戦国時代の足軽

足軽〜

兵糧袋に食糧(米)を詰め、竹製の水筒を持ち、草鞋に三角の陣笠、揃いの簡易鎧、そして大小の刀を差す。足軽は戦場の変化とともにその姿を自在に変えていった。

目次

足白・足がろ〜最初は雑用だった足軽

足軽の始まりは平安末期、役目は【雑用人】

足軽の始まりは平安時代の末期とされ、当時の資料にも「足白・足がろ」などの名称で、すでに記録されている。
ただし、その初期足軽の役目は、主要な戦闘者(騎馬武者)の働きを助ける雑用人に過ぎなかった。

鎌倉後期より足軽の存在感が増しだす

しかし、次第に合戦の規模が拡大すると、彼らは公然と打物(刀や薙刀)をとって主人とともに戦う徒歩兵と化していく。
特に鎌倉時代に起こった蒙古襲来や土地制度の崩壊から出現する悪党との戦いで様相が変化し、一騎討ちの騎馬戦から山塞を攻め合う徒歩戦が主流となると、それらの兵は重宝された。

室町期、足軽が徒党を組み、悪事も働くように

さらに南北朝室町と時代が下り、一揆(江戸時代の農民一揆と異なる地域住民の完全な戦闘同盟)や都での慢性的な小戦が発生。あぶれ者たちが徒党を組む「足軽働き」も始まる。
当時の貴族が「足がるという者、長く停止せらるべき事(中略)或は火をかけて財宝をみさぐる事はひとえにひる強盗というべし」(一条兼良文書)と嘆くほど、彼らは社会問題化した。

戦後大名らが足軽を傭兵として戦力に活用

そして、下の者が上に歯向かう下克上の風潮が顕著となるや、実力で地域を押さえた初期の戦国大名は、鼻つまみの雑兵・足軽を傭兵として再編成。自軍の戦力として活用し始めた。

戦国時代、よく知られる足軽の姿に

三角笠に揃いの簡易鎧の下級兵士たち

戦国時代は戦乱に明け暮れた悲惨な時代とされるが、農工業は前時代より進化している。新たに考案された強弓・長柄槍を足軽に与え、多数で相手を制圧する集団戦術が一般化した。
やがて、よく知られる、三角笠に揃いの簡易鎧で戦場を闊歩する下級兵士が登場する。

旗や印をつけ敵味方を識別

参戦する兵の数が増え、旗竿は巨大化していった。

敵味方を見分けるアイテムを装備

武者の世になると、動員される下級戦闘者の数も増え、戦場では瞬時に敵味方を見分ける必要が生じた。
初めに現れたのは、兜の鉢や鎧の肩先に着ける印である。これは何も布にかぎらない。梅の小枝や笹の葉なども用いられた。合印というより、戦士の精神的結合(一揆)を示すアクセサリーのようなモノだった。

識別アイテムは敵にバレない工夫もなされた

次に流し旗のミニチュアである竹ひごに吊した小さな布地が一般化する。
この小さな旗は、敵に旗を複製されるのを防ぐため、合戦の直前に合言葉とともに配布された。

小旗を腰に差す【腰差】が登場

そして室町時代に入ると、戦は激化し、小さな袖印程度では識別も困難な状況が生まれてくる。
そこで小旗の竿を腰帯の後ろへ斜めに差す、腰差(こしざし)が登場した。
敵味方の識別は、これによって格段に向上した。が、帯差しでは抜け落ち易く、腕の動きも制限される。

背旗(旗差物)〜背中に大きな旗を差す

この腰差の発展型として、我々が時代劇でよく見る背旗(旗差物:はたさしもの)が出現する。 しかし、この背旗は鎧の押付(背板)に固定部品が無ければ装着できず、頑丈な二枚胴の鎧が普及して、ようやく行き渡るようになった。
指揮官にとって、拡大な戦場に投入された足軽の動きを把握するには、そうした背差物が必需品となり、差物を持たぬ者を「ずっぽう(裸武者)」と軽蔑する風潮さえ生まれたのである。

