フィリピン防衛戦

フィリピン防衛戦(1944〜1945年)

フィリピンの戦いは1944年10月から1945年8月にかけてフィリピンで行われた戦い。
第二次世界大戦初期から後期、南方作戦により日本はフィリピンを占領下に収めていた。
しかし、アメリカ・フィリピン・オーストラリア・イギリスら連合国軍が、フィリピン奪回を目指す。
日本軍は「捷一号作戦」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、日本軍は敗北、フィリピンを奪還されてしまった。
装備・火力に圧倒的な差が両軍にあり、この戦いで、日本兵は30万を超える犠牲者を出している。

フィリピン奪還作戦打ち合わせ中の司令官ウォルター・クルーガー陸軍中将

フィリピン奪還作戦打ち合わせ中の司令官ウォルター・クルーガー陸軍中将

マッカーサーの帰還

圧倒的な艦艇数の米大艦隊

昭和19年(1944年)10月17日、風速30mの暴風雨をついて、マッカーサー軍がレイテ湾に進入した。
ウォルター・クルーガー中将指揮の上陸部隊約10万(最終的には20万)が武器弾薬食糧を満載した輸送船420隻に分乗していた。
それを護衛するのはトーマス・キンケード中将指揮の第77機動艦隊(護衛空母18隻、その背後にはハルゼー大将指揮の第3艦隊正規空母17隻が控えていた)であり、戦艦や巡洋艦など戦闘艦艇は157隻という驚くべき大部隊である。

パロビーチに殺到する米上陸部隊

パロビーチに殺到する米上陸部隊

マッカーサー大将と幕領たち

再びフィリピンを訪れたマッカーサー大将と幕領たち

マッカーサー「私は帰ってきた」

米軍は暴風雨の中、徹底的な艦砲射撃を加え、20日レイテ島タクロバン、ドウラグなどに続々と上陸した。
マッカーサーはフィリピンゲリラ部隊に向かって、「私は帰ってきた」と放送し、3年前の「I shall return」の誓約を果たした。
マッカーサーは幕僚を引き連れて膝まで波に浸かりながら上陸するシーンの映画撮影で、自らNGを出してやり直すほどだったという。

タクロバン議事堂前でフィリピンへの行政権返還を宣言するマッカーサー

タクロバン議事堂前でフィリピンへの行政権返還を宣言するマッカーサー

米大艦隊を壊滅させたと「勘違い」した日本軍

この数日前、台湾沖航空戦で、日本海軍航空隊は米機動部隊の空母11隻を撃沈、8隻を大破したと誤認していた。
その為、レイテ沖に突如現れた大艦隊の姿に、日本守備部隊第16師団は我が目を疑い、最初は敵の上陸かどうか判断しかねたという。
先の、誤認による「大戦果」に対しては天皇陛下からは「嘉賞の勅語」が出されており、戦傷を祝う国民大会が開かれるなど、前線も銃後も大いに意気が上がっていた。
しかし、本当は一隻の空母も沈没していなかった。
この台湾沖航空戦の大誤報は、フィリピン防衛線に決定的な悪影響を与えた。

捷一号作戦の発令

予定になかった突然の大艦隊出現

このころ、大本営はルソン島で米軍と決戦すると決めており、マニラの第14方面軍(軍司令官・山下奉文大将)もそのつもりで準備を整えつつあった。
他の島に上陸しても、反撃は既に守備についている部隊に任せ、大決戦は彼らがルソン島に来攻するまで待つ、という作戦を立てていた。
これが、捷一号作戦(しょういちごう作戦)の要点であった。

山下奉文大将

フィリピンの山下奉文大将

捷号作戦とは

サイパン失陥後、大本営は捷号作戦(捷は「勝つ」の意)をたてた。
連合軍の主進攻方面を予想しつつ、捷一号作戦はフィリピン、捷二号を台湾・南西諸島、捷三号は本土、捷四号は北海道・千島・樺太の各方面で、決戦するものとしていた。

レイテで敵を迎え撃つ日本軍

米軍のレイテ島上陸で捷一号作戦が発令されたのは勿論だが、大本営は守備方針を一変した。
台湾沖航空戦で敵の機動部隊が壊滅し、その残敵がレイテ島に上陸したのであれば、ひょっとしたら勝つかもしれない。
レイテに兵力を集中して、上陸部隊を撃滅すべきだと。
それを受けて南方軍総司令官寺内寿一元帥は「騙敵撃滅の神機到来せり」と、時代がかった言葉で山下軍司令官に命令した。

万全の態勢が敷けない日本軍

山下は、今更、大兵団をレイテに輸送する船もなく時間もない(マニラからレイテまでは東京〜岡山位の距離)。
船の手配がついても護衛の航空隊もない。
台湾沖航空戦の戦火の真偽はともかく(海軍は陸軍に対して誤報であった事を伝えなかった)、敵航空攻撃の激しさは依然と全く変わらないと反対した。
しかし寺内は承知しなかった。
仕方なく第35軍(軍司令官・鈴木宗作中将)司令部をセブ島からレイテ島オルモックに進出させ、3、4個師団をレイテに派遣する準備に掛った。

