第二次世界大戦時の終戦時の内閣は鈴木貫太郎内閣であった。
鈴木内閣によってポツダム宣言の受託が決定され日本が無条件降伏し、同日(8月15日)に鈴木内閣は総辞職。
続いて東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)が総理に就任(8月17日)、東久邇宮内閣が『終戦』を実行に移す。
東久邇宮は皇族軍人で、終戦処理に相応しい人事、という事で抜擢された。
しかし、GHQに反発し東久邇宮内閣もすぐに退陣、次に幣原喜重郎内閣が発足した。(10月9日)
終戦時の内閣の動きを簡単にまとめる。
鈴木貫太郎は、清・日露戦争に従軍した海軍軍人で、海軍大将・連合艦隊司令長官・軍令部長に就任した後、侍従長に就任して天皇に仕える。
二・二六事件で銃撃されているが、奇跡的に一命を取り留めた。
その後、枢密院議長を務めていたが、小磯内閣の退陣後、77歳総理に就任。
鈴木内閣発足後、沖縄占領・原爆投下を経て、終に鈴木内閣が戦争終結(無条件降伏)に動く。
小磯国昭に代わり次の総理として、昭和天皇より推挙されたのが、77歳の鈴木貫太郎だった。
1945年4月7日に鈴木貫太郎内閣が発足。(同日、戦艦大和が撃沈)
大命を拝受した鈴木は、戦争終結こそが自分の使命であると考えたが、陸軍が唱える「戦争目的の完遂」を拒むことはできなかった。
イタリア(1943年9月8日)、ドイツ(5月8日)が次々と降伏するなか、御前会議は「徹底抗戦」を柱とする「戦争指導基本大綱」を定めた。
しかし、一方で、ソ連の仲介により連合国との講和をはかる案も採用された。
沖縄が米軍に制圧占領され、本土への空襲もさらに激しさを増すなか、同日6月23日、本土決戦時に戦闘参加する義勇兵役法が制定・公布される。
1945年7月、連合国(米トルーマン・英チャーチル・ソ連スターリン)はポツダム宣言を発表し、日本に対し無条件降伏を迫った。(7月26日)
鈴木総理は、内心では即時受諾の意向だったが、本土決戦を唱える陸軍は承知せず、これに押される形で28日に記者団の前で同宣言を「黙殺」すると発言した。
このとき黙殺しなければ、8月の原爆投下は避けられていただろう。
8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日本に宣戦布告
(満州に侵攻開始)、さらに9日には長崎にも原子爆弾が投下された。
これを、もはや即時受諾しか日本を救う道はないと鈴木は意を固めたという。
8月9日夜、ポツダム宣言受諾の是非を決する御前会議が、急遽、宮城地下の防空壕で開かれた。
会議で阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、連合による占領を小範囲、短期間にするなどの条件つきの受諾を主張した。
彼らは三発目の原子爆弾を落として欲しかったのだろうか。
それでは連合国側が受け入れないと危惧した東郷茂徳外務大臣、米内光政海軍大臣、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件とする受諾を訴えた。
鈴木総理はなかなか自らの考えを述べなかったという。
議論は紛糾し、翌10日午前2時を過ぎた。
すると鈴木が立ち上が玉座近くに進んで奏上、昭和天皇に本会議の決定を促した。
昭和天皇は「私は外務大臣の意見に同意である」答えたという。
8月14日の御前会議で再度の聖断が下され、ポツダム宣言の受託が決定された。
翌日8月15日、終戦を迎えた。
同日15日朝、鈴木の私邸は陸軍大佐の佐々木武雄率いる「国民神風隊」の襲撃を受けたが、鈴木と家族は間一髪で逃れることができた。
昭和天皇の玉音放送が流れ、大役を終えた鈴木内閣は、その日に総辞職した。
久邇宮朝彦親王の第九王子として生まれた東久邇宮稔彦は、男子皇族の義務として軍人になり、明治天皇の第九皇女・泰宮聡子内親王と結婚。
敗戦後の混乱収拾を託されて総理になるが、GHQに従いきれず退陣する。
その後は、乾物屋を開いたり骨董店を営んだり、宗教団体「ひがしくに教」の教祖になったりと、奇行が目立った。
敗戦処理を担う内閣の首班に指名されたのは、皇族軍人である東久邇宮稔彦だった。
東久邇宮には、動揺する国民に敗戦を納得させ、軍の暴発を防ぐ役割が期待された。
そして8月17日、東久邇宮稔彦内閣が発足した。
そこで東久邇宮は就任後、8月28日の施政方針演説で、「我々は今こそ総懺悔し、過去を以て将来の誡めとなし、将来の進運を開くべきである」と、国民に「一億総懺悔」を訴えた。
