神道

神道の歴史

古代から連綿と続く自然信仰と思われがちな「神道」だが、その宗教としての成立ちには、長く複雑な歴史があった。
後に「神道」と呼ばれる宗教の基盤は、古来のアニミズム(自然界のモノに固有の霊が宿るという信仰)だけでなく、律令や仏教の強い影響の中で形作られていく。
その後、中世に「神」の理論化が進み、近世に国学が台頭する。
近代に入ると国家神道が成立したが、敗戦により今日の姿となる。

「神」信仰と神社(古墳時代)

後に「神道」と呼ばれるようになる宗教の基盤は、生物・非生物を問わず霊魂を持っていると考えるアニミズムの信仰である。
霊魂のうち強力なモノが「神」と呼ばれ、それらが宿ると考えられた巨岩や巨木などが神を祀る場となり、ここから「神社」が生まれた。

神話の中の神々

日本最古の歴史書『古事記(712年)』や『日本書紀(720年)』には、神話の神々が多数登場する。
これらを「記紀」と呼ぶが、記紀は日本古来の神々の国造りと天皇家の歴史を結びつける事で、天皇家支配の正統性を示す事が目的だった。
記紀には、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、クシナダなどの神が登場する。

祭祀儀礼の整備(飛鳥時代)

ヤマト王権が確立していく中で、徐々に祭祀儀礼が整備されていった。
天武天皇の時代には神官(神祇官の前身)が置かれ、祈年祭では有力神社への幣帛の頒布も始まった。
また、現在も続く大嘗祭や式年遷宮も、この時代に始められた。
大宝律令や養老律令にある神祇令には、10の四時祭と二つの臨時祭、大祓が規定され、律令祭祀の体制が整った。

仏教崇拝を巡る争い

仏教伝来時には、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が対立した。
欽明天皇が蘇我氏に仏像を授けたところ疫病が流行り、逆に物部氏が寺を破壊し仏像を捨てると宮殿で火が出たといわれている。

伊勢神宮と式年遷宮

伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」。内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)を中心に、両宮に付属する別宮、摂社、末社、所管社を含めた、合計125の施設からなる。
皇租人・天照大御神を祭神として祀り、20年に一度、正殿をはじめ各施設を建て替え、装束や神宝も新しくする式年遷宮を行う。

仏教伝来と神仏習合(奈良時代)

仏教は6世紀前半に伝来して以降、有力氏族や渡来人などを中心に広まり、朝廷内でも仏教儀礼が営まれるようになった。
奈良時代に入ると、自らの救済に苦悩する神を仏法によって救う為として、各地の神社に神宮寺が建立された。
さらに、僧侶による神前読経や、神に「八幡大菩薩」といった菩薩号を付けるなど、仏教優位のもとに神仏の習合が進んでいった。
奈良時代には神道でも仏像に倣って神々の像を作るようになり、八幡新像などがその代表的なものだ。

本地垂迹説

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、「神とは、仏・菩薩が日本の衆生を救う為に、姿を変えてこの世に現れたもの」とする説である。
日本古来の神道と仏教の信仰を調和させようとした神仏習合思想に端を発する。
平安時代後期から鎌倉時代には、垂迹である神に対して、本地の仏・菩薩を対応させた曼荼羅などが作られた。

二十二社

平安中期以降、朝廷から特に大切に扱われ、祈年祭などでは朝廷から奉幣も受けた。
伊勢神宮はじめ、石清水八幡宮、賀茂神社、稲荷神社、春日大社、日吉神社、広田神社などだ。

神になった人

各地の神社の祭神には、歴史上の人物も多い。
なかでも、奈良末期から平安時代には、不慮の死を飛べた者の祟りを恐れて、神として祀る事でその霊を慰めた例が多い。
早良親王や伊予親王、菅原道真、崇徳天皇、後鳥羽天皇などが人から神となり、各地の神社・神宮で祀られている。

御霊信仰の広がり(平安時代)

平安時代の「神」信仰の特徴の一つに、御霊信仰が挙げられる。
疫病など世の中に害をもたらす厄災を、この世で不慮の死を遂げた者による祟りとみなし、これを鎮める為に神として祀り、鎮魂儀礼である御霊会をたびたび開いた。
御霊会が文献に登場するのは863年で、970年には祇園御霊会も始まった。

陰陽道、修験道と神道

陰陽道は、中国の「陰陽五行説」を起源とし、日本で独自に発展した自然科学と呪術の体系で、平安時代に特に盛んとなった。
両部神道や吉田神道では、一部に陰陽五行説や陰陽道の考えを用いた。
修験道は、日本古来の山岳信仰に、密教や道鏡、陰陽道などが影響を及ぼして成立した民俗宗教の一つ。
神道と思想的に重なる部分もあり、明治の修験道廃止令で修験道が廃止された際には、一部が神道に転じた。

「神」の理論化(鎌倉・室町・戦国時代)

