日本の対外戦争

日本の対外戦争の歴史

古代日本は、朝鮮半島以西の勢力との対外戦争を経験している。
白村江の戦いで大敗を喫した後は目立った対外戦争はなく、戦国時代に代表される日本国内の戦乱の時代となった。
徳川家康の天下統一以降、日本は戦争のない太平の時代を迎える。
しかし、黒船来航・開国後の日本は、再び対外戦争へ突入していく事となる。
日本の対外戦争の2000年の歴史を振り返る。

古墳〜飛鳥時代

百済の要請で高句麗と戦うも敗北

中国の王朝により朝鮮半島国部に設けられた楽浪郡が、高句麗に滅ぼされると、半島に高句麗・百済・新羅による三国時代が到来。
北の高句麗が南進政策を取った為、百済は倭(日本)と結ぶ事で高句麗の侵攻に対抗した。

朝鮮半島での戦い vs 新羅・高句麗
391年に百済王の要請で半島に出兵し、新羅と交戦する。
399年に百済の援軍再要請で半島に出兵し、再び新羅と交戦。
400〜404年には倭国・百済連合軍は高句麗と戦うも敗北する。
554年、新羅に侵攻された百済救援の為に派兵するが、百済の聖明王が戦死、百済は新羅に併合される。

阿倍比羅夫の征夷戦争

658年、越後国(福井から山形県の日本海沿岸地域)に派遣された阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、飽田(あぎた)と渟代(ぬしろ)(※現在の秋田県)の蝦夷(えみし)を多数の軍船で攻撃し服属させる。
その後、蝦夷と敵対していた粛慎(みしはせ、あしはせ)を撃破した。

白村江の戦い(663年) vs 唐・新羅
倭国は唐・新羅連合軍が660年に滅ぼした百済の再興を目指した。
倭国は663年に百済と共に出兵するが、唐の圧倒的な海軍力の前に壊滅的な敗北を喫してしまう。
この敗戦以降、日本は目立った対外戦争は行わず、列島の統治に尽力していく事となる。

奈良時代

対蝦夷の東北戦争

709年、日本は律令国家として初めて蝦夷討伐に着手する。
その後、「三十八年戦争」などを経て100年あまりの間、戦闘を繰り返す。
「蝦夷」とは、「倭国(古代の日本:大和王権)」の支配下に置かれていない、日本列島東北部に住む人々を指し、九州南部の「隼人(はやと)」とともに、当時は異民族と看做されていた。

朝廷、征蝦夷軍を派遣 vs 蝦夷(709年)
反乱鎮圧だけではなく、支配領域拡大が目的であった。
戦後、出羽国(山形・秋田県)を設置する。
蝦夷・隼人の反乱 vs 蝦夷・隼人(720年)
陸奥国(福島・宮城・秋田・岩手県)で按察使(あぜち)殺害など大規模反乱が発生する。
蝦夷の一部が朝廷側に付く。
南の大隅国(鹿児島県)でも国守殺害という大規模な反乱が発生する。(最期の征隼人軍の出動)
神亀元年の反乱 vs 蝦夷(724年)
海道(陸奥国の太平洋岸沿い、宮城県北部)の蝦夷が陸奥大掾(国司の三等官)を殺害する。
征夷の為、藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任じ派遣した。
三十八年戦争 vs 蝦夷(774〜811年)
称徳天皇・道鏡政権での積極的な東北政策(新城造営など)に蝦夷が反発し戦闘状態へ。
特に桓武天皇は、平安京遷都と東北遠征の二大事業を推進した。
阿弖流為の乱 vs アテルイ
阿弖流為(アテルイ)は?〜802年没の蝦夷の族長。
789年、征東大将軍の紀古佐美(きのこさみ)の遠征軍を壊滅させる。(巣伏の戦い)
しかし、802年、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂の征夷軍に敗れ、降伏する。

平安時代

朝鮮半島・大陸からの入寇

9世紀から10世紀に掛けて、新羅国内の情勢混乱により生まれた流民が日本沿岸へ来襲・上陸、海賊行為などを働いた。
「新羅の賊」「新羅寇」とも呼ばれる。
また、高麗人や女真族(沿岸州地方に住むツングース系住民)による入寇も発生した。