日本艦隊の終焉 レイテ沖海戦

第一遊撃隊

海軍も一つの大きな作戦を実施した。
10万の米軍がレイテ島に上陸した2日後、栗田健男中将が指揮する第一遊撃隊(戦艦「大和」「武蔵」を含む39隻)がボルネオ島ブルネイを出航した。
艦隊は途中で二手に分かれ、一隊(西村艦隊)はスリガオ海峡から直接、一隊(栗田艦隊)はシブヤン海を経てサンベルナルジノ海峡を通過した後南下して、25日、一斉にレイテ湾に突入する事になった。
湾内の輸送船を一挙に葬ろうという作戦である。

西村艦隊 壊滅

この作戦を援護するため、小沢治三郎中将が指揮する第三艦隊(マリアナ沖海戦敗北の後、再建された形ばかりの空母を備えた機動部隊)がルソン島北方沖合に進出、ハルゼーの第三艦隊を引き付ける囮作戦を展開した。
囮作戦は上手くいったが、スリガオ海峡に突っ込んだ西村艦隊(西村祥治中将指揮)は米艦隊に待ち伏せされて、ほぼ全滅した。

小沢艦隊の空母「瑞鳳」

エンガノ岬沖でハルゼーの第38機動部隊の攻撃にさらされる小沢艦隊の空母「瑞鳳」

戦艦武蔵 撃沈

栗田艦隊はシブヤン海の航空攻撃で戦艦「武蔵」を失いながらも、レイテ湾港まで45海里(約83キロ)の地点に進出した。

シブヤン海で米第38機動部隊の第1次攻撃を受ける栗田艦隊

シブヤン海で米第38機動部隊の第1次攻撃を受ける栗田艦隊

レイテ反転

しかし、最後の段階で何故か突入を断念し、反転した。
世にいう「レイテ反転」であり、真相は謎のままである。

特攻の始まり

10月25日、神風特別攻撃隊「敷島隊」がマニラ近郊クラーク基地を発進した。
敷島隊はフィリピン東方海上で米機動部隊に体当たり攻撃を掛け、護衛母艦「セント・ロー」を撃沈するなどの戦火を上げた。
これがいわゆる「特攻」の始まりである。

丹心隊の特攻隊員たち

レイテ湾の米艦隊に突入した丹心隊の特攻隊員たち

体当たり攻撃を敢行する爆撃「彗星」

炎上しながら米空母エセックスに体当たり攻撃を敢行する爆撃「彗星」

レイテ地上決戦の敗退

米軍の装備に歯が立たない日本軍

レイテ島に上陸した米軍を相手に、守備部隊の第16師団は大苦戦に陥っていた。
陣地付近一帯を丸裸にするほどの空爆、砲弾を跳ね返すM4戦車、黄リン弾、三連射迫撃砲弾、20cm長距離砲弾などなど、長らく中国戦線で戦ってきた第16師団の将兵にとっては初めて見る強力兵器ばかりだった。

レイテに上陸する米陸軍

レイテに上陸する米陸軍

アメリカ製武器を点検するレイテのフィリピンゲリラたち

アメリカ製武器を点検するレイテのフィリピンゲリラたち

逃げ場もなく、レイテ死守が命じられる

山中に入るとゲリラに待ち伏せされており、彼らには逃げ場がなかった。
10日間で約10000名が戦死したのも不思議ではない。
しかし、牧野四郎師団長は残存約5000名の部下に対して、「余が敵弾に倒れたる時は、余が肉を食らい、その血をすすりて糧となし」レイテを死守せよと訓示したのであった。

薫空挺隊

ブラウエン飛行場に奇襲突入をはかるため敵地に降下した薫空挺隊

援軍の上陸もままならない日本軍

レイテ決戦の為、最初の増援部隊となった第一1師団は、11月1日オルモックに上陸した。
4隻のうち爆撃され炎上したのは1隻だけであり、奇跡に等しかった。
なぜなら、続いて第26師団主力(先遣二個大隊、一個砲兵大隊は無事上陸)が11月5日オルモックに到着したが、将兵が辛うじて上陸出来ただけで、武器弾薬食糧は輸送船と共に全て沈められてしまったからである。
第68旅団も同じ運命にあった。

武器を持たない兵たちのみが上陸を果たす

その他、第102師団(セブ島から)や第30師団(ミンダナオ島から)の一部、第8師団の一部(ルソン島から)などが順次増援された。
しかし、これらの援軍は、平均すると半分以下しか揚陸出来なかったが、兵員数だけは75000名まで膨れ上がった。

余りにも一方的な戦闘

比較的、まともな装備で上陸した第1師団は、ラッパを吹き鳴らしながら戦場となるはずのカリガラ平野を目指し北上したが、途中のリモン峠付近で不意に米軍(第24師団)を遭遇、たちまち激戦となった。
しかし、大砲を数発撃つと返礼として15分間に4000発返って来るという火力の前には抵抗の方法がなく、12月中頃には師団は文字通り全滅した。
この時、第1師団の残存兵は800名程しかいなかったという。

