家康が豊臣政権へ臣従

本能寺の変後、急速に台頭した秀吉と一時は対立した家康であったが、後に秀吉に臣従する事になる。
秀吉の家臣となった家康は、豊臣政権の筆頭家老として、伏見城で政権の中枢を担う。
関東の後北条氏が滅び、江戸へ移されるまでの家康をみてみる。

羽柴秀吉との対立

本能寺の変後、秀吉が台頭

本能寺の変で織田信長とその嫡男・信忠が明智光秀の謀反で横死した後、山崎の戦いで光秀を破った信長の家臣・羽柴秀吉が勢力を増す。
秀吉は、天正11年(1583)4月、織田家中の実権を巡って柴田勝家と争い、勝家を賤ヶ岳の戦いで敗死に追い込んでいる。
このとき家康は、戦勝祝いと称して茶器の「初花肩衝」を贈っており、友好的な関係を続けていた。

秀吉が信長の三男を殺害

しかし、その後、秀吉が勝家に味方していた信長の三男・信孝を殺害した事から、次第に警戒する様になっていく。
秀吉に不満を抱く信長の次男・信雄を支援する様になった。

家康と信長次男が、秀吉と対立

信雄と秀吉の溝は埋まることなく、翌天正12年(1584)3月、信雄は秀吉に通じていたとして家老の津田雄春・岡田重孝・浅井長時を暗殺してしまう。
これが事実上の秀吉に対する宣戦布告であった。
家康は四国の長宗我部元親ら秀吉に臣従していない大名と結べば勝算があると見ていたようである。

小牧・長久手の戦い

膠着した「小牧の戦い」

家康が兵を率いて信雄の領国である尾張に入ると、秀吉方に付いた岐阜城主の池田恒興が信雄の属城である犬山城を落とすなどの攻勢に出た。
このため、信雄と家康は、小牧山城に本陣を置くが、軍勢の数は合わせて3万余であったという。
そのころ秀吉は、本体を率いて大坂城を出陣し、楽田に布陣した。
軍勢の総数は、一説に十万であったと云われ、兵力的には秀吉が有利であったが、地の利は尾張を領国とする信雄にあった。
そのため互いに迂闊には手を出せず、小牧周辺に砦を築きながら、対峙を続けた
この戦いを「小牧の戦い」と呼ぶ。

家康が完勝した「長久手の戦い」

小牧の戦いにおける膠着状態を打開する為、秀吉は別動隊を家康の本国・三河に送って攪乱する事を決める。
4月7日、秀吉は甥の秀次を大将に1万6千余の軍勢を付け、池田恒興やその女婿・森長可と共に出陣させた。
これに対し、小牧山を出陣した家康は、秀次率いる羽柴軍を急襲する。
この戦いを「長久手の戦い」と呼ぶが、池田恒興・森長可が討死するなど、羽柴軍の完敗であった。

信雄が“勝手に和睦”してしまう

長久手の戦いで羽柴軍を破った家康であったが、秀吉によって領国の伊勢を攪乱された信雄が、11月、講和に応じてしまう。
このため家康は、戦い続ける名目を失ってしまった
秀吉は、撤退した家康に講和を求めたが、家康は応じず、代わりに、次男・於義丸を養子として秀吉の下に送った。
於義丸は後の結城秀康(北ノ庄藩初代藩主、越前松平家宗家初代)である。

秀吉への服属

秀吉が関白に就任し、『豊臣』姓まで

天正13年(1585)7月、秀吉は関白に任官した。
関白とは、天皇を補佐する官職で、秀吉が実質的な天下人になった事を意味する。
同時に朝廷より『豊臣』という姓も賜った。
これは家康にとって、もはや“秀吉は逆らってはいけない存在”となった事を意味しており、家康の家臣のなかでも、秀吉への対応を巡って意見が割れたという。
秀吉との対立に批判的な重臣・石川数正が、秀吉の下に出奔している。

