持っていたともされる。
その豪剣は凄まじく、服部一人のために新選組は負傷者が続出するありさまだった。
この剣に対抗するには、刀の届かない所から長い得物で突くほかない。
そこで原田が得意の槍をとり、服部の間合いの外から一瞬のすきをねらって突き入れた。 これに深々と胴をつらぬかれた服部は、たまらずにその場に沈み、息絶えたのだった。
戦いばかりであまり女性に縁のない新選組の原田にも、恋人と呼べる女性がいた。
仏光寺通りに住む町人の娘・菅原まさで、2人は慶応元年(1865)に結婚し、鎌屋町に所帯を持った。わずか3年ばかりであるが、原田にも結婚生活があったのだ。(もっとも、一緒に生活がおくれた日数はもっともっと少なかったであろうが)
当時、まさは18歳、原田は26歳であった。
新選組では色街の女性を囲って休息所に置くようなことは多かったが、堅気の娘を妻にするというのは珍しかった。
乱暴者の原田にも、家庭的な一面があったのだろう。
翌年には男の子が生まれ、茂(徳川家茂から一字を取ったとされる)と名付けられた。しかし、親子3人が一緒に暮らせる日々は当然、長くはなかった。
慶応3年(1867)12月、倒幕派との決戦が間近にせまり、新選組は京都を離れることになったのだ。
このときすでに、まさの体には二人目の子が宿されていて、今日明日にも生まれようかというときだった。12月12日、出陣を前に原田が200両もの金を持ってきて言った。
「軍用金を分配した。これは当座の暮らしだ。この分では戦争も今にもはじまるかも知れない。俺に万一のことがあったら、枠の茂だけは俺に成り代って立派な武士に仕上げて呉れ、な、頼むぞ頼むぞ。殊にお前のからだは気をつけるように」(『新選組遺聞』所収・原田左之助未亡人まさ女談)
そう繰り返して、原田は隊に戻っていった。これが原田と妻子との今生の別れとなった。
お腹のなかの子は5日後に生まれたが、24日に早世して禅雪童子と戒名をつけられた。
年明けの鳥羽伏見の戦いに敗北後、撤退した江戸で近藤、土方と意見が対立した原田は、永倉新八とともに新選組(甲陽鎮撫隊)を脱退した。
新たに結成した靖共隊(靖兵隊ともされるが、これは誤り)で、いったんは副長に就任した原田だったが、会津へ向かう途中の山崎宿で離脱し、単身江戸へ引き返した。
このときの原田のようすを、永倉新八は「妻子の愛着にひかされ辞をもうけて江戸へひきかえした」(『新選組顛末記』)と語っている。
やはり原田にとって、妻子に対する愛情は、なにごとにも代えがたいものだったのだ。
原田の妻まさは京都にいたが、原田は京都から大坂へ敗退後、さらに江戸へ後退する。そこから会津へ向かう途中で再び江戸へ戻ろうとした。
しかし、京都へ行こうとしても、その前の江戸がすでに新政府軍に抑えられており、身動きがとれない。
やむなく上野の彰義隊に加わり、5月15日の上野戦争に参戦した。
この日、原田は奮戦し、敵兵2人を斬ったというが、銃弾を受けて倒れた。
瀕死の重傷を負いながら、本所の神保山城守の屋敷まで落ち延びたものの、そこで2日後に絶命したのだった。享年29。
一説に、原田は上野では死なず生き延び、新潟・下関・釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという伝説がある。日清・日露戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったと伝わっている。1907年(明治40年)頃の愛媛新聞にて弟や甥と会って会話をした後に「満州に帰る」と言い残して去っていったと報じられたが、その経緯は不明。
これらはあくまで伝説であり、原田が日本語以外の言語を話せたはずもなければ、妻子の許に戻らなかった事に説明も付かない。事実ではないだろう。