戦国時代、合戦時の兵糧の運搬・調達方法と行軍の難所の乗り越えはどうしていたのか。小規模戦での食糧は現地調達であったが、それ以外はすべての物資は本国から輸送していた。港から港へ船で運び、港から現地へは陸運で運ぶしかなかった。人力以外には馬しか方法がなかった陸運において、荒れた道路や河川は戦場への行軍の妨げとなった。
戦国時代の初めの頃は、合戦とはいっても、早ければ当日、遅くても2〜3日で決着がついた。 それは、敵も味方も、それほど大規模な兵力を動員することができなかったためである。(近代戦争では戦争当事国の規模が非常に大きいため、作戦単位でも数カ月や長くて数年に及ぶこともある) 必然的に、兵糧などの運搬も、特に考慮する必要はなかった。 出陣する際には、兵卒が各自、3日分の兵糧を持参していればよかったからである。
また、それよりも長期戦になったとしても、動員する兵の数は1万にも満たないから、現地で調達することもできた。
現地で調達といっても、敵から奪ってばかりいたわけではない。 もちろん、戦略として田畑から強制的に刈り取る刈田(かりた)という方法をとることもあった。 しかし、それだと土地を征服しても新たに支配していくことは難しくなってしまう。 そのため、商人あるいは農民から、直接買い付けることもあったようである。
しかし、やがて弱小の戦国大名は淘汰され、戦国時代の末期になると、大・大名同士の戦いになっていく。 そうなると、動員される兵の数も膨大となり、大軍と大軍同士の戦いになったことで、合戦も長期化することとなった。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、20万とも号する大軍が動員されるようになっている。 しかも、戦いの開始から終結まで、3カ月もかかっている。
これだけの大軍ともなると食べる量も多く、兵糧を現地で買い入れるわけにはいかない。 現地の米をすべて買い付けたとしても、間に合わないくらいの量だからである。 そのため、自国から運ぶことが一般的だった。
また、合戦が長期化したことによって必要になったのは、兵糧ばかりでない。 鉄砲に使う弾薬、弓に使う矢といった、武器などの消耗品も必要となった。 こうした消耗品も、現地で生産できないものについては、本国から運ばなければならなかった。 とはいえ、兵糧や武器弾薬といった軍需物資は、体積もあるうえ、重量もある。 そう簡単に輸送できるというものでもなかった。
こういった軍需物資は、基本的に船で運ぶというのが古くからの常套手段である。 このように水運を活用する傾向は、戦国時代だけでなく、江戸時代も変わっていない。 (近代戦争のように陸運が主流となったのは、近代になって鉄道や道路が整備されてから)
船を利用することで、湊(港)から湊(港)に運ぶことは可能だった。 しかし、戦場が必ずしも湊に近いとは限らない。湊からはどうしても陸路で運ぶ必要がある。
とはいえ、戦国時代の街道は、敵国からの侵入を阻止するため、わざと狭くしているものだった。 特に日本の場合は、広い土地も少なく、山を越えなければならないこともあり、都市部以外、荷車などはあまり活用できなかっただろう。 せいぜい、馬に載せて運ぶくらいだった。
しかも、多くの川には橋すら架けられていなかった。 橋が架けられていたのは、よほど交通量の多いところくらいである。
そこで、行軍時には、本隊が進軍する前に舟橋を架けていた。 舟橋とは、舟を並べ、その上に板を渡して人馬が渡れるようにした急ごしらえの橋である。 兵糧や弾薬などの軍需物資だけでなく、兵も渡ることができたから、これによって多少は進軍のスピードがあがった。
川を渡るのは、常に危険と隣り合わせ。増水による鉄砲水や渡河中の敵軍の攻撃、背水の陣となる渡河後の攻撃など、油断大敵だった。
【浮橋】川は軍事的機動力や商品流通の阻害要因となっていた。浮橋は小舟を竹綱でつなぎ、その上に板をわたし押さえ木を打って固定したもので、洪水時や防衛上必要な時には撤去も容易であった。(『山川 詳説日本史図録』より引用)
鎌倉時代の合戦は集団で激突しても、騎馬武者同士の一騎打ちが戦いの主流だった。しかし、蒙古襲来での元軍との戦いで、個人戦よりも集団戦での戦いが有利だと知る。やがて戦国時代になると、野戦も攻城戦も大軍を動員した集団戦が主流となっていく。
織田信長の登場以降、大規模な攻城戦が行われるようになる。なかでも秀吉は、大軍で城を包囲する兵糧攻めを得意とした。兵糧攻めは、カ攻めに比べて城を攻め落とすのに時間はかかるが、味方の損害は比較的少なかった。
戦国時代、万単位の軍勢同士が激突した野戦は、徳川・織田連合と武田が戦った三方原の戦い、長篠の戦い、伊達政宗が蘆名義広を破った摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなどである。日本は国土が狭いためか、大規模野戦は意外と少ない。
川中島の戦いや姉川の戦いの他、秀吉軍の渡河が勝利の分かれ目となった山崎の戦いも主戦場は河原であった。河原は、川を挟んで両軍が着陣しやすく、また開けた扇状地などもあり大軍同士が合戦を行うには、適地だった。