兵糧・補給物資の運び方

兵糧・補給物資の運び方

戦国時代、合戦時の兵糧の運搬・調達方法と行軍の難所の乗り越えはどうしていたのか。小規模戦での食糧は現地調達であったが、それ以外はすべての物資は本国から輸送していた。港から港へ船で運び、港から現地へは陸運で運ぶしかなかった。人力以外には馬しか方法がなかった陸運において、荒れた道路や河川は戦場への行軍の妨げとなった。

目次

主な兵糧確保の方法

船で運ぶ
兵糧などの大量で重い荷物は陸送ではなく、船によって運ぶのが一般的だった。しかし、船が近づけないような戦場の場合は近隣の港で一旦荷を降ろし、積み替えて小荷駄隊が戦場まで運んだ。
小荷駄隊での輸送
小荷駄は基本、人力や馬、荷車で領国から運んだ。ただし荷車での輸送は、道路整備が進んでおらず、困難を極めた。そのため、工兵部隊により兵站道の整備もされた。軍隊の移動および、大量の荷物を円滑に陸送するためにも、道路整備は重要だった。
敵の領地で稲を刈り取る
敵国の食料を減少させるため、敵軍の稲を刈り取る行為を行った。その際、収穫間近だと、味方の兵糧として活用した。
商人から購入
領国や同盟国の領地では、行軍中に商人から買い入れることもあった。しかし、同盟国以外の領地や敵地での兵糧の買い入れは、困難を極めた。

小規模合戦では兵糧は現地調達

兵糧(食糧)は戦争規模が大きいほど必要になる

戦国時代の初めの頃は、合戦とはいっても、早ければ当日、遅くても2〜3日で決着がついた。 それは、敵も味方も、それほど大規模な兵力を動員することができなかったためである。(近代戦争では戦争当事国の規模が非常に大きいため、作戦単位でも数カ月や長くて数年に及ぶこともある) 必然的に、兵糧などの運搬も、特に考慮する必要はなかった。 出陣する際には、兵卒が各自、3日分の兵糧を持参していればよかったからである。

兵数が数千程度なら食糧は現地で何とかなる

また、それよりも長期戦になったとしても、動員する兵の数は1万にも満たないから、現地で調達することもできた。

田畑から刈り取るか、現地住民から買い取るか

現地で調達といっても、敵から奪ってばかりいたわけではない。 もちろん、戦略として田畑から強制的に刈り取る刈田(かりた)という方法をとることもあった。 しかし、それだと土地を征服しても新たに支配していくことは難しくなってしまう。 そのため、商人あるいは農民から、直接買い付けることもあったようである。

大規模合戦では兵糧は事前用意

大・大名同士の戦は規模が桁違いに大きくなる

しかし、やがて弱小の戦国大名は淘汰され、戦国時代の末期になると、大・大名同士の戦いになっていく。 そうなると、動員される兵の数も膨大となり、大軍と大軍同士の戦いになったことで、合戦も長期化することとなった。

1590年の小田原攻め〜期間3カ月に兵力20万

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、20万とも号する大軍が動員されるようになっている。 しかも、戦いの開始から終結まで、3カ月もかかっている。

現地の兵糧では足らず、自国から運ぶ算段を付ける

これだけの大軍ともなると食べる量も多く、兵糧を現地で買い入れるわけにはいかない。 現地の米をすべて買い付けたとしても、間に合わないくらいの量だからである。 そのため、自国から運ぶことが一般的だった。

武器・消耗品の補給も本国から

武器類は現地調達が難しく、持ち運びも大変

また、合戦が長期化したことによって必要になったのは、兵糧ばかりでない。 鉄砲に使う弾薬、弓に使う矢といった、武器などの消耗品も必要となった。 こうした消耗品も、現地で生産できないものについては、本国から運ばなければならなかった。 とはいえ、兵糧や武器弾薬といった軍需物資は、体積もあるうえ、重量もある。 そう簡単に輸送できるというものでもなかった。

軍需物資は港から港へ船で運ぶ

船による運搬は古来からの常套手段

こういった軍需物資は、基本的に船で運ぶというのが古くからの常套手段である。 このように水運を活用する傾向は、戦国時代だけでなく、江戸時代も変わっていない。 (近代戦争のように陸運が主流となったのは、近代になって鉄道や道路が整備されてから)

当然、港からは陸運で運ばなければならず

船を利用することで、湊(港)から湊(港)に運ぶことは可能だった。 しかし、戦場が必ずしも湊に近いとは限らない。湊からはどうしても陸路で運ぶ必要がある。

陸運は難所だらけ〜川や狭い道

当時の街道は狭く、運搬には不向きだった

とはいえ、戦国時代の街道は、敵国からの侵入を阻止するため、わざと狭くしているものだった。 特に日本の場合は、広い土地も少なく、山を越えなければならないこともあり、都市部以外、荷車などはあまり活用できなかっただろう。 せいぜい、馬に載せて運ぶくらいだった。

橋の架かっていない川が多かった

しかも、多くの川には橋すら架けられていなかった。 橋が架けられていたのは、よほど交通量の多いところくらいである。

【舟橋】という急造の橋をかけて行軍した

そこで、行軍時には、本隊が進軍する前に舟橋を架けていた。 舟橋とは、舟を並べ、その上に板を渡して人馬が渡れるようにした急ごしらえの橋である。 兵糧や弾薬などの軍需物資だけでなく、兵も渡ることができたから、これによって多少は進軍のスピードがあがった。

最大の難所だった川の渡り方

「背水の陣」というだけあり危険だった渡河

川を渡るのは、常に危険と隣り合わせ。増水による鉄砲水や渡河中の敵軍の攻撃、背水の陣となる渡河後の攻撃など、油断大敵だった。

舟で渡る
安全に渡河できるが、大軍が一度に渡ることはできない
橋まで迂回
大軍で渡れるような橋は少ない。さらに、敵に待ち伏せされる可能性もあった
舟橋
舟を連結して仮設の橋を作る方法だが、舟が流されることもあった
徒歩
増水時は渡れない。また、渡河中に攻撃される危険性もあった
浮橋『山川 詳説日本史図録』より引用

【浮橋】川は軍事的機動力や商品流通の阻害要因となっていた。浮橋は小舟を竹綱でつなぎ、その上に板をわたし押さえ木を打って固定したもので、洪水時や防衛上必要な時には撤去も容易であった。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

大合戦が行われた場所

元寇以降、大規模戦が増える

鎌倉時代の合戦は集団で激突しても、騎馬武者同士の一騎打ちが戦いの主流だった。しかし、蒙古襲来での元軍との戦いで、個人戦よりも集団戦での戦いが有利だと知る。やがて戦国時代になると、野戦も攻城戦も大軍を動員した集団戦が主流となっていく。

攻城戦

織田信長の登場以降、大規模な攻城戦が行われるようになる。なかでも秀吉は、大軍で城を包囲する兵糧攻めを得意とした。兵糧攻めは、カ攻めに比べて城を攻め落とすのに時間はかかるが、味方の損害は比較的少なかった。

野原の合戦

戦国時代、万単位の軍勢同士が激突した野戦は、徳川・織田連合と武田が戦った三方原の戦い長篠の戦い伊達政宗が蘆名義広を破った摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなどである。日本は国土が狭いためか、大規模野戦は意外と少ない。

河原の合戦

川中島の戦いや姉川の戦いの他、秀吉軍の渡河が勝利の分かれ目となった山崎の戦いも主戦場は河原であった。河原は、川を挟んで両軍が着陣しやすく、また開けた扇状地などもあり大軍同士が合戦を行うには、適地だった。


↑ページTOPへ