江戸出張とお正月

武士の仕事 江戸出張

江戸への出張が楽しみだった?

江戸時代の武士は、名目上は「戦闘に備える為」に外泊は禁止され、個人的な旅行も許されなかったが、仕事での出張は多かった
武士の最高位である将軍自身、三代徳川家光まではよく出張しており、官位を貰ったり、大名たちへ将軍の権威を示す目的で、たびたび上洛している。
※上洛とは都へ入る事
また、大名が一年おきに江戸と領地を往復した参勤交代も、仕事で国元を離れるのだから、長期出張といえる。
日本中の武士が江戸に出張して来ており、江戸市中の武士の多くは、出張中の武士だったのだ。

尾張藩の朝日文左衛門

無論、短期の出張もあった。
例えば、尾張藩の畳奉行の朝日文左衛門は「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」という日記を書いていた。
それによると、畳奉行として、京都・大坂に買い付けに行った際の記録を細かく残している。
彼は、御用商人から受けた接待の記録まで、詳しく記していた。
それによると、彼は、京都に到着した翌日から、祇園に繰り出したの皮切りに、連夜に渡る宴会女遊び芝居相撲見物など、遊びまくっているのだ。
二ヶ月に及ぶ出張の最後になって、ようやく京都の畳商人「大紋屋」に出向いたが、仕事らしい仕事はそれだけという、実に楽しい出張だった。

下級武士の江戸出張

貧乏な下級武士にとっても、出張は楽しみな仕事であった。
宿泊先を安い旅館に変える事で経費を浮かし、小遣いの足しにする事で、遊ぶためのお金を確保していたのだ。
まるで現代のサラリーマンのような努力である。
なにしろ、当時の旅行は日数も経費も掛かっただけに、小遣い稼ぎといっても額が違った。
上州高崎藩の場合、江戸出張には金七両が支給されていたが、これは今の金額で言えば約42万円という大金だ。
しかし、実際にかかる旅費は往復で二両程だった為、上手にやりくりすれば手元に5両、つまり30万円程が残るわけだ。
大金が懐にあって、身軽な出張とくれば、遊ばないわけがない。
こうして、貧乏侍でも出張を任ぜられると、遊びまくっていたのだ。

自分の領地でのお仕事

自分の領地に出向いていた?

時代劇などを見ると、年貢が払えない農民が、必死になって年貢を減らしてもらうよう嘆願しているシーンなどがある。
だが、実際には自分の領地へ出向くのは、公用がある時だけだったようだ。
まず、年貢や諸役の割り当てを決める為に、土地を測量する「検地(けんち)」のとき。
もう一つは稲の生育状態を見て、年貢率を決める「検見(けみ)」の時だ。
また、自領の村で火事が起きたり、変死や生き倒れ、捨て子があったり、農民同士の喧嘩の仲裁をする際などにも、派遣される事があった。

庄屋と村請制

とは言っても、何か起きたからといって、すぐに役人がやって来るわけではなかった。
江戸時代は、村の「庄屋(しょうや)」が行政の末端を担う「村請制(むらうけせい)」が敷かれており、年貢の微収や訴訟の取次ぎなどは、庄屋が担当していた。
そのため、農民が日常的に役人の監視を受ける事はなかったのだ。

その分、お侍様が珍しく出張でやって来た時には、酒やご馳走をふるまって存分にもてなしていた。
特に、検見の役人を迎える時は、年貢率を低く抑えたい一心で、高価な贈答品など、盛んに賄賂が贈られた。

農民の法令 五人組帳前書

しかし、農民の法令を記した「五人組帳前書(ごにんぐみちょうまえがき)」には、「検見の時だけでなく、普段から代官の手代やその妻子、召使に至るまで、金銀、米銭、衣類、書道具その他の贈り物をしてはいけない」と書いてあった。
役人に賄賂を贈るのは、本来禁止されていたのだ。
だが、苦しい生活を強いられている農民たちにとって、罪悪感を伴わない行為だったようである。

一方、将軍が代替わりするたびに、民情を調査する為、幕府から巡検使が派遣されて村を回る事もあった。
しかし、調査といっても形だけのもので、農民が圧政を訴えたところで、問題が改善されるわけではなかった。

武士のお正月

年始まわりで大忙し

現在では、年始まわりはおろか、年賀状さえもメールで済ませてしまう時代だが、江戸時代の武士たちは、年始まわりに多忙を極めていた。
例えば、名奉行で知られる大岡忠相(おおおかただすけ)の場合だ。
大岡が町奉行から寺社奉行に昇進した最初の正月の日記を見ると、元旦早々から、大変なハードスケジュールをこなしている。

大岡忠相のお正月

まず、元旦は、午前七時に自宅を出発し、江戸城に詰めてから、午後に城を出る。
家でしばらく休憩した後、午後二時から上役12人の屋敷へ年賀の挨拶周りをしている。
その日は夕方五時に帰宅する。

翌日の二日は、午前中はやはり江戸城に出勤して、午後から挨拶まわりをしているのだが、その数なんと25人
二日間で、計37軒の屋敷を訪れていたわけだ。

最も当時は、年始まわりは誰もがやっていた事だから、大岡だけが特別に忙しかったわけではない。
それに、上役の家に年始まわりに訪れても、その上役はさらにその上役へ年始回りに行っていて留守という事も多かった為、取り合えず玄関先で挨拶をするだけですぐに次の家に移れたのである。


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