ルソン島の戦い

ルソン島の戦い

昭和20年(1945)1月9日〜9月3日

ルソン島の戦いは、1945年1月6日〜9月3日までルソン島(フィリピン)で行われた、日本軍とアメリカ軍の戦い。フィリピンの首都・マニラは3月に米軍が制圧したが、その後も日本軍残党との戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、多くの戦車戦が発生した。

さきの台湾沖航空戦における大戦果は勘違いした司令部だったが、戦況を見誤ったまま戦闘継続を命令された。

目次

捷一号作戦〜フィリピン方面防衛作戦

ルソン島を決戦地と想定した作戦

絶対国防圏であるマリアナ諸島で惨敗した日本軍は、昭和19年(1944)7月、新たな防衛計画として「捷一号作戦」を立案した。これはフィリピンのルソン島を決戦地とするフィリピン方面防衛作戦で、陸海空の総戦力でもって決戦を行うことを準備していた。

が、大本営が急に作戦を変更する

ところが同年10月、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、東京の大本営はルソン島の地上決戦を一蹴。レイテ島での決戦に変更してしまう。

さきの台湾沖航空戦における誤認・大戦果

これには理由があった。
米軍がレイテ島に上陸する直前、台湾沖航空戦が行われたのだ。米軍機動部隊が沖縄を空襲し、台湾やルソン島に激しい波状攻撃を加えたのに対し、日本の基地航空部隊は全力をあげて反撃。空母など28隻を撃破したと大本営は発表し、久しぶりの大戦果に国内はわき立った。
しかし、実際に与えた損害は巡洋艦2隻を大破させただけで、逆に日本軍は航空機約650機を失った。
未熟なパイロットの誇大報告を軍上層部が鵜呑みにし、総合的な判定を怠ったことが幻の戦果を生み出した理由とされる。

「既に米軍に壊滅的打撃を与えた」と勘違いした大本営

壊滅的打撃を与えたと確信した大本営は、レイテ島に上陸した米軍は敗残部隊に違いないと判断。従来の作戦計画を放棄してレイテ島での決戦を挑んだ。

ルソン島に米軍が上陸

が、変更した作戦も失敗に終わり、米軍がルソン島へ

しかし、準備不足のまま迎えた結果、日本軍は米軍に圧倒され敗北した。
そして米軍は昭和20年(1945)1月9日、ルソン島に上陸する。

米軍のルソン上陸は一旦許し、上陸後の長期戦を展開

日本軍はレイテ島決戦に多くの部隊を送り込んでいたため、ルソン島には米軍の攻勢を阻止する力は残されていなかった。
ルソン島での決戦は最初からあきらめるしかなかった。その代わりに選んだのは、持久戦に徹し、できるだけ長く抵抗することだった。

食料もないのに「永久に戦え」との命令が下された

レイテ島決戦の失敗で、フィリピン防衛戦の敗北は決定的となった。
それでもルソン島の日本軍兵士に下された命令は「自活自戦、永久抗戦」、つまり食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものだった。

補給も受けられないゲリラ戦を展開

マニラを米軍が再占領

戦闘によってマニラで非戦闘員(市民)が犠牲に

日本軍は、広大なルソン島を三つの地区に分けて兵力を分散。
マニラ市では海軍部隊と、召集された現地の日本人が中心となって立てこもったが、米軍の砲撃によって全滅。市民約9万人も犠牲となり、マニラ市街は瓦礫の山と化した。

日本軍の組織は崩壊、兵個人が長期戦を敢行

個人で戦う為に何でもやった日本兵たち

重要拠点を米軍に突破されると、日本軍はゲリラ戦に徹するようになる。
山岳地帯に潜みながら戦闘を続行。補給のない兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去るといった、事実上の略奪行為で食料を得た。しかし圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていった。また、現地住民のゲリラ部隊に捕まって命を落としていった。

まだ日本兵が戦っている最中に終戦を迎える

昭和20年4月、日本軍は司令部のある、ルソン島のバギオを放棄。
そのおよそ二ヵ月後、米軍はルソン島作戦の終了を宣言した。
それから日本が無条件降伏するまでの二ヵ月間近く、ルソン島の日本軍兵士は山中で飢餓と感染症に苦しみながらゲリラ戦を続け、そして終戦を迎えることとなった。

日本軍の戦死者は約22万人

戦況を見誤ったまま、日本本土への日本軍の進攻を遅らせるためルソン島死守を命じられた日本軍兵士。
ルソン島の日本軍の戦死者は約22万人といわれるのに対し、米軍の戦死者は約8000人であった。

陸軍中野学校の教えが「最後の日本兵」を生んだ

小野田寛郎〜30年近くもゲリラ戦を続けた日本兵

日本軍兵としてこのルソン島の戦いに参加した人物に小野田寛郎がいる。 小野田寛郎は、アジア・太平洋戦争が終わった後もフィリピンのジャングルに潜んで30年近くも戦い続けた。

スパイ養成所で教育をうける

徴兵検査を受けて入隊した小野田は、選抜されて陸軍中野学校に入校。陸軍中野学校は、日本軍制史上唯一とされる秘密戦要員の養成機関だった。つまりスパイ養成所だ。
スパイにとって大切なことは、情報を入手して持ち帰ること。そのため、日本軍兵士は「捕虜になるなら死ね」と教え込まれていたのに対し、学校では「とにかく死ぬな。生き延びろ」が金科玉条だった。

特殊訓練を受けた小野田は、昭和19年(1944)、フィリピンのルバング島に派遣される。学校の教えを忠実に守って戦い続け、「最後の日本兵」として生還した。


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