鎌倉幕府の再興を志した北条時行。北条一門の期待に応えるために兵を挙げたのは、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の息子、北条時行だった。総大将となったのはわずか7歳。鎌倉奪還はその第一歩にすぎなかった。次世代の武家政権を率いるのは自分達だ、と北条得宗家と足利尊氏が争う。
正中2年(1325)以降?〜正平8年(1353)。北条高時と側室との間の子。『太平記』での幼名は亀寿。諏訪氏の後援のもと挙兵。足利尊氏と戦い、仇敵だった後醍醐天皇の南朝に帰順するなど、世情を見ながらさまざまな方法で3度の鎌倉入りを果たす。いわゆる「中先代の乱」の首謀者。
「中先代」とは、鎌倉幕府の滅亡後、幕府の執権北条氏を先代、室町幕府の足利氏を当代と呼ぶのに対し、その中間の代の意味で、時行の鎌倉占拠の期間または時行自身を指す。
新田義貞らの挙兵により、鎌倉が攻め入られ、覚悟を決めた時、時行の父・高時は29歳(かぞえ31歳)。その後、後醍醐天皇より徳嵩大権現と神号を下賜され、慰霊として北条執権邸の屋敷跡に建てられた宝戒寺に祀られている。
鎌倉幕府が滅亡したのは正慶2年(1333)5月22日のこと。得宗(北条氏嫡流の当主)の北条高時以下、一門の873人が得宗家氏寺の東勝寺で自害した。
しかし、そこで得宗家の血筋が途絶えたわけではなかった。
南北朝時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、高時の弟の泰家(やすいえ)は家臣の諏訪頼重(よりしげ)(盛高:もりたか)に、時節が到来したら兵を挙げ、一門の再興を頼み、兄の子である亀寿(時行)を託して落ち延びさせた。
諏訪頼重は信濃国の住人。得宗家の家臣であると同時に、諏訪大社上社の犬祝(おおほうり:神職の長)を世襲する一族の一員であったことから、亀寿は諏訪大社と諏訪氏を盟主と仰ぐ武士団「神党」に守られながら、雌伏の時を過ごした。
とはいっても、亀寿はまだ5歳前後の幼児であった。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が開始した建武政権は、政権発足から足利尊氏の離脱までの2年半だけで、26件もの反乱が起きていた。
このうち少なくとも15件は北条一門によるものだが、そこに合流する者のなかには、鎌倉の御家人だった者も少なからずいた。それは、新政権に対する失望を意味する。
期待に反する失望感も強く、反乱軍への合流には抵抗がない、それが昨日まで敵対関係にあった北条一門でも同じだった。
そして、亀寿に待望の時節が到来する。諏訪頼重が亀寿を擁して兵を挙げたのは建武2年(1335)6月のこと。亀寿はまだ7歳前後の少年だったが、名義上の総大将として北条時行と名乗りを上げた。
時行の軍は信濃国諏訪から上野国を経て武蔵国へと進軍。数年前に新田義貞が進軍したのと同じ道、鎌倉街道上ノ道を進み、7月22日には井出沢(現・東京都町田市本町田)の戦いで足利直義(ただよし:尊氏の弟)を撃破し、24日には待望の鎌倉入りを果たすこととなった。
当時、激しい市街戦となった鎌倉を脱出した時行にとって、鎌倉の地は2年2カ月ぶりの帰還であった。
しかし時行には時間がなかった。京都から足利尊氏率いる討伐軍が下って来たからだ。
時行の軍勢は膨れ上がってはいたが、言い換えれば烏合の衆でもあった。
時行の軍勢が鎌倉入りを果たしたことで、鎌倉方の抵抗は激しさを増し、時行軍の連戦連勝の勢いは消え去っていた。
結局、尊氏の弟・直義の残軍と合流した尊氏の軍に勝てるはずはなく、8月19日には足利軍の鎌倉入りを許してしまう。
事実上の総大将であった諏訪頼重は源頼朝が父・義朝の菩提を弔うため建立した大御堂(勝長寿院)で自害、一味の者42人がこれに殉じた。
遺骸はどれも損傷がひどく、誰が誰なのか判別不可能だったが、尊氏らは、時行の遺体もその中にあるはずと見なし、京都へもそのように報告した。
