北条高時が自害

新田軍の鎌倉突入で北条高時が自害

高時の死で鎌倉幕府は滅亡

新田軍・幕府軍、両軍にアクシデント

1333年(正慶2年)5月18日、新田義貞の軍勢が藤沢に進出した。
当初、義貞の率いる主力は化粧坂切通しを攻め、他は山内を攻める軍勢と極楽寺切通しを攻める軍勢の二手に分け、西側から鎌倉を攻める計画であった。
鎌倉を守る幕府軍も大仏貞直の守る極楽寺切通し、警戒の部隊を置く化粧坂切通し、赤橋守時の守る山内の三方に軍勢を分け、義貞の主力が攻めるところに警戒の軍勢しか配置しなかったのは作戦ミスであった。
ところが、初日からアクシデントが発生し、両軍とも作戦変更を余儀なくされた。

洲崎を死守したい鎌倉幕府

18日、巨福呂坂切通しを守る守時の軍勢は、洲崎まで前進した。
洲崎は、藤沢から山内に入るためにも、化粧坂切通しを越えるためにも通る場所なので、ここに陣を敷くと2カ所の入口を押さえたことになる。
幕府首脳部が守時にここを死守せよと命じたのは、化粧坂切通しに新田の主力が入ってしまうと派遣した軍勢では支えきれず、一日で鎌倉が落ちると考えたためである。

鎌倉合戦

北条氏一門金沢氏の所領にある朝夷奈切通しは幕府側が確保しているため、駆けつけた軍勢が鎌倉に入ることができる。
鎌倉合戦は5日に及ぶ合戦になったので、両方の援軍が次々と駆けつけた。
幕府首脳部は守時に死守を命じたが、化粧坂切通しの増強が終わるまでの足止めを命じた可能性が高い。
翌日には、金沢貞将の軍勢が、巨福呂坂に布陣している。

極楽寺切通しが破られ市街に新田軍が押し寄せる

新田軍が鎌倉の市街地に進入

義貞側の誤算は、極楽寺切通しで起きた。
貞直は切通しを守ることを目的としていたので、切り通しの左右に主力を置き、極楽寺院家を城塞として使うことを考えた。
ところが、新田側の武将大館宗氏が極楽寺切通しと海岸線の中間にある仏法寺を攻め落として鎌倉の市街地に進入した。

鎌倉合戦の主戦場は極楽寺切通し

異変に気付いた貞直は宗氏の軍勢を追撃し、大仏家の宿老本間山城三郎左衛門はかき集めた軍勢を率いて宗氏の前面を押さえた。
撃された宗氏は討死にし、逃げ帰ることのできた人々が仏法寺を必死に守る状況になった。
義貞は主力を率極楽寺切通しに移ったため、鎌倉合戦の主戦場は極楽寺切通しになった。
貞直もまた、仏法寺が攻防の場になると判断し、両者はここで激しい消耗戦を展開した。
手薄だった化粧坂切通しは、両方とも押さえの軍勢を置くだけとなった。

『太平記』の記述には欠落がある

『太平記』を読む時に注意を要するのは、初日と最終日は詳しく書いてあるが、2日目から4日目の中3日の記述がないことである。
この間のことは、武士が恩賞を求めて功績を書き連ねた軍忠状や、供養のために建てられた板碑や供養を記録した仏典から断片的だが知ることができる。

極めて凄惨な合戦であった

「太平記」の表現を借りれば、親が討たれれば子供は親を乗り越えて前に進み、主人が討たれれば郎党が主人の馬に乗って前に進む死血山河の戦いである。
子孫に伝え残す人もいない合戦になったのであろう。

鎌倉合戦はあまり記録が残っていない

義貞の軍勢も詳細は分からない

北条氏の重臣長崎氏の一族は分倍河原の合戦から常に前に出て戦っていたが、東勝寺で北条高時と自害した人々や初日と最後の日に劇的な死に方をした人の最期しかわからない。
有名な長崎高資も、何時どこで死んだか伝わっていない。
義貞の軍勢も、細かいところはわからない。
鎌倉合戦には、『平家物語』のような華々しい合戦描写がないのである。
まさしく、死闘だったのであろう。

合戦最終日

大仏貞直が討死

最終日の戦況を簡単に述べると、22日早朝、仏法寺で義貞と激闘を繰り返していた貞直の軍勢がついに兵力が尽きた。
突破された貞直は、新田氏の軍勢に混じって東に退いたが、将軍御所の炎上を観て、最後まで残った部下と共に脇屋助の陣に突撃して討死にした。
義貞が海に剣を投げて龍神に祈願したというよな悠長な話は、実際にはなかった。

北条高時、自刃

援軍を率いて仏法寺に向かっていた長崎思元は、小町口で新田の軍勢に呑み込まれるように消滅した。
以後は、鎌倉の中での市街戦となり、高時は得宗家小町亭から北条泰時が創建した東勝寺に移り、最後まで残っている部下に滑川で戦わせている間に自害した。
この時、朝夷奈切通しはまだ北条氏側が確保していたが、高時に逃げる意思はなかった。
高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃して果てた。

鎌倉市街地はそこまで損害は出ず

鎌倉合戦では、化粧坂切通しが突破されなかったため、鎌倉の火事は極楽寺か東勝寺に向かう道沿いに、範囲が限定されている。
『太平記』の記述をみても、発掘調査の成果をみても、鎌倉の市街地全域が燃えていないことは確認できる。
大軍の衝突した激しい消耗戦となったが、戦場となったのは巨福呂坂切通しと仏法寺周辺といった狭い範囲であった。


↑ページTOPへ