本能寺直前の光秀

“本能寺の変”直前の光秀

なぜ光秀は主君・信長を討ったのか?
当時の光秀の心境を読み解く為、本能寺の変“直前”の様子をみてみよう。
光秀は多くの苦悩を抱えながらも、信長への「感謝の念」をもっていた事が窺がえる。

光秀の家臣たち

低い身分から登用された光秀家臣ら

丹波(京都・兵庫の一部)を制圧した惟任光秀は、織田信長(1534〜82)の家臣団のなかでも筆頭といえる実力者となった。
その軍事力を支えていたのは、光秀と同じく美濃(岐阜県南部)出身の明智秀満(1536?〜82)や斎藤利三(1534〜82)をはじめ、領地があった近江(滋賀県)や丹波から登用した家臣たち、そして室町幕府に仕えていた武士たちであった。
低い身分から登用された光秀の「家中(当主と一門・家臣の集団)」には、様々な出自を持つ人々が集まっていた。

光秀が「家中軍法」を制定

織田家で唯一の「家中軍法」

天正9年(1581)6月2日、光秀は家臣達の軍制や心構えなどを、織田家で唯一の「家中軍法」で示した。
ここでは、戦場での雑談や抜け駆けを禁止し、光秀の指揮に従う事を徹底させるとともに、石高に応じた武具を用意させて軍装の統一を図るなど、十八ヵ条にも及ぶ細かい規定がなされている。
また末文には、光秀自身の考えが次の様に記されている。

「家中軍法」の光秀の末文

『落ちぶれた身から信長様に拾ってもらった者(光秀)が、莫大な軍勢を任されたからには、明智家の法度(軍法)が乱れていると、「武功がない人間だ」とか、「国家の穀潰しで公務を怠っている」と嘲笑されて方々に苦労を掛けてしまう。抜群の働きを見せれば、速やかに信長様のお耳に入ることだろう。』

「家中軍法」は信長へのアピールだった?

この末文からは、信長から責任ある立場を任された光秀が、強い責任感をもって軍法を定めた事が覗える。
また条文の細かい規定からは、光秀の几帳面な性格を見てとる事が出来る。
その反面、“信長に自身の行動が常に見られている”事も意識していたと取れ、信長に対し、恐怖に近い念を持っていたかも知れない。

「家中法度」で家臣の行動を規定

家臣に“礼儀正しい”行動を求めた

また、光秀は「家中軍法」を定めた三カ月後の12月4日にも「家中法度」を定め、本拠地の坂本(滋賀県大津市)と丹羽を往復する家臣たちの行動を細かく規定した。
その内容は「信長様の宿老や側近と道で出会った時は片膝をつき、慇懃に挨拶をせよ」「用事がない時は京都へ立ち寄ってはならない」「他家の者と道で口論になった場合は、理由を問わず成敗する」というモノであった。
家臣たちが信長の重臣や側近、明智家以外の者と問題を起こさないようにする事を趣旨としている。

“京都を意識”していた家中法度

光秀はその理由として、「信長様の御座所が近いので、他から疑われない様にする為である」と末文で述べている。
京都に近い地域を支配する自分の立場をわきまえ、信長やその周辺の人々から疑われないよう、家臣たちの行動にも気を配っていた事がわかる。

信長ありきの制度だった?

光秀が「家中軍法」と「家中法度」を定めたのは、自らの「家中」を厳しく律するとともに、低い身分から自身を引き立ててくれた信長に感謝し、その期待に応える事を目指した為とも考えられている。
これらの制度によって光秀が“本能寺で信長を討った”事は偶然だったのか、光秀が意識していたのかは分からない。

光秀の環境

“本能寺の変”当時の光秀の環境とはどんなモノだったのか?
何が光秀を突き動かしたのか、手掛かりを探す為、当時の状況を振り返ってみる。

「天下(畿内)」を守備した光秀

“織田家のNO2”ともいえる地位

天正9年(1581)2月、光秀は信長から馬揃え(騎馬を披露するパレード)の責任者に任命され、京都の周辺にいる信長の家臣たちに招集をかけた。
その対象は公家と公方衆(旧幕臣)、山城・摂津・河内・和泉の領主(国衆)たち、丹羽長秀(1535〜85)配下の若狭衆、そして光秀の与力(指揮を受ける者ら)だった丹後の細川藤孝(1534〜1610)と子の忠興(1563〜1646)・興元(1566〜1619)兄弟、藤孝の娘婿の一色五郎(?〜1582)らであった。
前年に「天下(京都周辺の地域)」が平定された後、光秀は信長の支配領域である「天下」を守備する立場として、いわば信長の親衛隊長のような役割を担っていた。

武田攻め、接待役など多忙の身

光秀と信長が“言い争っていた”?

