人の暮らしとは、常に食べ物と共にある。
人の歴史は食の歴史と言っても過言ではない程、人と食べ物とは密接な関係である。
人間は元々、自然界に生きる動植物に食べ物を頼っていた。
しかし、人々の暮らしが発達するにつれ徐々に、人の手で食べ物が生産されるようになっていく。
さらに文明、社会が発達する事で、食べ物は人々の間を流通するようになり、2千年もの間に実に多種多様になっていった。
動く動物を捕るよりも、やはり、植物採集の方が確実だった。
キノコや木の実、山菜などを重要な食料源にしていた
本来、食事とは生きる為に必要な物であり、ただ栄養を確保する事だけが目的であった。
しかし、食べ物の役割は本来の役割を超え、行儀作法を伴う文化や、流行によって様相を変える娯楽にまで変化していった。
縄文時代の後期から弥生時代の初期にかけて、日本へ稲作が伝来する。
それまで狩猟・漁労・採集に頼っていた食生活に、人々は意識的に食料を栽培し、収穫する方法を取り入れてたのだ。
稲作の伝来の影響はとても大きく、日本人は、重要な主食の一つを自らの手で、ある程度計画的に入手できるようになった。
飛鳥時代から平安時代初頭にかけて、中国へ派遣された遣隋使や遣唐使。
彼らによって、新しい食材や食文化が大陸からもたらされたのである。
砂糖や茶など、現在は一般的な食材も、もともとは「薬用」として持ち込まれたのものが少なくないのだ。
平安時代の宮中で行われた盛大な宴席料理。
中国の影響を受けて成立した。
卓上には鯛や鯉などの魚(塩漬けや干物)、アワビ、サザエなどの貝類、唐菓子や果物などの単品料理が並んでいた。
貴族達は向かい合って座り、手元の調味料(醤・酒・酢・塩)で自分好みに味付けをしながら食べていた。
平城京では市が開かれ、日常的に商いが行われる様になっていった。この頃の貴族の献立は上の画像の様に豪華で、アワビやタイ、アユのほか、イノシシやシカの肉など、山海の珍味が並ぶ豪華なものだった。しかし、庶民の食事は玄米に茹でたノビル、汁に塩のみ。下級官人の場合はこれに魚や漬物、魚が就いた。
室町時代から始まった南蛮人との交流によって、多くの新しい文物が日本にもたらされる。
食べ物も例外ではなく、その代表が、スペインやポルトガルから伝わったカステラやボウロなどの卵や砂糖を使った南蛮菓子であった。
江戸時代、徳川幕府の長期政権時代に入り社会が安定する。
「鎖国・海禁」という環境下で、日本独自の食文化が開花していったのだ。
オランダや中国と交易を続けていた長崎には海外からも文物が入っており、珍しい食べ物が有力大名などにも届けられていた。
明治維新を迎え、一気に欧米の食材や食文化が日本へ入って来た。
欧米と肩を並べようとする日本では、食の西洋化もあった。
同時に、日本風のアレンジも加えられ、「洋食」と呼ばれる、新しい日本らしさを持ったメニューなども誕生する。
明治維新後、肉食が普及していく。
明治5年には天皇も牛肉を試食し、国民に対して、肉食解禁が印象付けられた。
横浜では、江戸時代末期から西洋野菜の栽培が始まっている。
レタス、エンダイブ、キャベツ、カリフラワー、メキャベツ、パセリ、セロリ、ニンジン、ラディッシュ、トマト、アスパラガスなどが栽培された。
現在では日本の家庭でもお馴染みの野菜だが、当時は居留地向けだったのだ。
戦後は、アメリカからの食糧支援や、さらにその後の経済の回復によって、食環境が安定していく。
食べ物の欧米化にも拍車がかかり、現在の日本人の食生活へと向かっていく。
終戦後の食糧難の時期にGHQ(連合国軍総司令部)が放出した小麦粉でコッペパンが製造され、配給された。
これを受け、一般的な日本人の食生活にもパン食が普及していった。
また、海外からの支援によって、学校給食にもパン食が採用されている。
これらが契機となり、米より小麦の消費量が増大する結果となったのだ。