時行による鎌倉進駐はあまりに短かったことから「廿日先代(はつかせんだい)」とも揶揄される。
しかし、反乱軍に身を投じた武士の中には、宇都宮氏、千葉氏、三浦氏、天野氏、伊東氏など、鎌倉幕府創設以来の御家人の後裔が多く見られる。
建武政権への失望から、北条一門ではない武士たちの中でも、鎌倉幕府再興の機運が高まりつつあったのだ。
時行は死んではおらず、またも上手く落ち延びて信濃に潜伏していた。
御家人たちを糾合できれば大きな力になりうることはわかったが、足利尊氏が建武政権から離反して以降は、御家人たちの支持は尊氏へ流れ、時行を擁する者たちは別の方策を考えるしかなくなった。
敵の敵は味方といわれるように、時行を擁する者たちはかつての仇敵である後醍醐天皇に帰順する道を選んだ。つまりは、吉野にある南朝である。
尊氏は鎌倉に子息の義詮(よしあきら)を配していることもあり、時行は奥州から進軍中の北畠顕家(きたばたけあきいえ)に呼応して、鎌倉を攻め落とすことになった。
かくして延元2年(1337)12月23日、時行は再び鎌倉入りを果たす。
北畠顕家は後醍醐天皇の側近の1人、北畠親房の子。建武の乱が起こると、新田義貞や楠木正成らと協力して足利尊氏を京で破った。その後、尊氏が再挙し南北朝の内乱が開始すると再び挙兵し、鎌倉に攻め入った。
無事に鎌倉入りを果たした時行であったが、北畠顕家の指揮下に組み込まれた関係上、勝手な行動は許されず、顕家が西上すると、時行もこれに随行。京都周辺で尊氏の軍と戦うこととなった。
新田義貞に続き北畠顕家も討死するなど、形勢不利な状況下、南朝側は地方に分散する戦術を選び、延元3年9月、時行は伊勢国から船で遠江国へ落ち延び、しばらくは井伊城(現・静岡県浜松市北区)を拠点とした。
それから1年7カ月後の興国元年(1340)6月、時行は諏訪大社上社の大祝、諏訪頼継(よりつぐ:頼重の孫)とともにまたも挙兵する。
頼継は祖父の忠節を忘れず、時行に味方すべく戦いに旗揚げする。場所は信濃国の大徳王寺城(現・長野県伊那市長谷溝口)であった。
4カ月に及ぶ籠城戦の末に敗れた時行は、それから10年近く消息を絶つ。
消息を絶った時行がどこで何をしていたかは不明である。しかしながら、10年の時を経て、時行はふたたび歴史の表舞台に現れた。
今度は、自分を擁する者たちに従うのではなく、自らが周囲に指図すべき年齢に達していた時行は、じっと反撃の機会を待ち続けていたようだ。
折しも、足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)と尊氏の弟・直義の不和に起因する、尊氏と直義の関係悪化。そこから起きた兄弟間の内戦(観応の擾乱)こそ、まさに絶好の機会といえた。
時行が諏訪氏以下の信濃軍勢ととも宗良親王(むねよししんのう)を擁して挙兵したのは正平7年(1352)閏2月16日のこと。
前日には新田義興・義宗(義貞の次男・三男)が下野国で挙兵。両軍は足利軍を破り、20日には鎌倉入りを果たした。
時行にとっては三度目の鎌倉入りだったが、やはり今回も席の温まる暇はなく、反転攻勢に出た足利軍を迎え撃つため、23日に鎌倉を出た。
相模国と武蔵国で転戦を重ねるも足利軍に傾いた形勢を覆せず、3月2日には尊氏の鎌倉入りを許してしまう。
それから1年とわずかの期間、時行の足取りは詳しくはわからない。
どこで捕らえられてしまったかも定かでないが、翌・正平8年(1353)年の5月20日、鎌倉郊外の龍口で時行は処刑されてしまった。
正確な年齢は不明だが20代半ばと考えられている。
龍口刑場跡とは、現在の神奈川県藤沢市にあった刑場。文献に登場するのは鎌倉時代後期とされる。日蓮上人が処刑の直前で助命されたことで知られる場。
時行は「逃げ上手」ともいわれるが、実際のところ、最期まで逃げずに戦った極めて勇敢な武将であった。