反攻作戦もままならない

小銃と手榴弾程度の個人装備で上陸した第26師団主力は、輸送船への爆撃を封じる為、爆撃機の発進地ブラウエン飛行場の攻略破壊を命じられた。
とはいえ、ジャングル(レイテ山脈が中央を走っている)を切り開きつつ飛行場まで10キロの行程を踏破出来たのはごく一部に過ぎず、空挺部隊(第2挺進団・ルソン島アンヘレス飛行場発進)や現存第16師団との協同作戦も殆ど効果がなかった。
その作戦中に米軍(第77師団)はオルモック近くにイピルに上陸し、第35軍司令部(在オルモック)は山中に潰走した。

惨憺たる敗北に終わったレイテ決戦

レイテ決戦は予想通り惨憺たる失敗に終わった。
12月15日、米軍がミンドロ島へ上陸(すぐ北がルソン島南端)、レイテ島での決戦は無意味となった。
12月19日、山下軍司令官は第35軍の「自活自戦、永久抗戦」を命令した。
その結果はどうだったか。
レイテ島から他の島へ移った者約900名、終戦までに捕虜となった者約800名、終戦後までの生存者は約700名とされている。
輸送途中に海没した将兵を含めると死没者は90000人名を超えている。

ルソン決戦とマニラ市街戦

数の上では優位だった日本軍

昭和20年(1945年)1月6日、ルソン島リンガエン湾の現れた米第7艦隊(キンケイド中将指揮)は一斉に砲撃を開始した。
陸海軍特攻隊が、何回か体当たり攻撃を仕掛けたが、大勢に影響はなかった。
9日、第6軍(クルーガー中将指揮)の約19万が上陸した。
迎え撃つ第14方面軍直轄部隊は、次の陣容だった。

尚武集団
北部拠点・山下大将直率・約15万2000
振武集団
マニラを含む中南部・第8師団長横山静雄中将指揮・約10万5000
建武集団
クラーク西方で上陸軍のマニラ進入阻止・第一挺進集団長塚田理喜智中将指揮・約3万

やはり、装備に圧倒的な差があった

数の上では上陸軍を上回っていたが、戦力に雲泥の差があった。
米軍は日本軍の陣地をまずナパーム弾で焼き払い、そこへ徹底的な砲撃を加えた。

戦車同士でも、全く勝負にならない

日本軍にも戦車部隊がいなかった訳ではなく、約40台の戦車が配備されていた。
しかし、その57mm戦車砲は米軍のM4戦車の装甲を貫通する事が出来なかった。
逆に米軍戦車の90mm砲は日本戦車をアメのように溶かして炎上させた。

破壊された日本軍戦車

破壊された日本軍戦車

日本兵の切り込み戦術

結局、日本軍が最も多用した戦術は切り込みしかなかったが、それだけでは部分的に戦火は上がっても戦局を有利に導く事は出来なかった。

マニラを無血解放しなかった大本営

2月4日から米軍は次々にマニラに入った。
マニラの市街戦を避けるため、山下軍司令官は大部分の部隊をあらかじめ撤収させていたが、市内にはマニラ海軍防衛部隊(岩淵三次少将指揮)16000人と、陸軍の野口支隊(野口勝三大佐指揮)約4000人が残っていた。
大本営はマニラの非武装都市宣言には踏み切らなったのである。

マニラ市街戦 米迫撃砲隊

マニラ市街戦、マラカニアン宮殿の庭先に塹壕を掘って日本軍と退治する米迫撃砲隊

おびただしい犠牲者を出してしまう

市街戦が始まると市民を巻き込んだ戦闘が随所に繰り広げられた。
米軍は日本軍が立てこもるビルを見つけると、無差別に砲撃を集中した。
約20日間続いた市街戦で、市民約90000名が犠牲になったという。

日本軍の敗北

最後の決戦は山下軍司令部が立てこもるバギオの手前サンタフェ、バレテ峠、バンバン一帯で、大砲や戦車や自動小銃の米軍に手榴弾で立ち向かう「鉄と肉の戦い」が3カ月半にわたって続けられた。
その後はプログ山を中心とする東西約50キロ、南北約80キロ、標高2500mの山岳地帯に立てこもり、8月15日を迎えた。

擱座した日本軍戦車

米軍の攻撃で主砲が曲がり、擱座した日本軍戦車

総犠牲者数

フィリピン防衛線は(その後の各島の掃討戦の戦死者も含めて)49万8600名(厚生省昭和39年計算)の犠牲者を出したが、太平洋戦争のフィリピン人犠牲者はゲリラ部隊を含めて約100万名といわれている。

米占領地区に非難するマニラ市民

日米市街戦で家も財産も破壊され、米占領地区に非難するマニラ市民


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