日本は、主権線の防衛のため、朝鮮半島を利益線とする姿勢を取り、朝鮮に対して宗主権を主張する清との戦争に突入した。
この日清戦争は、1894年7月25日から1895年11月30日にかけて朝鮮半島や満州(中国東北部)、黄海上で行われ、日本側の勝利に終わった。
戦争そのものは日本の勝利に終わったが、ロシア・ドイツ・フランスの介入を受け、日本側の戦功は思い通りにはならなかった。
征韓論(武力によって朝鮮半島を開国させようという運動)を退けた日本政府だが、朝鮮進出に反対していた訳ではない。
明治維新後、欧米諸国との不平等条約の改正が大きな外交課題となった日本は、列強にならい植民地の獲得を目指していた。
当時、李氏朝鮮の治下にあった朝鮮では、摂政の大院君が鎖国体制を堅持していたが、日本は朝鮮の開国を目論んでいた。
1875年、朝鮮を挑発して戦闘、江華島事件が起こる。
日本政府は、これを口実に開国を迫り、翌年、日本に有利な日朝修好条規を締結した。
以後、朝鮮に市場を広げると共に、政治的にも影響力を強めていった。
そうした日本の動きに、朝鮮を形式上の属国として中国の王朝だった清(しん)も黙ってはいなかった。
日本に対抗して朝鮮半島に進出し、日清の対立は強まっていった。
朝鮮国内でも複雑な対立が渦巻いていたが、1882年、親清派によるクーデターが起こる(壬午軍乱)。
清の介入で返り咲いた閔氏(びんし)政権が清派に転換、これにより朝鮮が清寄りに移行する。
1884年には日本の支援で、金玉均ら改革派の独立党が日本公使と結んでクーデターを起こすが、清軍によって鎮圧される(甲申事変)。
甲申事変によって朝鮮での影響力を失った日本は、翌年1885年、清と天津条約を結ぶ。
この天津条約によって、日清間で朝鮮からの撤兵、出兵時の事前通告などについて合意、互いに兵を退いた。
1894年2月、朝鮮で悪政と排日を訴えた農民の全国規模の反乱「甲午農民戦争」が起こると、清は朝鮮政府の要請で出兵した。
日本も居留民保護を名目に大軍を派遣する。
鎮圧後も日本軍は居座り続け、朝鮮の内政改革を迫った。
朝鮮、清がこれを認めるはずもないが、日本は開戦の口実を求めていたのだ。
1894年7月、日英通商航海条約を結んでイギリスの支持を取り付けた日本は、武力で朝鮮王朝を占拠し、新日政権を樹立させる。
そして清軍駆逐の命令を出させ、豊島沖(ほうとうおき)の清軍を急襲する。
日清戦争の開戦である。
軍備増強に努めてきた日本軍は清軍を次々に撃破し、翌年1895年、日本勝利のうちに下関条約が結ばれた。
これにより、日本は清から莫大な賠償金を得、さらに遼東半島や台湾、澎湖諸島(ほうこしょとう)を手に入れた。
戦争は、日本の勝利に終わったが、南下政策によりアジア進出を果たしたロシアが満州を狙っていた。
この時ロシアは、ドイツ・フランスと結んで遼東半島の返還を日本に迫っている(三国干渉)。
国力不足の日本はやむなく要求を飲み、日本国民のロシアへの敵意をあおる結果となった。
それまで「眠れる獅子」といわれていた清ではあったが、日清戦争の敗北でその弱体ぶりが明らかになった。
これを受け、列強は次々と中国への侵略を開始する。
ロシアは東清鉄道の敷節権を獲得した他、遼東半島南部の旅順、大連を租借地とした。
ドイツは膠州湾(こうしゅうわん)、フランスは広州湾(こうしゅうわん)、イギリスも威海衛(いかいえい)と九竜半島(新界)を租借した。
これにより、日本を含む列強の、中国での勢力図が画定した。