三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。
上洛を目指す西上作戦を始めた甲斐の武田信玄は、その途上の三方ヶ原で徳川家康と戦い、徳川軍を圧倒した。
家康は単騎で辛うじて浜松城に逃げ帰ったといわれ、家康の生涯で最大の敗戦となった。
徳川家康としてみれば国境を接する武田信玄は、戦上手でいつ攻めて来るか分からない恐怖の存在であった。
そんな信玄が1572年10月3日、西上を始めた。
織田信長と将軍・足利義昭との仲が軋み出し、反信長包囲網が形成されつつある中で、自分が動けば信長を倒せると考えたからだといわれている。
10月10日に遠江に入った信玄が最初の標的としたのは二俣城であった。
ここは、三方ヶ原台地の北の端に位置する城で、もしここが落とされてしまうと、家康の居城・浜松城を守る城が無くなってしまう。
信玄は四男・勝頼に命じて二俣城を攻めさせるが、守る家康も必死であった。
二俣城をめぐり2カ月も膠着状態が続くが、勝頼は城で使う水を汲み上げていた水の手櫓を破壊し、開城させてしまう。
二俣城の落城を受け家康は、自分だけでは勝ち目が無いと信長に援軍を要請する。
これに応えて信長は援軍を派遣するが、その数はわずか3000人程であった。
この頃、信長は浅井氏・朝倉氏・石山本願寺などとの熾烈な勢力争いを展開しており、信玄と戦う余裕はなかったのだ。
事実、信長は信玄と争う事は望まずに和平を望む書状まで出している程であった。
12月22日、信玄は再び進軍を開始する。
家康を挑発して誘い出す為に、信玄は真っ直ぐ進まずに三方ヶ原台地を横断する進路を取った。
信玄は事前に三方ヶ原の地形を把握しており、信玄が家康の前を通り過ぎれば“追撃の好機”と追って来るであろうと予測していたのだ。
そして家康はまんまと挑発に乗るかの様に北上を開始、信玄の後方を襲う為に出陣する。
しかし、家康が次に目にしたのは、既に陣を張り、家康を討つ為に待ち構える武田軍の姿であった。
そして午後四時頃には戦闘が始まったが、すぐに家康軍の不利な状況が明るみとなり、午後六時頃には家康軍は総崩れとなった。
甲斐国の兵は勇猛果敢で名高く、さらに徳川軍約1万1000、武田軍約2万7000と数の上でも圧倒的に家康が不利であった。
そして、敗北した家康は命からがら浜松城へと退散する事となる。
このとき家康は、恐怖のあまり馬上で脱粉した程であったと伝わっている。
武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2000人も犠牲を出している。
また、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱らた有力家臣、二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。
大敗北を喫した家康であったが、ここで信玄に最後の一矢を報いている。
浜松城に引き上げた家康が、城では篝火を焚き、太鼓を叩かせて、再び出陣する構えを見せる。
その後、家康軍は、犀ヶ崖に陣取った武田軍に夜襲を仕掛ける。
慌てた武田勢は次々と崖に落ちて死んだと伝わっている。
※ただし「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出であり、創作の可能性が高い
三方原合戦後に武田氏は正式に信長と断交する。
ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は遠江国で越年した後、元亀4年(1573年)正月に東三河へ侵攻する。
2月16日には徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略する。
しかし、信玄の病状悪化に伴い、武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断。
そして、帰路の元亀4年/天正元年4月12日に信玄は信濃伊那郡駒場において病死してしまう。
信玄の死を受けて、家康・信長は窮地を切り抜ける事に成功した。