新田義貞が挙兵し倒幕

新田義貞が倒幕を目指し挙兵

分倍河原の戦いで北条泰家を破る

上野国の御家人・新田義貞が鎌倉幕府の討伐を目指し進軍を開始。
分倍河原の戦いでは数で劣る幕府軍に劣勢に回るも、幕府軍の詰めの甘さが新田義貞を立ち直させる。
義貞の奇襲を受け総大将・北条泰家が撤退、義貞の倒幕挙兵は見事に成功を治める。

最初は幕府に付いた義貞

鎌倉幕府が派遣した第二次上洛軍の軍勢で、新田義貞は一族として出陣した。
1333年(正慶二年)3月11日に護良親王から後醍醐上皇の院宣を給わり、病気を装って帰国の許可を取り、千早城包囲の軍勢から離れた。
宇都宮高綱の軍勢が新手として加わる前に帰国したので、新田義貞は幕府軍の千早城攻撃が活気を取り戻したことを知らなかった。

義貞が倒幕に回る

御家人たちの幕府に対する不満

義貞挙兵に至る流れは、5月上旬に動き始めた。
北条高家・足利高氏を総大将とした第三次の上洛軍が予想もしない展開で消滅したため、鎌倉幕府は第四次の上洛軍編成を決定、諸国の御家人に出陣の準備を命じる。
義貞は、出陣を免除される代わりに戦費の納入を命じられた。

上洛軍派遣と重い賦課

これだけ上洛軍派遣が続くと、北条氏一門の名越氏は第二次・第三次、金沢氏は第一次と第三次、足利氏も第二次・第三次と複数回務める家が出てきている。
『太平記』は鎌倉幕府が銅銭6万貫を新田荘に賦課したことを義貞が耐えがたいと怒ったと伝えるが、新田氏だけに重い賦課がかかったわけではなかった。

義貞が挙兵、倒幕に動く

5月8日、義貞は上野国新田庄で挙兵し、上野国守護代長崎高頼の軍勢を破った。
その後、越後国から合流した一族は、山伏が触れ回ったことで事情を知り、駆けつけたと義貞に伝えている。
『太平記』は天狗と伝えるが、護良親王は義貞が本領に戻る時に吉野の山伏を派遣したと推測される。

義貞が鎌倉街道に入り南下

やがて義貞は鎌倉街道に入ると、軍勢を南下させた。
鎌倉幕府が第四回上洛戦の準備を御家人に命じていたため、義貞挙兵の情報を聞いてから幕府軍の出陣までの準備期間は短くて済んだ。
鎌倉攻防戦は、義貞挙兵から幕府滅亡まで半月、鎌倉合戦が五日と長期戦になった。

桜田貞国の軍勢と衝突

小手指原で不意の衝突であった

5月11日、義貞の軍勢の追討を命じられた桜田貞国と、鎌倉を目指す義貞の軍が小手指原で衝突した。
鎌倉街道を移動しているところで接敵した不期遭遇戦である。
双方の先頭は敵を見付けたので戦いを始めたが、地形もよく分からず、作戦を考える時間もない状態だった。

桜田貞国が後退、義貞は前進

幕府軍を率いる貞国は初陣であったようで、すぐに分倍河原まで退却してしまった。
義貞は久米川まで軍勢を前進させた。

分倍河原の戦い、義貞が勝利

北条泰家を総大将に10万以上の大軍勢

4日後の5月15日、義貞は武蔵国府のある分倍河原に軍勢を進める。
ここは鎌倉幕府草創期からの重要拠点であり、武蔵国府を取られることは鎌倉幕府の基盤を崩されたことを示す大敗北になる。
鎌倉幕府は、北条高時の弟・北条泰家を総大将として軍勢が集結していた。

義貞退却するが、泰家は追撃せず

15日の合戦は、数で勝る上に新手の鎌倉幕府軍が優勢に戦いを進め、義貞の軍勢を鎌倉街道の支道にある堀兼まで退却させた。
このまま追撃して潰走まで追い込めば、義貞の挙兵は失敗していたのだが、泰家は合戦に勝利したことに満足し、追撃しなかった。
もし幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も決まっていたかもしれない。

義貞の奇襲が決まり、泰家が敗走

この夜、三浦一族の大多和義勝の軍勢が義貞に合流し、義貞は軍勢の立て直しに成功。
翌5月16日、義勝は泰家に対遅れて到着した軍勢を装って接近し、いきなり攻めかかる奇襲を決行した。
義貞の軍勢も呼応して攻めかかり、泰家の軍勢は全面潰走となった。
泰家は重臣や弓馬の芸を誇る被官が死を覚悟して殿を務めたことでようやく脱出し、山之内に退いた。
2度の勝機をみすみす見逃した鎌倉幕府軍の致命的な敗北となった。


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