ヴェルサイユ体制が残した禍根

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ヴェルサイユ体制が残した禍根

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制が確立した。
しかし、植民地の独立要求などは、列強・宗主国らによって無視されてしまう。
また、ドイツに対して課せられた過酷な戦後賠償は、ドイツ国民に対する大きな負担を強いる事になる。
戦後の国際体制は、こうした多くの禍根を残しており、後の第二次世界大戦の勃発へ繋がっていく。

敗戦国に対し、一方的なヴェルサイユ体制

ウィルソンによる「14カ条の平和原則」

第一次世界大戦後の混乱を収拾するため、1919年1月からは連合国によるパリ講和会議が開かれた。
アメリカのウィルソン大統領は、秘密外交の廃止や軍事縮小、民族自決、国際連盟の設立などを唱えた「14カ条の平和原則」を講和の基礎にしようと企図していた。
しかし、ドイツへの報復を主張するイギリス・フランスに阻まれ、国際連盟の設立以外は殆ど実現されなかった。

ヴェルサイユ体制の確立

1919年6月に成立したヴェルサイユ条約では、ドイツは全植民地を失った他、軍備の制限や1320億金マルクという巨額の賠償金を課せられている。
ドイツはこの厳しい条件を強いられた事により、後に恨みを残す事となった。
また、ドイツ以外の同盟国も、それぞれ個別に連合国と講和条約を結び、ヴェルサイユ体制と呼ばれる戦後国際体制が確立した。

連合国により戦後処理

植民地の独立要求は無視される

パリ講和会議には、自分たちの民族自決の要求が実現する事を期待して、植民地の住民たちも注視していた。
しかし、列強は植民地の独立要求を無視する。
ドイツの旧植民地やオスマン帝国の領土などは、国際連盟の委任統治として、戦勝国の間で分配された。

各地で起こる独立運動

独立要求を無視された植民地では、朝鮮半島での三・一運動や、中国での五・四運動、エジプトで起きたワフド党による反英運動や、インドのガンディーによる非暴力抵抗運動など、各地で民族主義運動が起こった。

東欧国家の誕生

結局、民族自決の原則が適用されたのは、ドイツ、オーストリア、帝政ロシアの崩壊により誕生したポーランド、チェコスロバキア、バルト三国、ユーゴスラビアなどの東欧諸国に限られた。

長く続く東欧国家の民族問題

だが、もともと民族分布が複雑だった東欧地域において、民族自決を貫いた国民国家の形成は困難を極めた。
新しく誕生したこれらの国々も国内に少数民族を抱えており、戦後以降も紛争が繰り返される事になる。
>> ユーゴスラビア内戦

ドイツへの戦後賠償がもたらしたもの

ヴェルサイユ条約で過酷な賠償金を課せられたドイツは、経済破綻と天文学的なインフレに見舞われてしまう。
国民の間にヴェルサイユ体制への不満と連合国への恨みの感情が高まっていた。
アドルフ・ヒトラー率いるナチスは、ヴェルサイユ体制打破を掲げて国民の不満に直接訴えかけ、急速に勢力を拡大させていった。
ナチスが選挙のスローガンに掲げていた「全ての労働者に職とパンを」の言葉に、当時のドイツ国民の困窮した生活が現れている。


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