弘仁の新羅の賊 vs 新羅(811〜813年)
新羅船20隻が対馬に現れた他、2年後には5隻に分乗した110人が肥前国(長崎県)小値賀島に上陸し、島民と闘乱する。
新羅の賊は島民9人を打ち殺し101人を捕虜にした。
弘仁新羅の乱 vs 新羅(820年)
遠江・駿河両国(ともに静岡県)に移住していた新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。
貞観の入寇 vs 新羅(869年)
海賊船2隻に乗った新羅人が筑前国(福岡県)博多津の豊前国(大分県など)貢調船を襲し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。
追跡したが、見失ったとされる。
寛平の入寇 vs 新羅(893〜894年)
肥後(熊本県)、肥前(長崎県など)・対馬などを新羅海賊が襲った。
長徳の入寇 vs 高麗(997年)
南蛮人(高麗人とする史料もあり)が対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩などに来襲。
民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。
刀伊の入寇 vs 女真(1019年)
女真族の海賊船団が壱岐、対馬、筑前に侵攻する。
殺人、拉致、放火に及んだ。

延久蝦夷合戦

1070年、陸奥守の源頼俊が清原氏と共に蝦夷を攻略。
この遠征により朝廷は、津軽・下北両半島を押え、本州の全てを支配下に置いたとされる。
さらに、「衣曽別嶋(北海道)」まで遠征したとの説もある。

鎌倉時代

元寇 モンゴル帝国の脅威

1266年以降、モンゴル帝国はたびたび日本に通交を求める国書を送ってきた。
しかし、鎌倉幕府が拒絶した為、元は高麗などと連合し、2度にわたって日本に来襲。
「蒙古襲来」「元寇」などと呼ばれる。
>> 元寇

文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」

文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」

文永の役 vs 元・高麗(1274年)
元・高麗連合軍が来襲。
対馬・壱岐を攻略、博多湾(福岡県)に上陸し、優位に戦闘を進めるも、短期間で撤収する。
弘安の役 vs 元・高麗・旧南宋(1281年)
元・高麗連合軍と、旧南宋軍との総勢14万人が二手に分かれて来襲。
侵略軍は博多湾上陸を図るも、20キロにわたる防衛線(石築地)に阻まれる。
九州北部や長門(山口県)沿岸で戦闘を繰り広げるが、連合軍は暴風雨に遭遇し壊滅する。

室町時代

倭寇

倭人(日本人の大陸での呼称)による侵略・海賊行為を指したが、実際には時期によって侵略者が異なる。
前期倭寇(14〜15世紀)は、対馬や壱岐、松浦、五島列島の住民などが中心であったが、後期倭寇(16世紀)は、密貿易を行う中国人が侵奪者の大半を占めていた。

応永の外寇 vs 朝鮮(1419年)
倭寇撃退を名目に、朝鮮王朝の太宗が対馬遠征を決行。
この事件後、朝鮮王朝が懐柔策に転じた事により、前期倭寇は衰退していった。
コシャマインの戦い vs アイヌ(1457年)
渡島半島(北海道)東部のアイヌ民族大首長のコシャマインによる和人(日本人)に対する武装蜂起。
和人の拠点「道南 十二館」は10館が落とされたが、コシャマイン父子の死によりアイヌの蜂起は沈静化した。
三浦の乱 vs 朝鮮(1510年)
朝鮮半島南部の日本人居留地の三浦(プサンポ、チェポ、ヨンポ)で、朝鮮による通交制限を爆発させた日本人居留地による武装蜂起。 朝鮮により鎮圧され、居留地は一時廃絶する。
倭寇図鑑

倭寇図鑑

安土桃山時代

朝鮮出兵

日本列島全土を平定した豊臣秀吉は「明国出兵」を画策し、経路にあたる朝鮮に服属と先導(征明嚮導(せいみんきょうどう))を要請するが、朝鮮は応じなかった。
そこで秀吉は、征明の前に、朝鮮征討を決める。

文禄の役 vs 朝鮮・明(1592〜1593年)
16万の軍勢が肥前名護屋(佐賀県)に集結。
1592年4月、釜山周辺に上陸し、漢城(現ソウル)、平壌、さらに咸鏡道まで制圧した。
7月になると明軍も参戦。
李舜臣の朝鮮水軍の活躍もあり(諸説あり)、戦線は停滞。
翌年、明国と講和交渉を始める。
慶長の役 vs 朝鮮・明(1597〜1598年)
民国との講和交渉決裂により戦闘が再開され、半島南辺の諸城を攻略。
しかし、日本側は苦戦を強いられ、加藤清正も明軍に苦戦し、北方への侵攻を阻まれていた。
そうした最中に秀吉が死去。
日本軍は撤収を開始した。

