皇統の確立

継体天皇の系統・皇統の確立

皇室の世襲、天皇の皇統が固まるまで、紆余曲折の歴史があった。
6世紀初頭、新たな継体天皇の系統が始まり皇統が確立すると、新政権の有力豪族間の対立が激化した時代が訪れる。
最終的に勝利者となった蘇我氏全盛の時代が始まる。

武烈天皇の死後、後継者問題が発生

武烈天皇に子がなかった為、天皇の死後、ただちに後継者問題が持ち上がった。
有力者の大伴金村大連らが最初に目を付けたのは、丹波国にいた仲哀天皇の地を引く倭彦王(やまとひこのおおきみ)だった。
だが、迎え入れる為に兵士を派遣すると、倭彦王は山中へ逃げ、行方不明となった。

即位候補 男大迹王(継体天皇)

次に金村が候補としたのが、越前国坂井の三国にいた応神天皇の血筋の後の継体である男大迹王(おおどのおおきみ)だった。
物部麁鹿火大連や許勢男人大臣の同意を取り付け迎えに行くと、男大迹王は堂々たる天子の風格で彼らを迎えた。
ただ、王は慎重だった。
王と旧知の河内馬飼首荒籠が仲立ち、ようやく重い腰を上げさせる事に成功した。

自分に自信がなかった継体

そのまま、河内国交野郡の樟葉宮(くすはのみや)へ移動したが、男大迹王は「自分は天子としての資質がなく、力不足である」と即位を断った。
繰り返しの要請のたびに王は固辞するが、最終的には受け入れ、樟葉宮で即位した。
継体元年(507年)の事だった。

継体天皇即位の話は創作?

この即位のエピソードは、継体天皇が自らを正当化する為に造りあげた「物語」であるとの見方が強い。
越前・近江に地盤を持つ豪族が、ヤマト政権の混乱を利用して権力を奪取し、皇位を継承したのではないかとの説が有力だ。
その理由は、継体天皇は応神天皇の孫を称しているが、『日本書紀』『古事記』には父親の名(彦主人王)が記されているだけで、系図すらないのだ。
『釈日本紀(鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書)』の「上官記」に“応神天皇→若野毛二俣王→太郎子→乎非王→汗斯王(彦主人王)→乎富等大公王(継体天皇)”と家系が記されているが、この系図が事実であったとしても、応神天皇と継体天皇の関係は、非常に遠い関係である。
この即位が異例中の異例であった事が分かる。

即位から遷都まで20年も掛かった

また、即位してから大和へ入るまでに長い歳月が必要であった事も重要だ。
継体天皇は、即位後、河内、山城の筒木、弟国を転々とし、継体天皇20年(526年)になってようやく大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に都を定めた。
これは、畿内・大和の勢力を打倒するのに時間が掛かったとみられている。

継体王朝が始まる

こうして神功皇后・応神天皇によって始められた王朝が終了し、新たに継体王朝が始まった。

百済(朝鮮)との関係を重視した継体

大和に入った継体天皇は、臣下の序列や職位をそのまま受け継ぎ、大伴金村を大連、許勢男人を大臣、物部麁鹿火を大連とし、諸臣も従来の職位に据え置いた。
外交面では朝鮮半島諸国、特に百済との良好な関係の維持に努めた。
百済が倭国の直轄地である任那の上夛利(おこしたり)・下夛利(あろしたり)・裟陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県の割譲を願い出たときには、あっさりと了承している。

継体天皇の晩年に磐井の乱が勃発

波乱に満ちた継体天皇の晩年には、九州の有力豪族、筑紫君磐井がヤマト政権に反旗を翻した。
磐井は筑紫を中心に肥前・肥後・豊前・豊後を勢力下に置き、高麗や新羅、百済、任那の朝貢船を誘導し、ヤマトへの貢物を奪った。
継体天皇21年(527年)、天皇は磐井征伐を決意、物部麁鹿火を将軍とする征討軍を九州に送り込んだ。
麁鹿火は筑紫の三井郡で磐井軍と激突した。
接戦を繰り広げた後、磐井を斬り、反乱を鎮圧した。
磐井の子・葛子(くずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ:朝廷の直轄地)を献上する事で、死罪を免れた。

