凍らない海への出口、不凍港を求めたロシアは、ユーラシア大陸北部の各地で南下を繰り返す。
他国との対立・軍事衝突を重ねながら、何度も南下政策を行うロシアだったが、特に版図を広げる事が出来なかった。
現在でもロシアは、日本や中国、ウクライナなど多くの国との領土問題を抱えている。
18世紀後半以降、地中海へのルートを求めて南下政策を進めたロシア。
ロシアはギリシア独立戦争や2度のエジプト・トルコ戦争に介入したが、その都度、列強諸国と利害が対立し、成果を上げる事が出来なかった。
1853年には、ギリシア正教徒の保護を口実にオスマン帝国へ侵入、クリミア戦争が勃発する。
しかし、イギリスやフランスなどがオスマン帝国を支援した為、ロシアは敗れてしまう。
クリミア戦争敗戦後、バルカン半島のスラヴ民族の独立運動が高まると、ロシアはパン・スラヴ主義を掲げ、スラヴ民族救済を理由にオスマン帝国に対して、ロシア・トルコ戦争を仕掛ける。
この戦いに勝利したロシアはバルカン半島への進出を果たしたかに見えたが、イギリス、オーストリアがこれに干渉してくる。
結局、78年のベルリン会議でロシアの要求は抑えられ、南下政策はまたしても頓挫した。
この頃、ロシアは中央アジアのブハラやヒヴァなどのハン国を征服して、ペルシアやアフガニスタンへと接近している。
さらに、極東では弱体化した清へ圧力を掛け、沿海州などを奪っている。
クリミア戦争での敗北は、農奴制を続けるロシアの後進性を示すものであった。
そのため、皇帝アレクサンドル2世は国の近代化を目指して、自由主義的改革を始めた。
1861年に農奴解放令を出し、近代的な制度の導入を図ったが、徹底されず、改革は失敗に終わり、皇帝自身も過激派によって暗殺されてしまう。
1870年代には、学生や知識人(インテリゲンツィア)が、ロシアの近代化を目指し、新たな試みを実践する。
ロシア土着のミール(農村共同体)を基盤とする社会主義を達成しようと、ナロードニキ運動を展開した。
しかし、これも失敗に終わってしまった。
この時代のロシアは、通商路や不凍港の確保だけでなく、国内の不満を外へ向けさせる為にも、南下政策を取らざると得なかった。