平安後期から鎌倉時代に掛けては、神仏習合の一方で仏教や中国思想の用語を借りた「神」の理論化も行われた。
「神道」という言葉が、「神の道(神の教え)」の意味を持つようになったのはこの頃からだと考えられている。
鎌倉時代初期には、真言密教の影響を受けた両部神道が成立する。
また、鎌倉後期までに「神主仏従」を唱える伊勢神道が渡会氏により形成された。
応仁の乱以降には、京都の吉田神社の人官・吉田兼倶が、それまでと全く異なる独自の神道説、吉田神道を提唱した。

反本地垂迹説

神こそが本地で仏を垂迹とする「反本地垂迹説」は、室町時代に慈遍や吉田兼倶が主張した。
慈遍の『旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)』では、日本を種子、中国を枝葉、インドを花実になぞらえて、花は落ちて根に還る事から、その本質は日本にあると記されている。

神になった人

戦国時代江戸時代には、豊臣秀吉徳川家康、二人の天下人が死後に「神」として祀られている。
また、他にも多くの戦国武将が各地の神社で現在、祭神として祀られている。

需家神道の発展(江戸時代)

江戸時代に入ると、幕府は応仁の乱以降に途絶えていた大嘗祭などの神祇祭祀を復興する。
1665年には「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)」を発布し、神社や社家に対する幕府の基本方針を示した。
江戸時代の神道は、民衆レベルでは神仏習合が続いていたが、学者間では神道と儒学の結びつきが強調された。
その代表格が、神仏習合を否定した林羅山ら朱子学者が提唱した儒家神道で、神道と儒教との一致を説いた。

伊勢神宮参詣

江戸時代には、庶民の伊勢神宮への参詣が流行する。
なかでも数度にわたって行われた大量参詣は「御蔭参り(おかげまいり)」と呼ばれ、特に大規模だった1830年には約500万人が参詣した。

日光東照宮

日光東照宮は徳川家康を祀る神社。
当初、家康は神式で久能山に葬られ、翌年になって遺言に基づき日光に改葬された。
1645年に官号の宣旨が下った事から、以降東照宮と呼ばれている。

七福神

七福神は降伏をもたらすとされる七柱の神である。
七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁才天を指す。
様々な由来と持つ神を一つにまとめた所に特徴があり、室町時代に発生した福神信仰から広まった。

庶民信仰(民間信仰)

各地には、地域共同体の間で伝承されてきた庶民信仰が数多く存在する。
明確な教理や教義を持たず、神道や仏教、先祖祭祀などが習合されている事が多い。
商売繁盛や学業上達、子宝祈願といった現生利益も特徴の一つだ。

「国学」の台頭(江戸中期〜幕末)

江戸時代の神道思想の中核は、山崎闇斎の垂加神道に代表される儒家神道だが、江戸中期〜後期になると日本古典研究が思想的性格を帯びるようになった。
それが「国学」である。
その先駆けは賀茂真淵で、門人の本居宣長は従来の需仏による神道思想を否定、国学としての神道研究を推し進めた。
幕末期には、平田篤胤が本居宣長の思想に死後の世界などの宗教性を付与。
篤胤の弟子らによる復古神道の思想は、幕末の尊王攘夷運動にも影響を及ぼした。

国家神道の形成(明治・大正)

明治時代になると、明治政府は神仏分離令を布告。
神社に関係する僧侶の還俗を命じ、神社内の堂舎や仏像を移転・破却した。
これにより、政府は神道を純化し国教化を目指したものの、仏教界の抵抗もあって結局は挫折した(廃仏毀釈)。
明治30年代には、神社を「国家の宗祀」として非宗教的なものと規定、国家による神社管理体制を敷いた。
ここに、厳密な意味での国家神道が成立した。

廃仏毀釈とは

明治維新後と神仏分離令を契機に、寺院や仏像を破壊したり、僧侶を排斥したりという廃仏毀釈の動きが全国的に広まった。

この時代に建立された神宮・神社

明治神宮
明治天皇と昭憲皇太后を祭神に迎え、大正時代に創建された。
第二次世界大戦の空襲で本殿などが焼失したが、戦後に再建された。
靖国神社
戊辰戦争の戦死者などを祀る為、1869年に建立された東京招魂社が起源。
1879年に靖国神社に改称した。

神になった人

近代になって、歴史上の人物が新たに神として祀られたケースも多い。
例えば、平安時代の貴族の和気清麻呂や、建武の新政で南朝についた楠木正成、護良親王などである。
また、明治時代の軍人である乃木希典や東郷平八郎も神格化された。

現代における神道

敗戦後の1945年12月、GHQは日本政府に対して「神道指令」(正式名称は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を出し、ここに国家神道体制は崩壊した。
神社の多くは「宗教法人令」の下、個々の宗教法人として再出発する事となる。
現在は、宗教法人神社本庁が全国約8万の神社を包括している。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 17号 院政期を彩った人々』朝日新聞出版 監修:伊藤聡

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