赤坂城は楠木氏の本拠地であり、何度も合戦が起きた攻防の地である。
第一回目が後醍醐天皇の挙兵に楠木正成が呼応した1331(元徳三年)10月の合戦。
第二回目は六波羅探題・赤橋守時が紀伊国御家人・湯浅氏に預けた赤坂城を正成が取り戻した1332年(正慶元年)11月の合戦。
第三回目が六波羅探題の命令を受けた宇都宮高綱(改名して公綱)が赤坂城を攻めた1334年(正慶二年)正月の合戦。
第四回目が鎌倉から進発した上洛軍が正成を追討すべく赤坂城・千早城を攻めた1334年(正慶二年)2月の合戦である。
1331(元徳三年)10月15日、正成の籠もる赤坂城を攻める鎌倉幕府の追討使が宇治(京都府宇治市)を発った。
後醍醐天皇から光厳天皇(北朝初代)への譲位は10月6日に行われたので、正成の軍勢は反乱軍だとみられた。
宇治から向かう主力の軍勢を率いるのは大仏高直、八幡から向かう金沢貞冬、山崎から天王寺を通って向かうのが北条時見(江間時見)、服部氏など正成に味方しそうな勢力を封じるために伊賀国に向かう足利高氏(後に改名して尊氏)の四軍である。
六波羅探題から後醍醐天皇挙兵の報を伝えられた鎌倉幕府は、承久の乱を先例に上洛軍を派遣した。
これは、兵力の過剰投入であった。
正成は『太平記』が平城と表現する下赤坂城に籠もった。
後醍醐天皇の挙兵が急だったので兵糧米の運び込みが間に合わず、長期の籠城は無理と判断している。
下赤坂城に最初に到着した幕府軍は、北条時見の軍勢であった。
空堀も掘らず、塀一重の急ごしらえの城であったと『太平記』は書いている。
楠木正成が築城した下赤坂城の縄張り図
後醍醐天皇の笠置山挙兵に呼応した正成はこの地で兵を挙げた。遺構はほとんど残っていないが、現在の千早赤阪村役場裏手付近が本丸であったと考えられる。(国立国会図書館所蔵)
時見の先発隊は甘く見て力攻めしたが、城内には弓の達者200人を揃えて待ち構え、さらに弟の楠木正氏(正季)と和田正遠に300の軍勢を預け潜ませると正面から攻める幕府軍が射すくめられているところを脇から襲って退けた。
千早川沿いにある平場奥の斜面を削って平らにした所に構えた館が原型と思われるので、攻める方も数百騎守る方も数百騎という規模の小さな小競り合いが最初の衝突である。
時見は、万の軍勢を預けられても、展開する余地のない狭い谷あいで軍勢が渋滞し、大軍の利を活かせない合戦となった。
地形を活かした正成の勝利である。
敵に熱湯を浴びせる楠木軍
石垣の上に築かれた多聞塀の上から柄杓を伸ばして攻め寄せる幕府軍に熱湯を浴びせる楠木軍。
弓矢を使わず敵の戦力を削ぐためには、敵に熱湯を浴びせることは効果的であろう。
この逸話は『太平記』によるが、事実かは確証がない。
その後、幕府軍の後続部隊が到着して攻城戦に移る。
正成の巧みな防御に幕府軍は攻めあぐねて合戦は膠着した。
幕府軍が兵糧攻めに切りかえると、正成は続々と到着する幕府軍が重囲の陣形を取る前に城外に脱出した。
前衛が小競り合いを数回行っただけで、正成は幕府軍本隊が到着するまえに下赤坂城を放棄して退却する結果になった。
六波羅探題からの知らせを受け、花園天皇は10月21日に楠木氏追討が終わったと判断している。
先発隊の到着から落城まで4、5日である。
1332年(正慶元年)6月に紀伊国から、後醍醐天皇方の反攻が始まった。
護良親王が紀伊国で再起の兵を挙げると、11月には正成は湯浅氏を攻めて赤坂城を奪還した。
正成はその後も勢力を拡大し、天王寺以南を楠木氏の勢力圏としている。
正成は騎馬武者の活躍する平野には進出をせず、騎馬の活用できない起伏のある地形なら自軍が有利に戦えると考えていた。
また、天王寺は、正成の本拠地から京都へと向かう拠点でもあり、兵力で勝る幕府軍と戦うには上町台地における重要な軍事拠点であるこの地をおさえる必要があった。
六波羅探題は検断奉行人に軍勢を預けて追討しようとしたが勝てないので、1334年(正慶二年)正月22日に宇都宮高綱に赤坂城を攻めることを命じた。
このとき、高綱は在京する郎党しか率いておらず小勢であった。
しかし、宇都宮氏は下野国の中部から北部を勢力圏とし山岳戦や鉱山衆を率いた戦いができるため、赤坂城内に突入したが、十数名の郎党が捕らえられてしまい退却した。
正成は名将として語られるが、この後も好敵手として立ちはだかるのが、この高綱であった。
なお、上赤坂城の戦いと千早城の戦いは連戦であったというより、並行して幕府側から攻撃が行われていた。
正成側は赤坂と千早で幕府軍の兵力を分散させることに成功していた。
また、幕府側は上赤坂城の用水設備を破壊したから勝利した、というのも『太平記』にはそう書かれているが、それ以外の史料による裏付けは取れていない。