江戸時代

琉球侵攻 vs 琉球(1609年)
秀吉の朝鮮出兵でこじれた日中関係修復の為、徳川家康は琉球に斡旋役を要請するが、琉球側は中立であった。
これを受け、薩摩の島津家久が家康に出兵を願いでる。
薩摩側は琉球を介した貿易による利益の独占を目論んでいた可能性もある。
幕府から武力行使の許可を得た薩摩軍は、奄美大島、徳之島などを攻略、沖縄本島に上陸する。
首里城を包囲された琉球国王の尚寧は和議を申し入れた。
シャクシャインの戦い vs アイヌ(1669年)
徳川政権が松前氏にアイヌ交易の独占権を与えた為、交易上、不利な立場に立たされたアイヌ諸部族の不満が拡大。
シブチャリ(現・北海道新ひだか町)の首長のシャクシャインらの呼掛けにより、アイヌ側は一斉に蜂起。
松前藩はアイヌを分断、シャクシャインは謀略により殺害されてしまう。

明治〜大正

欧米列強の進出

18世紀後半以降、蝦夷地周辺にロシアや英国の艦船が来航し始めたのを契機に、欧米列強が相次いで来航。
徳川政権は、異国船打払令や、台場の建設などの海防強化策を次々に打ち出す。

琉球処分 vs 琉球(1872〜1879年)
1872年、明治政府は琉球国王の尚奉を藩王に封じる事を決定。
琉球王国を琉球藩とし、宗主権を主張する清国との関係廃絶を要求した。
反攻する琉球士族に対して、軍隊と警官を派遣。
琉球王国は450年の歴史を閉じた。
台湾出兵 vs 台湾(1874年)
1871年、台風で遭難し台湾に漂着した琉球漁民が拉致され、多数が殺害される事件が発生。
明治政府は深刻に賠償を求めたが、清国は管轄外として拒否した。
政府内などに高まった台湾征討の声に応じて、台湾南部に出兵。
清国から戦費賠償金などを受け取り、撤退。
琉球の日本帰属も決定した。

軍拡から対外戦争へ

1873年の徴兵令発布で17〜40歳の男子は兵籍登録され国民軍に編入された。
当初は国内での軍事活動を想定した鎮台が置かれていたが、1888年に師団制がしかれ、外征軍が整備されていった。

日清戦争 vs 清(1894〜1895年)
南下政策を図るロシアへの防衛線としての朝鮮進出は、日本にとって、朝鮮の宗主国・清と対立する事であり、両国は戦争へと向かう。
豊島沖海戦で朝鮮半島西岸の制海権を握った日本は朝鮮半島に上陸。
清国軍を半島から駆逐すると、黄海海戦、旅順などでの戦いに勝利。
北京への攻撃を恐れた清国は講和を求め、賠償金の支払いと、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲に応じた。
>> 日清戦争
北清事変 vs 義和団・清(1900年)
欧米列強による中国の分割支配が進むなか、排外思想を掲げる義和団が「扶清滅洋」を掲げて蜂起。
清も蜂起に同調して列強に宣戦布告した為、日本・イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアが共同出兵し、北京を制圧。
日本は最大規模の兵力を派遣した。
日露戦争 vs ロシア(1904〜1905年)
ロシアは北清事変後も満州(中国東北部)に駐兵し撤兵しなかった為、日本は韓国、ロシアは満州を勢力圏とするよう交渉したが、ロシアが拒んだ為、日本は開戦に踏み切った。
陸軍による旅順攻略戦、奉天会戦、海軍によるバルチック艦隊との日本海海戦などに勝利。
アメリカに和平交渉への仲介を依頼し、日本は旅順・大連の租借権、南満州の諸権益、樺太南半分を譲り受け、韓国の統治権を認めさせた。
>> 日露戦争
第一次世界大戦 vs ドイツなど(1914〜1918年)
人類史上初の世界大戦。
主戦場は欧州だったが、日本は日英同盟の下に連合国側として参戦し、ドイツが権益を持つ中国・山東省の租借地の青島や南洋諸島を攻略した。
一方、連合国軍からの要請で海軍が艦船をインド洋・地中海に派遣し、護衛・救助活動を行った。
戦後、日本はドイツ支配下にあった赤道以北の太平洋上の南洋諸島を委任統治領とした。
1917年、日本海軍は地中海での兵員輸送作戦の護衛任務に付いた。
大いに成果を上げたが、派遣されていた駆逐艦の榊が大破、59人が戦死した他、地中海戦線では日本兵計78人が戦死。
戦後、マルタ島に墓碑が作られている。
>> 第一次世界大戦
シベリア出兵 vs ロシア(ソ連)(1918〜1922年)
1917年に起こったロシア革命に対する日本を含む連合国軍による干渉戦争。
連合国軍がウラジオストクに上陸。
日本とアメリカが主力で、他にイギリス、カナダ、イタリアなどが出兵した。
日本軍は、連合国軍の規約を無視し、北樺太、沿海州、満州にまで侵攻。
他の連合国軍撤兵後も単独駐留を続けた。
尼港事件 vs ソ連・中国・朝鮮(1920年)
アムール川河口の町ニコラエフスク(尼港)で起きた赤軍パルチザンによる、日本人約730人を含む現地住民虐殺事件。
パルチザンにはロシア人以外に朝鮮人・中国人が加わっていた。
この事件が理由で、日本軍はシベリア駐兵を長期化させた。

