オスマン帝国

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ヨーロッパにも進出したオスマン帝国

軍事力と統治制度に優れるオスマン帝国が領土を拡大し、ヨーロッパにも侵攻する。
ビザンツ帝国を滅ぼした後、さらに神聖ローマ帝国やフランス王国、スペイン王国などのキリスト教世界に脅威を与えた。
強力な中央集権体制を敷いていたオスマン帝国だが、宗教には寛容で、信仰・言語は自由であり、異教徒の裁判権も認められていた。

急速に領土を拡大し、地中海を制したオスマン帝国

13世紀末、アナトリア半島(現トルコ)で興ったオスマン・トルコは、14世紀末にバルカン半島(現ギリシャ、セルビアなど)へ進出する。
1360年代にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)から奪ったアドリアノープルを首都とした。
さらに1396年のニコポリスの戦いでキリスト教勢力を破ってドナウ川以南を征服したが、1402年のアンカラの戦いでティムール帝国に敗れ、一時衰退した。

ビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルを首都に

しかし、ティムールの死後、ティムール帝国が衰退すると勢力を盛り返す事に成功する。
そして、1453年にはビザンツ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープルをイスタンブルと改称して首都とした。

オスマン帝国が地中海の覇者に

第9代スルタン(支配者)のセリム1世はシリア、エジプトを征服し、聖地メッカ、メディナを版図に収めて、聖地の保護者並びにスンニ派イスラム教の擁護者としての権威を確立した。
続くスレイマン1世の時代に、オスマン帝国は最盛期を迎える。
ハンガリー領有、ウィーン包囲に続き、プレヴェザの海戦で勝利を治め、地中海の制海権を握った。

帝国の繁栄を支えた統治制度と社会の仕組み

オスマン帝国では、強大な権力を有するスルタンを頂点として、整備された官僚制度を持つ中央集権体制がとられていた。
行政区や地方には、高等教育を受けた行政官やトルコ系の騎士を従えた軍政官らを派遣した。
軍政官や騎士には、税を徴収できる領地が与えられる軍事封土制をとった他、キリスト教徒の子弟をイスラム教に改宗させて、イェニチェリと呼ばれる常備歩兵軍に編成するなどの施策で、強大な軍事力を支えた。

宗教の自由が認められていたオスマン帝国

帝国内にはキリスト教徒やユダヤ教徒も多数いたが、オスマン帝国は異教徒には寛容であった。
ミッレトという宗教ごとの共同体を構成させ、納税の義務を課すなどする一方で、信仰・言語の自由の他、裁判権も認めていた。
そのため、帝国内では他民族・他宗教の平和共存が実現した。


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