弓足軽と槍足軽

武具の発達とともに足軽・雑兵たちは戦い方も道具の扱い方も専門職化していった。

弓足軽〜上空から敵を射抜く

鎌倉期以降、集団戦が普通となり、弓の性能も向上

鎌倉時代以後、山岳地帯に籠る悪党の討伐や、平地での集団戦が普通となり、従来武士がお家芸としてきた騎馬の接近弓術が廃れ始めた。同時に弓の性能も急速に向上する。

打ち弓〜堅木と竹を張り合わせた合成弓

この頃、堅木と竹を張り合わせた打ち弓という合成弓が一般化した。これは膠(にべ:魚の浮き袋から取った粘着剤)やニカワ等の接着法が進歩したためという。

征矢〜よく知られた放物線状に飛ぶ弓矢

強力な弓は遠射がきく。雑な武装しかしていない雑兵たちにこれを与えて、遠矢の散布による敵陣の制圧が各地で始まった。
放物線状に落下してくる大量の征矢(そや)が敵の動きを止め、この間に騎馬兵や打物の兵が動く。
南北朝争乱の緒戦、播磨の赤松則村はこの兵種別協同戦闘で名のりむらよしだをあげ、南朝の新田義貞は、越前藤島の深田で、そうした弓兵の集団に追い詰められ、討ち死にしたという。

室町〜戦国と弓術は急速に発展した

室町・戦国と時代が下るにつれ、こうした雑兵・弓足軽の用兵術も進化していった。

『雑兵物語』〜弓の心得

足軽の心得を記した絵詞『雑兵物語』(江戸時代の17世紀半ばに成立)には、「弓の勝負が始まる前に腰のに入った矢は射らぬようにせよ。(中略)かならず定められた矢頃(射程距離)より遠くを射るな。敵前ではいつも射っている距離より倍ほども近く見えるので、その心積もりで射よ」とある。

弓矢は鉄砲の弱点をカバーする為に使われ続けた

また鉄砲足軽と協同で戦う時は、「二挺の鉄砲放ちの間に一人入り、弾填めの間に矢を放て。弓をひく間もなく手元近くまで正面の敵が迫ったら列の左右に別れて射よ。騎上の敵はまず馬を射よ。ともかく矢は大切に射ることだ」とある。
このことから、弓兵は鉄砲登場以後も、ある程度の地位を保ったことが分かる。

弓矢は弧を描いて上空から敵を射抜くことができた

それは弓が鉄砲の装填時間を補い、射撃音も低く、火矢や遮蔽物に籠った敵を上空から制圧する、近代の迫撃砲兵に似た役割を果たせたからではないか、と思われる。

槍足軽〜5mもの長い槍を使い戦う

槍は「鎗」「鍵」「矢利」と書いた

槍足軽であるが「槍」は、「鎗」「鍵」、あるいは「矢利」と書いた。

2.5mほどの長さの槍術の基本

初め戦場に槍が出た頃、武士は心得として、「槍は身体ごと突きかかって行くものではない。左手の握りを前にして常に動かさず、右手を押し引きして柄だけ繰り出すように扱え」と教育されていた。
このように、長い柄を生かして間合いをとり、迅速に敵の身体へ穂先を刺していくのが「槍術」の基本だった。これは「武門」の槍の操作法である。
しかし、足軽の集団戦法が始まると、これが一変した。

5m以上もの長さの槍が登場

それまで平均2.5mほどの長さであった平槍は、3.5m以上の「持槍(もちやり)」、5m以上の「長柄(ながえ)」に変化する。
こうした長尺の槍柄は複合材の採用で可能となった。樫などの堅い単材で作られていた持ち柄は、木の芯を中央に入れ周囲を竹の割り木で包み、外側を麻で巻き漆で堅めたものに変わっていく。 これなら接ぎ目も見えず、いくらでも先端を伸ばしていくことが可能であった。
結果、持ち運びなどを考慮して5mほどの長さを上限としたものが定着した。

槍衾〜隙間を作らぬ槍による密集陣

また「(叩く時は)敵の差物を叩き落とすように打つのが良い」という。さらには隙間を作らぬよう隣の持ち手と穂先を交差、密集陣にする「槍衾(やりぶすま)」も考案された。前列が下段、二列目は中段、後列の者が上段に槍を構えて粛々と進んで来る槍衾の前には、騎兵も突入を諦めざるを得なかった。

敵味方ともに長柄足軽に

こうして強力な長柄足軽は戦場の華となり、やがて敵も長柄足軽の密集隊形で対抗するようになっていくのである。

鉄砲足軽〜戦国時代後期の主役

鉄砲が大量に投入され始めると射撃専門の鉄砲足軽が登場した。 以下に簡単に鉄砲の操作手順(行程)をまとめる。

  1. 銃尾を地に着け、銃口を上に向ける
  2. 発射薬を銃口から適量注ぎ込む
  3. 弾丸を挿入する
  4. カルカ(挿入用の棒)で、銃身奥まで突く
  5. 火蓋を開き、火皿に口薬(点火薬)を盛りつける
  6. 口薬がこぼれぬよう火蓋を閉じ、はみ出た薬を口で吹き払う
  7. 火縄を挟みに挟む
  8. 火蓋を切り(開き)火皿を露出させる
  9. 狙いを定め引金をひく。火縄が火皿の口薬に落ちて点火。銃身内の発射薬に引火し発射