後北条氏と同盟強化を図る家康

そうしたなか、家康は、秀吉に圧力を掛けようとしたのだろう。
天正14年(1586)3月、家康は北条氏政・氏直父子と対面した。
既に北条氏と同盟を結んでいたが、駿河・相模国境に位置する城を破却するなど、家康は同盟強化に努めている。

秀吉から“妹が贈られてくる”

ただ、家康の方には、秀吉からも再三、講和が求められていた。
秀吉の妹・朝日姫との結婚を求められた家康は、4月、遂に朝日姫を浜松城に迎える事にする。
築山殿を殺害に追い込んでから、家康には正室がいなかったからである。
このとき、家康は45歳、朝日姫は1歳下の44歳であり、“政治的な婚姻”である事は明らかである。

秀吉から“母が贈られてくる”

とはいえ、家康自身が上洛して秀吉への忠誠を誓う事はなかった。
そのため秀吉からは、なんと生母・大政所が岡崎城に送られる事になったのである。
事実上の人質であったが、秀吉は朝日姫を見舞わせるという名目にしていたという。

家康が上洛、秀吉に臣従する

これに対し、家康は重臣と“上洛するか否か”を協議する。
上洛に対して否定的な家臣もいたが、既に秀吉は四国・九州の平定に成功しており、いつまでも秀吉の“上洛要請を拒む”わけにはいかないという判断もあっただろう。
家康は遂に重い腰を上げ、上洛して大坂城で秀吉に謁見する。
ここに家康は秀吉との講和を結ぶ事になったのである。
この後、家康は浜松城から居城を駿府城に移した。

小田原攻めの先鋒

西を平定した秀吉が“東”を攻める

家康が秀吉と講和した頃から、小田原の北条氏政と秀吉との関係が緊張度を増してくる。
四国・九州を平定した秀吉が、天下統一の為に関東・東北の平定に乗り出すのは必至だったからである。
こうした状況で板挟みとなったのは家康だった。

家康は“秀吉”と“北条”の板挟みに

家康は秀吉と同盟していたが、氏政の子・氏直に娘の督姫を嫁がせて北条氏とも同盟を結んでいた。
秀吉との同盟を維持しようとすれば、北条氏と戦わなければならず、氏政との同盟を維持しようとすれば、秀吉に刃向かう事になるのだ。

徳川・北条の同盟が破綻

結局、家康は秀吉との同盟を維持する事を決め、氏政に対しては、“秀吉への謁見”を求めるとともに、応じない場合には督姫を離別する事も辞さない覚悟を伝えた。
これに対し氏政は、弟の氏規を大坂城に送って秀吉に謁見をさせたものの、氏直自身が当主として上洛する事はなかった。
しかも、督姫が家康の下に帰された事で、家康と北条氏との同盟は破綻した。

大軍を率いて「関東征伐」へ赴く

結局、天正18年(1590)、北条氏は、秀吉によって攻撃される事になる。
北条氏と断交した家康は、秀吉から先鋒を命じられた
実際に北条氏を攻めるかどうか、忠誠心を試された訳である。
それを理解していた家康は、かき集めた3万の大軍を率いて小田原に向かったのだった。

秀吉が大規模な“兵糧攻め”を展開

小田原城は上杉謙信武田信玄の攻撃にも落ちなかった堅城で、城の周囲10kmを土塁・堀で囲む“惣構え”を設けていた。
このため、秀吉は兵糧攻めを行ったが、関東各地に散らばる支城が落とされるなか、氏直が投降する。
氏直は「自らの切腹をもって城兵の命を助ける」ことを求めたが、秀吉は認めない。
当主は氏直であったが、実権は氏政が掌握していたからである。

北条氏の滅亡と、家康の関東移封

結局、氏政とその弟・氏照、家老の大道寺政繁・松田憲秀が自刃し、小田原城は開城する。
家康の婿にあたる氏直は一命を助けられ、高野山に送られた。
ここに、小田原城を拠点として、五代100年に渡って関東に覇を唱えた戦国大名北条氏は滅亡したのである。
北条氏滅亡の後、その遺領(関東)は家康に与えられる事になり、家康は居城を“江戸”へと移す事になる。


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