1945年(昭和20)8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立つ。 GHQ本部は皇居の内堀の側にあったため、マッカーサーは「堀端天皇」などと呼ばれた。
9月11日、東条英機ら戦犯容疑者3人に逮捕令が出される。
GHQにより戦犯への裁きが始まったが、日本はこれに従う他なかった。
9月2日、東京湾上に碇泊する米戦艦ミズーリ号上で、日本は降伏文書に調印する。
日本側は、全権委員の重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長、連合国側は、マッカーサーと各国代表が署名し、この調印をもって太平洋戦争が終結した。
つまり、太平洋戦争が終結したのは、正確には8月15日ではなく9月2日である。
以後、日本は、マッカーサーとGHQのもとで、民主化を実現していく。
民主化のほか、軍の解体、省庁再編などの課題に取り組んでいく。(憲法改正・労働改革・農地改革・を教育改革・女性解放・財閥解体などを実現されていく。
東久邇宮はマッカーサーとも会談し、その信任を得ることに成功した。
しかし、その際の約束を反故にする形で、GHQは10月4日に政治犯の即時釈放や、内務大臣の罷免を日本政府に指示したのである。
この一方的な措置に東久邇宮は反発し、10月5日に総辞職。
成立から、わずか54日の短期政権だった。
幣原喜重郎は1921年ワシントン会議の全権委員を務め、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸の各内閣で外務大臣を務めた幣原は、国際協調路線で知られる外交官であった。
満州事変の折には不拡大方針をとり、国際連盟理事会で日本軍の撤退を約束した柔軟性のある人物で、戦後首相としては適任であったといえる。
敗戦前の日本においては、幣原の施政は弱腰外交という批判を浴び、外交からは身を引いていた。
親英米派の外務大臣・外交官 幣原喜重郎が、東久邇宮の後継に推薦された。
幣原内閣は10月9日に発足。
11日にマッカーサーとの会談がもたれた。
マッカーサーは、日本民主化への5大改革の実施を求めるとともに、憲法の改正を要求した。
これに対し幣原は、アメリカ流の民主主義ではなく、自国に適合した「日本的デモクラシーを形成すべき」と語った。
幣原は、改革が実現されれば憲法改正は必要ないと考えていた。
11月28日に行なわれた国会での施政方針演説で、選挙法の改正をはじめ、教育の刷新、言論の自由、国民生活の安定、農地改革、復員者の援護、戦災地の復興、陸海輸送力の増強、敗戦の原因究明など、幣原内閣の基本方針を発表した。
なかでも敗戦の原因究明は、戦争責任とも直結することであり、ひいては天皇制とも抵触する問題として、慎重な対応を要した。
12月1日には陸軍省と海軍省が廃止され、終戦業務のために第一復員省・第二復員省が設置された。
それぞれが陸海軍関係の事務処理を行なうこととなり、幣原はその両省の大臣を兼任した。
明けて1946年(昭和21)の元日、昭和天皇の神格性を否定する詔書が発布された。
この昭和天皇の「人間宣言」は、マッカーサーをはじめ外国からも歓迎された。
1月4日には、GHQによる「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」が出され、その後の「民主化」はGHQが主導することになる。
2月、日本政府が準備を進めていた憲法改正試案の内容を知ったGHQが拒絶。
自分たちの案(GHQ案)を逆提示する。
幣原はマッカーサーと協議し、3月4日、GHQ案をもとにした改正案をGHQに提出した。
以後、GHQとの共同作業を経て、3月6日、政府はGHQの意向に沿った「憲法改正草案要綱」を発表した。
こうした状況下で、前年1945年12月に改正されていた新選挙法による衆議院総選挙が4月10日に実施された。
幣原はラジオを通じて「今回の総選挙はわが国、民主政治の出発点である」とその意義を訴えた。
選挙の結果、第一党になったのは鳩山一郎率いる自由党だったが、過半数には達しなかった。
そのため、幣原は続投の意欲を見せたが、結局、幣原内閣は22日に総辞職した。
選挙の結果、第一党となった日本自由党の鳩山一郎が組閣するかと思われたが、鳩山一郎はGHQの命令で公職追放される。
鳩山一郎は後継に吉田茂を指名し、5月22日に吉田茂内閣が発足された。
これ以降は選挙によって首相が選択されていくが、敗戦から一年待たずして日本の再民主化は成された。