以上が鉄砲発射の行程である。 しかし、これだけの行程を、素人が敵前で冷静に行えるかというともちろん難しい。

足軽の「楯」のいろんな使い方

楯も時代にあわせて変化した

初期は草・皮の盾、木製楯が江戸期まで使われる

楯は移動可能な防御兵器として、古くは弥生時代ごろから戦いに用いられてきた。
初期には藤や蔓草を編んで作った草楯や獣皮を縫い重ねた革楯が用いられていたが、古代末期から中世初めにかけて木の板を接合した平楯が一般化すると、日本の風土に適応したのか以後さして進化することもなく、江戸末期まで同型の木製楯が使用された。

鉄砲の登場で裏に鉄板を追加し強化した

防御兵器である楯にも、状況に応じて大小いくつかのタイプが存在している。
合戦の心得を記した『軍侍用集』差楯の項には、「(古く)その長さは大方五尺八寸(約1m75p)だったが、近年は軽くするため五尺四寸(約1m63p)に作る。横幅は一尺七、八寸(約51〜54p)の板を横に二枚並べ、裏から棧(横木)で接合する。古式の楯は、棧に3カ所・5カ所、多くて7カ所釘を打ったが、当節は丈夫に作る必要上、さらに多くの釘を打つ。楯の厚さは通常八分(約2.4p)。ただし近年は鉄砲に対処するために矢向(正面)に薄い鉄板を打ち、固定する。釘の裏は返さない」と書かれている。

正確な寸法で製作された【木板】

戦場での陣地構築に木板としてそのまま楯を流用

これだけ細かく寸法を定めているのは、戦場で陣地を構築する際、足場や土塁の土留めにそうした楯が簡単に流用できるからだった。
戦国期の大名たちは兵糧・竹束・縄などの軍事物資の他にも、厳格に寸法を定めた楯類の供出を、領内の農民たちに課していた。

楯(厚さが均一の木板)は作るのが大変だった

安土桃山時代に入るまで、日本では現在のような平鉋(ひらがんな:材木の表面を削って加工する工具)は普及していない。
板の表面を平らにするには槍鉋で細かく削っていくため、その製作も簡単ではなかった。
天正2年(1574)、武州・鉢形城の北条氏邦は、配下の地侍・山口雅楽助に、縦56p、横45p、厚さ1.5pの手楯(小型の楯)1枚を軍役として求めた。が、山口家では期日までに揃えることが出来ず、鉢形城からは何度も催促がきている。

大楯〜固定用の大型の盾

城塞や船舶で使用、壇ノ浦の戦いで活躍

移動可能な楯の他にも、数人がかりで運搬する大楯が存在した。
これは主に建物(城塞)や船舶の側面に常備し、半ば固定使用された。
移動を考えていないため厚みがあり、長さも六尺(約180p)以上が普通で、裏を補強する棧の数も多い。
源平の壇之浦合戦や瀬戸内海の水軍戦闘には3枚張り4枚張りといったサイズの大楯も用いられていた。

大楯のマニュアル本『築城記』窪田三郎兵衛

そうした大楯を、野戦築城に用いるためのマニュアル本も存在している。
越前朝倉家の弓術家・窪田三郎兵衛の『築城記』(国立国会図書館蔵)には「土塁上に構える柵の柱は高さ六尺(約180p)を基本とし、木の根元は三尺(約90p)埋め込んで倒れぬようにすること。柱と柱の間隔は一間幅に五本(約50p間隔)とする。横に渡す木は四条、結び目は外側に男結びする。しかし、この柵に大楯を張りつけて板塀とする場合は横木の結び目を内側に作る」とある。

大楯を守るため更に堀や逆茂木を並べた

内側に結び目を持ってくるのは、横木が突き出して楯がぐらつくのを防ぐためだ。
そして、こうした楯を引きそうとする敵兵に備えて、塀の外側には堀や逆茂木を並べておく。

名将・楠木正成に学んだ足軽たち

また楯をただ柵にもたせかけるだけではなく、楯の端を隣の楯に重ねる「めどり羽」、楯の裏に掛け金をつけて連結させ、引き剥させない方法もあった。
後者を考案したのは南北朝時代の名将・楠木正成であったという。戦国時代の足軽たちも先時代の名将たちに学んで戦っていたのである。


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