信長が安土を選んだ理由

信長が安土を拠点とした理由

経済拠点として安土が選ばれた

軍事的にはそこまで強固な城ではなかった

織田信長が安土の地に安土城は極めて豪華絢爛な城であったとされる。
しかし、安土城は城そのもの、軍事拠点としては、さほどに巨大でも堅固でもなかった。
観音寺城でも佐和山城でもなく、信長はなぜこの地を選んだのか?
それは軍事拠点としてではなく、経済拠点としての点が優先された結果であった。
信長が安土を拠点とした理由を簡単にまとめる。

室町幕府の滅亡後、信長が安土へ

信長が築いた安土城

天正7年(1579)から3年の歳月をかけて築かれた安土城は5層7重の天守を備えた豪壮絢爛な城であったという。
浅井・朝倉氏や室町幕府を滅ぼし、足利義昭による信長包囲網を崩して天下に号令した織田信長にとって、安土は居城にふさわしい豪壮なものであった。

京と岐阜を行ったり来たりだった信長

信長はなぜ安土を居城に選んだのであろうか。
安土城を築く以前の信長は、京と岐阜を結ぶ中継地としては、もともとあった、近江の佐和山城や鎌刃城などを使うことが多かったという。
なお、両城には信長が座する為に改修されたと考えられる遺構が残っている。
信長は新たな城を手に入れると、常に自分好みに改修していたようだ。

魅力的だった佐和山城

琵琶湖の交易港として機能

特に佐和山城は信長自身が整備をした中山道を抑える位置にあり、琵琶湖の交易港としても魅力的であった。戦国時代中期に近江を支配していた六角氏や京極氏も佐和山城を重要視していた。

石田三成も選んだ佐和山城

後に豊臣秀吉の重臣、石田三成が佐和山に城下を築いたことから考えても、佐和山は十分に信長の居城に適した立地だったといえる。

しかし、信長は佐和山城を選ばず

しかし、信長は佐和山に居城を移すことは無かった。
佐和山は陸水運上での重要拠点ではあるものの、京を中心に天下に信長の権勢を示すに足る場所ではなかったのだろう。

信長の安土城造り

ゼロからの拠点づくりに拘った信長

代わって撰地されたのが安土である。
小牧山城の時と同じく、信長は安土にゼロからの拠点づくりを始めている。
既に造られていた城、つまり、中古の、前の主がいる城は嫌だったのかも知れない。

信長の安土城は琵琶湖に面した低湿地だった

現在の安土の地は琵琶湖から少し内陸に入り込んでいるが、これは明治時代に食糧難に対応するために干拓をしたためであり、信長時代の安土は琵琶湖に接していた低湿地であった。
この「琵琶湖に面している」という点が重要であった。港として機能するからだ。

安土の城そのものは決して堅固な構造ではない

現在は観光地として賑わっている安土城だけを見れば、そこはけっして険峻な要害とはいえないだろう。
付近にある六角氏が居城とした観音寺城からは、眼下に見下ろせるぐらいである。

実は堅牢だった安土城、広い視点で観る

そもそも、大軍が近付き難い場所にあった

しかし、この地を局地的ではなく戦略的に見た場合、東西は鈴鹿山脈と琵琶湖に挟まれており、南北を瀬田と彦根に挟まれた隘路に囲まれた近江盆地の中心に位置していて、鎌倉などと同じく天然の要塞となっている。

包囲されれば弱いが、敵が近付けない構造

安土の城そのものが囲まれれば脆いだろうが、十分な兵力で周辺全体を維持していれば、防備の面での不安はない。

琵琶湖が安土城の守り神

琵琶湖のおかげで水運が強固だった

さらには、琵琶湖の湖上流通を抑えられるので、北国から日本海へのルートや、淀川経由で山崎や大坂への交易も可能であり、経済の中心として発展する余地もある。
安土は“外から見れば内陸部”であったが“内から見れば海に面した海洋の地”だったのだ。

京都に近く、存在感抜群

西国と東国を繋ぐ要地に安土城が造られた

また、京に近いため、朝廷に政治的影響力を及ぼすことも可能である。
小牧山から岐阜へと居城を移したときは、敵勢力への楔を打ち込む形で自らを最前戦へと置いていたが、安土の地は隘路の中心から各方面へと放射線状へ展開する要地である。
上洛を果たして実質的な中央権力を持った信長が、羽柴秀吉や柴田勝家などの重臣に方面軍を任せて各地へ派遣する構想を持っていたとすれば、絶好の地であったわけである。

安土でこそ“強い将軍”足り得た信長

前任の室町幕府は京都の中に将軍が住んでいたが、それゆえに“弱い将軍”であったが、安土に住む信長は“強い将軍”足り得たのだ。
現に信長は本能寺で討たれてしまったが、その本能寺は京都にあった。
信長が常に安土に常駐していれば、本能寺の悲劇は回避できていただろう。

安土を囲んだ琵琶湖の水運

琵琶湖畔の壮大な天主閣は、家臣らの居城と水路で繋がっていた。
安土城の真価は、琵琶湖の湖上交通にこそあったのだ。

陸上交通は既に抑えていた信長

陸運においても中心的役割を果たした安土城

信長が安土城を築いた際、それまで居城としていた岐阜城から安土へと居を移したのは、支配する版図の拡大に伴い、安土が中心的な位置にあったこと、かつ交通の要衝であったことがあげられる。
畿内・東海へと通じる東山道、北陸へ通じる北国街道、伊勢へと通じる八風街道などが交差していたのである。

陸運交通の要衝に壮大な“天主”を置いた

標高196メートルの安土山の頂にそびえる総石垣造りで豪壮な天主閣を持つ安土城は、天下布武を唱える信長の居城として街道を行き交う人々の目に強烈な存在感を放っていた。 信長は、近江を中心にして陸運を既に押さえていたのだ。

琵琶湖を結ぶ湖水上の交通

羽柴秀吉に与えた長浜城、明智光秀の坂本城、信長の甥である津田信澄の大溝城など、織田家臣らの居城を俯瞰して着目してみると、幾つかの共通点が上げられる。

信長の重臣らの居城も琵琶湖に面していた

いずれも平城であり、それぞれが交通の要衝にあった。
さらにはそれぞれの城が琵琶湖を背後にした構造をとっていること、そしていずれも城内に港を擁していたのである。
それはつまり自由に琵琶湖内を舟で行き来できるということであり、完全に信長勢力が琵琶湖の制海権を手中にしていたということであった。

琵琶湖そのものが一つの巨大な城だった

琵琶湖をつうじて織田家臣らが協力できる構造

どこかの城が敵の攻撃を受けると、速やかに援軍が舟で駆けつけることができる強力な連携が、構築されていたのだ。
信長は、自らの居城だけではなく、家臣に与える城についても、その位置や役割を綿密に計算して配置していたのだろう。


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