高市皇子

高市皇子

目次

天武天皇の皇子、謎の死を遂げる

持統政権下で太政大臣に就任

654年(白雉5年)?〜696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

40代・天武天皇の長子として、壬申の乱でも活躍した高市皇子(たけちのみこ)。持統天皇の即位後は太政大臣となり、天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位にまで上り詰めるが、40代半ばで不可解な死を遂げた。

持統天皇のもとで太政大臣となる

持統天皇の即位に高市皇子が協力したとも

持統4年(690)正月、鶴野讚良(ウノノサララ)皇女は即位して41代・持統天皇となった。
持統は大津皇子を葬ったことで反感を招き、孤立していた可能性がある。それでも即位できたのは、天武天皇の長子である高市皇子の協力が得られたからだと考えられる。

血統で劣っていた高市だが、実力で躍進していく

高市皇子は白雉5年(654)ごろに生まれ、母は胸形徳善(むなかたのとくぜん)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)。蘇我系の血を引く草壁皇子や大津皇子よりも「血統」で劣っていたため、皇位継承では後れを取った。 しかし、壬申の乱では軍を率いて戦い、近江大津宮を制圧した。

持統朝にて太政大臣に就任、実権を握る

持統4年(690)7月、高市皇子は太政大臣に任じられ、皇族・臣下の筆頭となった。政治経験も豊富だったので、この段階で高市皇子が実権を握り、実務を取り仕切ったとみられる。

天皇に次ぐ求心力を持った指導者だった

『万葉集』巻2の199は柿本人麻呂が高市皇子の殯宮(もがりのみや)で作った歌だが、その中には「高市皇子が天下をお治めになる体制がいつまでも続くと思ったのに・・・」というくだりがある。これを素直に信じれば、高市皇子が周りから期待されながら政務を仕切っていたことになる。

父・天武より新都の造営を受け継ぐ

持統天皇はお飾り女帝だった?

持統天皇は何をしていたかというと、異常なペースで吉野行幸をしていた。毎年数回、多いときは年5回も吉野へ赴いていた。実務はすべて高市皇子に委ねた、「お飾りの女帝」だったようだ。

新益京(藤原宮)の造営を天武天皇より継承していた

高市皇子は律令制度の基礎作りに励んだが、特筆すべきは新益京(あらましのみやこ:藤原宮)の造営である。 かつては持統天皇の時代に造られたと考えられていたが、天武朝から造営されていたことが発掘調査で明らかになった。 天武天皇が造り始め、高市皇子が事業を継承したと考えられる。

暗殺か?謎多き高市皇子の死

次期天皇まっしぐらのなか高市が急死

このまま高市皇子が律令整備を進めれば、次の皇位は彼に渡っていたはずだ。 しかし、高市は持統10年(697)に亡くなってしまう。『日本書紀』7月10日条の記事には「後皇子尊薨せましぬ」とあり、「後皇子尊」は高市とみられる。

高市皇子の死後、皇位継承問題が勃発

「高市皇子が薨去された」と素直に書かれていないのは、事件性が感じられる。まだ40代の働き盛りだったので、あるいは何者かに暗殺された可能性もある。 高市の死後に皇位継承問題が浮上したが、これも高市が皇太子の地位に立っていた可能性を示している。

持統の孫が天皇に即位、持統が後見役に

高市皇子の薨去を受けて、持統天皇の孫である珂瑠(かる:軽)皇子が皇太子に立てられた。 文武元年(697)8月には持統天皇の譲位を受け、珂瑠皇子が即位、文武天皇となった。15歳での即位は先例になく、持続が太上天皇として後見役となった。 そして、持統から絶大な信任を受けた藤原不比等が急速に台頭し、政治の表舞台に出てくることになる。

最終的に持統(系)の一人勝ちとなっているため、高市皇子の死に持統天皇が関与していた可能性も疑える。


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