平安京の幕開けを担った桓武天皇。平城京政権からの脱却を図り、新しい時代を築いた点において、歴代天皇中でも特筆される。 この時代、皇族が天皇に即位するには「誰の子孫なのか」が重要だった。天武天皇の后・持統天皇の直系が力を持ち、傍系を粛清する政争が続く。その結果、天武の嫡流が壊滅状態になってしまう。 この流れを変えたのが桓武天皇であり、桓武が即位することで、天智系天皇の復活となった。
第50代桓武天皇は、天応元年(781)から延暦25年(806)までの在位期間中、延暦3年(784)に平城京から長岡京への遷都を行い、延暦15年(794)には、平安京への再遷都を行った。
知られるとおり、歴史上、平城京が首都だった時代を「奈良時代」、平安京が首都だった時代を「平安時代」と呼ぶ。桓武天皇こそは平安時代の黎明期を担った天皇である。
ただ、この桓武天皇は、本来、皇統の継承とは縁遠い存在だった。
父親は傍系の皇族であり、母・高野新笠は朝鮮半島の百済から渡来した一族の後裔である。
このため、長子として生まれながら、嫡男の扱いをしてもらえなかったようだ。
このような境遇にもかかわらず皇位継承ができたのは、平城京での政治状況が影響している。
奈良時代、平城京政権において即位した天皇らは、672年に勃発した「壬申の乱」の勝者である40代天武天皇の嫡流が独占していた。
この嫡系は代を継承する過程で、傍系の迫害と殺害を繰り返した。
例えば、嫡系である草壁皇子(母は持統天皇)の異母兄弟だった大津皇子(母は大田皇女)は、天武天皇崩御の同年、自害に追い込まれた。
裏には草壁皇子に皇統を継承させたい持統女帝(天武天皇の皇后)の意向があったと推定されている。
聖武天皇の御代には、長屋王が犠牲となった。
長屋王は草壁皇子の異母兄弟・高市皇子の嫡男だ。(母は御名部皇女で持統天皇の異母妹)
高市皇子は壬申の乱で天武側として戦って勝利に大きく貢献し、持統朝では太政大臣として政権の中枢にあった。
母親の出自が低いことから皇位継承候補者ではなかったという説がある一方、軽皇子(後の文武天皇)の立太子が、高市皇子の死から1年後の持統天皇11年(697)である点から、皇位継承候補者であったとする説もある。
いずれにしても高市皇子は持統朝の筆頭臣下であり、その子の長屋王もまた重んじられ、聖武天皇が即位すると左大臣に就任。政権運営の中核的存在となった。
なお、平城京跡から出土した長屋王家木簡には、「長屋親王」と記された木簡が多い。
このため、長屋王が、皇位継承候補者に含まれていたと見る向きもある。
神亀6年(729)2月10日、「長屋王に謀反の疑いあり」との密告があり、軍勢が長屋王邸を包囲。翌日には朝廷の糾問を受け、12日には長屋王とその家族は邸宅内で自害した。
なお、長屋王を滅ぼしたのは藤原四兄弟の陰謀とされる。
このほかにも、道祖王、塩焼王、淳仁天皇など、多くの天武天皇の傍系天皇・皇族が政争に巻きこまれ世を去った。
天武天皇の血を受けた男子は、これによりほぼ壊滅状態となった。
ただ、嫡系も無傷ではなかった。聖武天皇の唯一の皇子は夭折し、聖武の娘である孝謙天皇(称徳天皇)も子に恵まれなかった。
天武天皇嫡系の断絶を目前にして、称徳女帝は法相宗僧・道鏡を法王とし、宗教の力を借りて皇統の延命に奔走するが失敗。最終的に道鏡は宮廷から追われてしまう。
これにより天武嫡系の皇統は途絶えてしまう。
こうした状況を受けて、新たに即位したのが桓武天皇の父親・白壁王(光仁天皇)であった。
天智天皇の孫に当たり、「白壁王」を称していたが、政争に巻き込まれるのを警戒して大酒のみを装い、戦々恐々として生きていた。
だが、称徳女帝が後継者を指名せず崩御したのを受け、重臣の協議によって皇太子に立てられ、宝亀元年(770)10月に即位して、49代光仁天皇となった。
約100年ぶりに天智系の天皇が誕生したのである。
光仁天皇が即位したのは62歳のとき。
この老天皇の誕生により、山部王を名乗っていた34歳の桓武天皇は、「親王」に格上げされて皇位継承権の保持者になり、翌年には中務卿に就任し、朝廷政府で重きをなすようになった。
父・光仁による井上皇后の廃位と他戸親王の廃太子を受けて、35歳で皇太子となったのが宝亀4年(773)1月のこと。
天応元年(781)4月、父・光仁からの譲位により45歳で即位した。
即位のいきさつは、以まるで棚ぼた式に天皇に即位したといえる。
桓武天皇について、『日本後紀』には「堂々たる体躯を持つ健康的な偉丈夫にして、文武の道に「通じていた」とあり、帝王としての資質を有していたと推察される。
ただ、鎌倉時代初期成立とされる歴史書『水鏡』は、朝廷政府内での協議の際、「山部親王は母親の出自が賤しいから皇太子にふさわしくない。第二皇子の稗田親王を立太子すべき」との主張に対し、実力者の藤原百川が自論を展開して山部親王を皇太子に推し、光仁天皇を納得させた旨を記す。
後世の記録なので完全には信頼ができないが、『続日本紀』宝亀10年(779)7月9日の状に、百川が皇太子時代の桓武天皇に、特に心を寄せた旨が記されており、この老練な政治家が、皇太子の帝王的資質に並々ならぬ期待をかけていたことが察せられる。
事実、桓武天皇は即位後、土地制度・身分制・兵制などの改革に推進。
奈良仏教界との癒着で機能不全寸前に陥っていた律令制度を再建し、東北経営に意を注いだ。
旧体制からの脱却を図り、新時代を切り開いた点において、歴代天皇の中でも特筆される存在といえる。
桓武天皇の国風諡号は「皇統弥照天皇」という。
この諡号は桓武が天智天皇の偉業を意識し、これを引き継ごうという志の下、国の舵取りをした事実を、同時代の人々が認あかし識していた証といえるだろう。