光秀は京都周辺を預かる身で在りながら、天正10年(1582)に入っても信長に従って甲斐(山梨県)の武田氏討伐に出陣し、帰陣後は安土へ来訪した徳川家康の接待を任されるなど、多忙を極めていた。
光秀は準備に奔走して家康を盛大にもてなしたが、ルイス・フロイス(1532〜97)の『日本史』や、17世紀の初めに豊臣秀吉の逸話をまとめた『川角太閤記』には、家康の接待をめぐって信長と光秀が言い争ったという話が残っている。
この時期、両者の間で何らかの対立が起こっていた可能性が高い。

秀吉の援護に向わされる

天正10年5月、光秀は信長の命令を受けて今度は西国へ出陣、毛利氏と戦っている秀吉の援護に向かう事となる。
『「天下」を守備する身でありながら、秀吉の援護に向かう』ハメになったわけで、心中穏やかではなかっただろう。
そして光秀は、27日に亀山(京都府亀岡市)から愛宕山に参詣。
この愛宕山は光秀が兼ねてより崇敬し、戦勝祈願を行っていた場所だ。

信長への謀反を決断?

信長の側近であった太田牛一(1527〜1613)の『信長公記』には、光秀はここで二度、三度とクジを引き、翌日には連歌師の里村紹巴らと「愛宕百韻」の連歌会を開催した。
この連歌会で光秀は「ときは今 あめが下しる 五月かな」という歌を残している。
光秀はこのとき、信長への謀反を決断したとも云われる。

謀反の理由は何だったのか?

数多くある見当たる「謀反」の“理由”

光秀はなぜ信長を討ったのか、「信長に恨みがあった」「天下を狙う野望があった」「背後に足利義昭や朝廷など“黒幕”がいた」など、多くの説があるが、どれも定説とはなっていない。
むしろ、光秀には“信長を討つ理由”が在り過ぎたとも言える。
この時期の信長は次々と家臣らをリストラしており、光秀(明智家)といえど、決して安泰ではなかったのだ。
また、光秀は“信長が躍進する姿”をすぐ側で見てきており、自身が天下を目指していたとしても不思議はない。
さらに“信長が何度も裏切られ”ては“謀反が失敗”する様も見ており、光秀の見事なまでの謀反は、過去の信長討ちの失敗を参考にしたのだろう。

四国政策の転換

現代、比較的有力視されている説の一つとして挙げられるモノに「四国政策の転換」がある。
土佐(高知県)の長宗我部元親(1539〜99)との関係である。

光秀は“信長と長曾我部の仲介”を担当していた

信長は足利義昭を擁して入京した直後から、義昭・信長に対抗していた阿波(徳島県)の三好氏を牽制するため、長宗我部氏と交渉を行っていた。
その際に、光秀は重臣の斎藤利三の兄・石谷頼辰の義妹が元親の正室だった関係を利用して、信長と元親の間で取次(交渉の担当)を務めていたのだ。

信長と長曾我部が対立関係に

だが、長宗我部氏と阿波・三好氏の戦いが進むなかで、阿波・三好氏は天正9年(1581)の末に羽柴秀吉を通じて信長に従属した。
しかし、信長は元親の四国統治を認めず、本国の土佐と阿波半国のみを長宗我部領とする国分(領土分割)を提案する。
元親はこれに同意せず織田家と断交してしまう。
こうして、天正10年5月には信長の三男・信孝(1558〜83)を総大将とする四国討伐軍が編成されたのである。

これまでの苦労を無にされた光秀

こうした織田家内部の政策転換は、これまで長宗我部氏との取次を務めてきた光秀にとって、政治的立場を失う出来事だったのだ。
光秀にとって残された選択肢は、「織田家の外交方針を再び転換させる」か、「織田家から出奔する」か、「謀反を起こして信長を含めた織田政権の中枢を抹殺する」かしかなかったのだろう。


↑ページTOPへ