継体天皇の死亡時期は諸説あり

天皇は継体天皇25年(531年)に崩御したが、『書紀』では28年(534年)死亡説をあげている。
25年説は百済の史書『百済本記』の「日本の天皇、皇子、皇子が共に亡くなった」との一節に従ったもの。
一族が一挙に亡くなった事から、戦争や感染症の流行などが原因とみられている。

継体天皇の崩御後

仏教公伝

継体天皇の崩御後、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇と継体の子が相次いで即位した。
6世紀は百済を通して儒教や医術、易学、暦など中国南朝の新しい文化が流入している。
欽明天皇の代には百済の聖名王から釈迦仏の金銅像と経典が贈られ、初めて仏教が伝えられた。
これを仏教公伝という。

友好国の百済が朝鮮で孤立

ただ、朝鮮半島では高句麗、新羅の勢力が伸張し、百済や加羅(伽耶、任那)諸国に対する圧迫が強くなった。
ヤマト政権の影響力が低下し、欽明天皇24年(563年)には、とうとう直轄地である任那を失った。

氏姓制度の確立

内政面ではヤマト政権の屋台骨と言える「氏姓制度」が確立した。
豪族や有力者達は血縁などを基に氏という組織に再編成され、氏上(うじのかみ)が氏集団全体を支配、氏単位で様々な職務が割り振られた。
葛城(かつらぎ)や平群(へぐり)、蘇我(そが)などの古くからの有力豪族には「臣」、大伴や物部、中臣、膳(かしわで)など職務を氏にした有力豪族には「連(むらじ)」の姓(かばね)が与えられた。
そのうち政治の中枢を担う者は、大臣・大連に任命された。

ヤマト政権の支配体制が確立

中小豪族は「伴造(とものみやつこ)」や「伴(とも)」に組み入れられ、さらにその下に実務を担当する「部民(べのたみ)」が置かれた。
また、地方豪族は行政権を持つ「国造(くにのみやつこ)」「県主(あがたぬし)」「稲置(いなぎ)」などに配された。
こうして、中小豪族や地方豪族も、大王を頂点とするヤマト政権の支配体制に組み込まれた。
しかし、地方の有力豪族は完全に服属したとはいえず、独自の動きをする事もあった。

物部氏・蘇我氏の対立

ヤマト政権下の勢力図が変化

6世紀前半には大伴金村大連、物部麁鹿火大連を擁する大伴氏、物部氏が権勢を誇ったが、百済への4県割譲の件で金村が失脚すると、相対的に大伴氏の力が低下した。

蘇我氏の台頭

代わって2人の娘を欽明天皇の妃とした蘇我氏が台頭、外戚としての地位を確立する。
蘇我氏は早くから飛鳥に拠点を置き、漢氏(あやし)など大陸からやって来た渡来人を活用した。
商業を振興し、屯倉を次々に設置するなど、ヤマト政権の経済的な基盤を整えた。
大臣蘇我稲目、その子・馬子らは、実質的に政権をリードするようになった。

仏教を巡る対立

仏教が伝来すると、その受け入れを巡って、崇仏派の蘇我氏と非仏派の物部氏の抗争が激化した。
裁判や軍事に力を持つ物部氏は、疫病の流行や飢饉などは「外国の神を拝むせいだ」と主張し、蘇我氏に対する敵を隠さなかった。
>> 崇仏論争

物部氏の滅亡

両派の対立は、用明天皇の崩御を切っ掛けとした皇位継承問題で頂点に達し、遂に武力衝突に発展した。
蘇我馬子は厩戸皇子らの王族の協力を取り付け、物部守屋軍を打倒し、物部氏を滅ぼした。

蘇我氏全盛の時代へ

馬子は敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代の天皇に仕え、大臣として政治手腕を発揮。
蘇我氏の全盛時代を築き上げた。


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