義昭と光秀の関係

義昭と光秀の関係

足利義昭室町幕府最後の将軍で、明智光秀を「公方衆」として従えた。
信長と義昭の出会いにおいて、仲介役という役割を果たしたのが光秀であった。
光秀と義昭の関係はどのようなモノであったのか、見てみる。

足利義昭

室町幕府15代将軍

義昭は信長に擁されて上洛し第15代将軍に就任するが、やがて信長と対立信長包囲網を築き上げる。
しかし、信長より京都から追放され備後国に下向、室町幕府が滅び最後の将軍となった。
義昭に仕えていた光秀であったが、光秀は信長と対立した義昭を見限り、信長方についている。

光秀が信長と義昭を仲介

当初、朝倉氏を頼っていた光秀と義昭

信長と義昭の上洛は戦国史の重要な分岐点であり、二人の仲介役という役割を果たしたのが光秀であったといわれる。
永禄8年(1565)5月、将軍・足利義輝が暗殺された。
この頃、一乗院門跡となっていた弟の義昭は近江・若狭を転々とした後、朝倉義景を頼って越前に入る。
当時、朝倉家に仕えていた光秀は、義昭の側近・細川藤孝に接近し、信長と義昭の橋渡し役を務めたという。

仲介のようす

光秀が仲介役を果たす経緯は『細川家記』によると次のようなモノであった。
光秀は藤孝に対し「朝倉を頼っていたのでは義昭を京に帰す大功は立てられない、信長は当代の勇将で頼むべき人物である」と説き、岐阜に使者を送るよう勧めた。
後日、義昭の依頼を受けた光秀が自ら使者となって岐阜へ赴き、義昭の帰洛(都に帰ること)を助けるよう信長へ説いたという。

上洛を果たした義昭が将軍となる

光秀は優柔不断な義景を見限り、信長の非凡な能力将軍候補としての義昭の将来性に賭けたのである。
永禄11年(1568)7月、義昭は岐阜城下に入り、三カ月後、信長と共に上洛を果たし、征夷大将軍に任じられた。

幕府と信長の両属であった光秀

この頃の光秀は、信長の家臣でありながら義昭にも近侍する立場にいた。
信長の家臣として京都の行政に携わる一方、義昭からも知行を与えられ、その下知を武将に伝えるなど将軍の近習的な役割を果たしている。
元亀3年(1572)4月の河内出兵の際の軍事編成では信長方の佐久間信盛・柴田勝家らと別に、光秀の名が「公方衆」としてあげられている。
光秀の信長と義昭の二人の主君を持つところは、他の織田家臣と光秀の異なる点であった。

義昭との決別

早くから信長よりだった光秀

光秀のこうした両属の立場だが、恐らく表面的なものでしかなく、光秀の内心は早くから信長へと傾いていたと思われる。
元亀元年(1570)、信長が義昭の政治行動を制限する「五カ条の状書」を突き付けたとき、光秀は朝山日乗と共に証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せる事を義昭に誓わせた文書に光秀が署名したという事は、光秀が信長を支持する立場を明確にした事に等しい。

光秀が“義昭の下を去る”事を決意

さらに翌二年(1571)頃の自筆消息では、光秀は義昭に御暇を賜りたい旨を申し出ている。
この直前、光秀は信長から近江・坂本城主に任じられており、織田家中でも別格の扱いを受け始めていた。
ここに至って光秀は、将来性の乏しい義昭と決別し、信長の将来に賭ける事を決意した可能性が高い。

室町幕府が滅亡

元亀4年(1573)2月、義昭が反信長を掲げ挙兵すると、光秀は公方衆の拠る近江・石山城と今堅田城を攻撃、反義昭の姿勢を明確にした。
そして同年7月、義昭は槇島城の戦いに敗れ室町幕府が滅亡、光秀の両属関係は終りを告げた。

義昭のその後

義昭は河内・若江城、紀伊・興国寺などを転々とした後、天正4年(1576)に備後鞆に移り、毛利氏を通じて幕府の回復を画策するが望みが叶う事はなかった。
京都を追放された後も義昭は厳密には将軍職にあったわけだが、豊臣政権確立後に辞しする。
豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。


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