昭和

山東出兵 vs 中国(1927〜1928年)
第一次若槻内閣の総辞職を受けて誕生した田中義一内閣は従来の対中不干渉主義から強硬策に転じ、蒋介石の北伐に対して山東省における日本の権益確保と日本人居留民保護の為、3度にわたって山東に出兵した。
済南事件 vs 中国(1928年)
第二次山東出兵の際、国民革命軍の一部が中国の山東省済南の日本人を襲撃した為、日本軍と武力衝突。
これを機に増派(第三次山東出兵)を決定する。

アジア・太平洋戦争への道

張作霖爆殺事件 vs 中国(1928年)
中国の奉天(現・瀋陽市)近郊を通過中の列車に乗っていた奉天軍閥指導者の張作霖(ちょうさくりん)を、中国の国民党の犯行に見せ掛けて、関東軍が列車を爆破し殺害。
関東軍の満州支配を有利に進めようとしたが、張作霖の息子の張学良は国民党政権に合流する事になった
満州事変 vs 中国(1931年)
中国の奉天郊外にある柳条湖で、関東軍による南満州鉄道線路爆破(柳条湖事件)を切っ掛けに関東軍が五か月ほどで満州を占領した。
翌年3月には「満州国」が建国された。
第一次上海事変 vs 中国(1932年)
満州事変から世界の目を逸らすために、日本は排日運動が激化していた上海に軍隊を上陸させる。
アメリカ・イギリスの講義などで撤兵
盧溝橋事件 vs 中国(1937年)
北京近郊の盧溝橋付近で、夜間演習中の日本軍に対して中国兵が射撃した事を口実に、中国軍を攻撃。
一旦、停戦協定が結ばれるものの、宣戦布告のないまま日中の全面戦争に発展した。
第二次上海事変 vs 中国(1937年)
大山勇夫海軍中尉射殺事件を切っ掛けに日本軍が上海に進撃した。
戦火は中国南方に拡大した。
ノモンハン事件 vs ソ連(1939年)
「満州国」とモンゴル人民共和国との国境線を巡って起こった日ソ両軍の国境紛争事件。
ソ連軍の圧倒的な空軍・機械化部隊の攻撃で日本軍は壊滅的打撃を受け、停戦した。

第二次世界大戦

1941年12月8日 未明、日本陸軍が英領マレーを攻撃、その1時間ほど後、日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
1945年8月14日、ポツダム宣言受託を連合国に通知し、日本は無条件降伏した。
戦争に敗れた日本は、1946年11月公布の日本国憲法で、戦争の放棄、戦力の不保持、国の交戦権の否認を宣言した。
>> 第二次世界大戦

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 20号 対モンゴル戦争は何を変えたか』朝日新聞出版 監修:高橋典幸

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