セオドア・ルーズベルト

セオドア・ルーズベルト

知日派で“棍棒外交”の大統領

公式文書に大統領官邸を「ホワイトハウス」と記した

マッキンリー大統領が暗殺されたことで、史上最年少の4歳10カ月でアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt:アメリカ26代大統領1901〜1909年)。
彼は、初めて公式文書に大統領官邸を「ホワイトハウス」と記した人物であり、柔道の茶帯を取得した初のアメリカ人でもあった。
セオドア・ルーズベルトについて簡単にまとめる。

アメリカ人初のノーベル平和賞

そして、もう一つの“アメリカ人初”が、ノーベル平和賞を受賞したことだ。
しかし、その事績を総合的に判断すると、およそルーズベルトに「平和」の2文字は似つかわしくない。(ノーベル平和賞が如何に政治的パフォーマンスにすぎないかを立証した人物ともいえる)

  • 反トラスト法を利用して独占資本を規制した
  • 労働者を保護し「革新主義」とよばれる社会改革を牽引
  • 「棍棒外交」でカリブ海地域に勢力拡大、帝国主義政策を推進
  • 日露戦争でのポーツマス条約締結に尽力

自ら戦うファイタータイプの大統領

ハーバード大卒、海軍次官に

ニューヨークの名家に生まれた彼は、ハーバード大学卒業後、ニューヨーク州議会議員として政治家のキャリアをスタートさせ、1897年には海軍次官となる。

米西戦争で義勇軍を率いる

ところが、翌1898年に米西戦争が勃発すると同職を辞し、「荒馬騎兵隊」なる義勇軍を率いてキューバに乗り込み、スペイン軍を撃破している。

第一次世界大戦でも義勇兵を募っていた

いかにも血の気の多そうな逸話だが、彼は最晩年の1917年にも、アメリカの第一次世界大戦参戦を受けて義勇兵を募ろうとしており、根っからの好戦家だったことがわかる。

「国際社会の警察」を名乗る

南北アメリカ諸国に対して軍事圧力

大統領在任中の外交姿勢も、西アフリカの格言である「穏やかに話し、棍棒をもってさえいれば遠くまで行ける」をモットーとしていた。
1903年には、パナマ運河の建設権を手に入れるべく、コロンビア国内のパナマ独立派を煽ったうえで海兵隊を投入。
また、「国際警察権の行使」なる名目を掲げてベネズエラやドミニカ、キューバなどに武力干渉しているのだ。

日露戦争を調停、しかし対日脅威論に傾く

アメリカの事情で日露戦争を調停

ノーベル賞の受賞理由となった日露戦争の調停も、息子に「日本は極東でわれわれのゲームをやってくれている」と書き送っていることからもわかるとおり、日本に対露防波堤の役割を期待した外交上の打算にすぎない。

知日派で親日家ではあった

ただし、ルーズベルトが“知日派≠ナあったのは確かだ。
大統領在任中の1904年からは日本人柔道家の山下義韶に柔道を学んでいた。
日本海海戦で日本が勝利した際は、ハーヴァード大学で同級生だった金子堅太郎に「バンザイ」と書いた手紙を送っている。

太平洋で日本が脅威となる未来を予想した

ところが、その裏でにわかに「太平洋を日本に支配されてしまうのではないか」という危機感を膨らませた彼は、一転して対日脅威論に取かれ、1907年にはアメリカ大西洋艦隊の世界周航を行うなどの示威行為で、日本を牽制している。
実際、彼が抱いた危機感は見事に的中しており、この数十年後、日本は太平洋の権益をめぐりアメリカと戦争する事になる。(太平洋戦争)

ルーズベルトと関わりあった日本人

交渉相手、小村寿太郎(1855〜1911年)
日本の外交官・外務大臣。日露戦争のポーツマス講和会議では、日本側全権としてロシア全権ウィッテと対決した。会議を斡旋したセオドア=ルーズベルトは、伝記作家宛ての書簡のなかで「彼らは常に真実を語った」などと、小村をはじめとする日本側代表団に好感をもったことを記していた。
同級生、金子堅太郎(1853〜1942年)
ハーヴァード大学でルーズベルトと同級生だった日本の政治家。日露戦争が勃発すると、伊藤博文からの要請を受けて渡米し、ルーズベルトに接触。アメリカの対日世論が有利になるよう尽力した。

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