ビザンツ帝国(東ローマ帝国)

歴史まとめ.net > 世界史 > ヨーロッパ

1000年も続いた東ローマ帝国

1000年以上にわたって続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の下、ギリシア正教(東方正教)やビザンツ文化を基礎とする東ヨーロッパ世界が形成された。
西ヨーロッパとの文化的・宗教的な分裂を経て、独自の発展を遂げるも、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされてしまう。

後世からビザンツと呼ばれた東ローマ帝国

ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国は約1000年に渡って存続しており、後世からはビザンツ帝国と呼ばれている。
6世紀のユスティニアヌス帝の時代には東ゴート王国やヴァンダル王国を滅ぼすなど、旧ローマ帝国の領土をほぼ取り戻している。
また、ローマ法を集大成した「ローマ法大全」もこの時期に編纂されている。
しかし、ユスティニアヌス帝の死後は、北方のスラヴ民族などに侵入され、さらに7世紀からはササン朝ペルシアやイスラム勢力などに侵入されて、帝国は次第に衰えていった。
※スラブ民族とは、ゲルマン民族の移動に連動する形で、北方のカルパティア山脈より南下して来た民族

軍事力を整え、プレゼンスを発揮

これに対し、7世紀前半に即位したヘラクレイオス1世は、地方の体制を整えるテマ制(軍管区制)や、軍役と引き換えに兵士に土地を与える屯田兵制(とんでんへいせい)を採用する。
8世紀前半に入り、レオン3世の治下で帝国は体制の立て直しに成功し、再び繁栄の時代を迎えた。

ローマ・カトリックとギリシア正教が分裂

8世紀前半には皇帝が教会を支配する皇帝教皇主義を取り、726年にはイスラム教への対抗から聖像崇拝禁止令を発布した。
聖像による布教に努めていたローマ教会はこれに反対し、カールの戴冠(たいかん)などを経て、キリスト教はローマ・カトリックギリシア正教に分裂する。
以後ビザンツ帝国は、ギリシア正教を中心に、ヘレニズム・ローマ文化、さらに西アジアの要素を融合したビザンツ文化を生み出していく。

オスマン帝国により滅ぼされる

その後のビザンツ帝国は、11世紀頃から台頭した大土地所有貴族により、次第に皇帝の権威が弱体化していく。
13世紀初頭の第4回十字軍では首都コンスタンティノープルを一時占領された。
それ以後、国力が回復する事はなく、1453年、オスマン帝国の攻撃によりコンスタンティノープルが陥落し、1000年以上にわたって続いた帝国は滅亡した。

ビザンツの首都 コンスタンティノープル

現在のトルコの最大都市イスタンブールが当時はコンスタンティノープルと呼ばれ、ビザンツ帝国の首都であった。
陸海の交通の要衝であるとともに、ビザンツ文化の中心地であった。
ビザンツ帝国の名前の由来は、コンスタンティノープルの古名であるビザンティウムに由来している。

ギリシア正教(東方正教)について

ギリシア正教とは、現在では東方正教と呼ばれており、当時、ビザンツ帝国後任のキリスト教とそれを起源とする諸教会の総称である。
ビザンツ帝国においてビザンツ文化を生み出す母体となったが、ローマ・カトリックとは対立関係にあり、1054年に両者は完全に袂を分かっている。
カトリックよりも原子キリスト教に近いといわれ、救いや愛を重んじ、世俗権力との関係では聖俗一致の傾向が強い。
ギリシア正教では、司祭(神父)は妻を取る事が出来、カトリックにおける教皇のような権威者は存在しない。


↑ページTOPへ