鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い

1868年1月3日、旧幕府軍は、鳥羽(京都市南区)で新政府軍と交戦するが敗走。
伏見(京都市伏見区)では伏見奉行所付近で激戦が繰り広げられ、薩摩軍の激しい砲撃により奉行所は炎上し、旧幕府軍は撤退した。
新政府軍約5000、旧幕府軍約15000と数の上では旧幕府が優勢で在ったが、装備や士気の差から新政府軍の圧勝となった。
かつての将軍・徳川慶喜は大坂から江戸へ敗走、以後、明治新政府の樹立へと突き進んでいく。

鳥羽伏見の戦いを伝える錦絵

鳥羽伏見の戦いを伝える錦絵
将軍家への配慮から、足利氏の謀反を島津軍と毛利軍が追撃するという設定で描かれている

朝敵となった旧幕府軍が敗走

新政府・旧幕府の両陣営が出陣

薩摩藩の西郷隆盛は、旧幕府側に戦争を決意させるため、江戸で放火や強盗などの治安攪乱工作を実行する。
この挑発に大坂城にいた旧幕臣たちは激昂。
1868年1月2日、打倒薩摩を掲げて、約1万人の旧幕府軍が大坂を出陣し、京に向けて鳥羽街道を北に進んだ。
一方の薩摩・長州藩は土佐藩なども含め、兵を鳥羽と伏見に配置させた。

装備・士気・準備でも劣る旧幕府軍

3日、両軍は下鳥羽の赤池付近で接触し、「通せ」「通さぬ」の押し問答となったが、夕方になって旧幕府軍が前進を開始すると、薩摩軍が発砲した為に戦いとなった。
旧幕府軍は戦闘になるとは思っておらず、銃弾も装填していなかったため大混乱に陥り、多数の兵士が死亡した。
この銃声を契機に、伏見でも戦闘が開始され、薩摩砲兵が伏見奉行所への砲撃を開始した。
会津砲兵が応戦し、新撰組が抜刀して突入するモノの、旧幕府軍は敗北し、淀まで退却する。
旧幕府軍は刀まで実戦装備として使っていたのだ。

官軍となった新政府軍と賊軍となった旧幕府軍

薩長側に付いていた朝廷は、3日夜遅くに仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、錦旗(錦の御旗)を授けた。
これにより天皇の軍隊となった薩長側の士気は上がり、一方の幕府軍は、天皇に逆らう賊軍とされ為に戦意を喪失していった。
先の大政奉還もあり、旧幕府勢力には戦う理由がなくなっていたのだ。

錦の御旗

錦の御旗
官軍が掲げた「錦旗」は、岩倉具視がデザインを考案したといわれる

徳川慶喜は江戸へ退却

6日まで鳥羽街道を中心に一進一退の攻防戦が繰り広げられたが、味方だったはずの津藩からの砲撃を受け、更に淀城への入城を拒まれた旧幕府軍は、大坂城へと退却。
大坂城で戦況を見守っていた総大将・徳川慶喜は、会津藩主・松平容保らを連れて密かに城を脱出し、軍艦開陽丸で江戸へ逃走した。


↑ページTOPへ