い号作戦

い号作戦〜司令山本五十六が戦死

目次

航空戦にこだわり不利な消耗戦に

昭和18年(1943)4月7〜15日

い号作戦は、日本海軍が1943年4月7日から15日にかけて、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に行った空襲作戦。司令の山本五十六は航空戦に拘り不利な消耗戦となってしまい、自身も戦死する。 4月7日に実施された空襲は、大本営発表によってフロリダ沖海戦と呼称。作戦名はいろは順の最初の文字に由来する。

1943年 対米戦争で不利になる日本

ミッドウェー大敗後、講和の機会を探っていた山本

ミッドウェー海戦から2カ月後の昭和17年(1942)8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸。
そこで山本は、この島で米海軍を叩き、講和への足がかりにしようと考えた。

拠点から離れ孤立していたガダルカナル島

しかしガダルカナル島は、日本軍本拠地ラバウルから約600浬(約1100q)も離れていた。
零戦は2時間半以上の飛行で、ようやく島の上空に到着。
だがそこに15分以上とどまれば、帰りの燃料がもたず、途中で不時着することになる。
山本はこのような悪条件下で、本当に日本海軍が米海軍に大勝できると考えていたのであろうか。

ラバウル基地

ラバウルは昭和17年(1942)1月23日、内南洋方面を固める目的で、当時オーストラリアの委任統治領であったラバウルを、陸海軍共同で攻略した。
最初は水上機基地が開設される。その後、航空戦力は増強され、ソロモンやニューギニア方面への前線基地となった。

無理な航空作戦に執着した山本

戦艦無用・航空優先の作戦に固執した山本

昭和8年(1933)、海軍砲術学校戦術課長の黛治夫大佐は、実際の米国艦隊の戦闘射撃訓練のデータを元に、日米両軍による射撃経過図を作成。
そこから導き出されたのは、砲弾の命中率が米軍より格段に高く、破壊力抜群の砲を持つ戦艦部隊を主力とし、空母機動部隊に制空権を確保させて決戦に臨めば、米国艦隊に大打撃を与えられるという結果である。
だが山本はとにかく航空優先、戦艦無用の思想で作戦に固執する。

連合艦隊司令部は戦艦「武蔵」

ガダルカナル島からの撤退が完了して間もない昭和18年(1943)2月11日、連合艦隊司令部は通信施設が一段と完備されていた戦艦「武蔵」に移る。
その頃の主戦場は、ラバウルがあったニューブリテン島に近い、ニューギニア東部のラエ、サラモア地区であった。
両地区防衛のために派遣された陸軍第5師団を乗せた輸送船は、ニューギニアとニューブリテン島の間のダンピール海峡でことごとく沈められてしまう。

い号作戦発令

米豪軍が日本軍拠点ラバウルに大攻勢を仕掛ける

アメリカ軍とオーストラリア軍は、ニューギニアとガダルカナル島を根拠地とするソロモン群島の各基地に、多数の飛行機と輸送船を集中していた。
そして本拠地ラバウルにも大規模攻勢を仕掛けていた。

米豪軍の敵航空機・輸送船撃滅が目的のい号作戦

そこで連合艦隊司令部は、米豪軍に打撃を加えるため、第三艦隊の母艦艦載機全力と第十一航空艦隊の基地航空部隊全力を投入し、敵航空機と輸送船の撃滅を目的とした「い号作戦」を発令。
山本が陣頭指揮を執ることとなり、4月3日に飛行艇でラバウルに着任する。

「い号作戦」が発令されると、山本長官は前線基地となったラバウルに進出し、陣頭指揮を執った。
攻撃隊が出撃する際、白の第二種軍装で身を包んだ長官は、必ず最後の一機が飛び立つまで見送った。
長官が見送ってくれたことで、出撃する将兵の士気が上がったともいう。

小戦果が大戦果として報告される大本営発表

作戦には、虎の子の航空戦力の全てがつぎ込まれた。
作戦開始の4月7日は九九式艦爆67機、零戦157機が出撃。
ガダルカナル泊地の敵艦船十数隻を撃沈・撃破したと報告された。
実際は巡洋艦、海防艦、タンカー各1隻が沈没したのみ。

作戦は失敗、山本の乗機が墜落し死亡

作戦は4月15日まで続き、第三艦隊の空母部隊は内地に帰り、建て直しが必要なほど損害をうけた。
この作戦は、いたずらに航空戦力の低下を招く。
そして山本本人は乗機が米軍に襲われ戦死してしまった。

航続距離を長く設定しすぎて視察コースまで筒抜けに

ラバウルから「い号作戦」により日本の攻撃隊が向かった主戦場は非常に遠く、パイロットへの負担は重かった。
そして、零戦をはじめとする日本の航空機の航続距離が、長かったことが仇となり、山本長官の視察コースはアメリカ軍に筒抜けであった。

華々しい戦果が報告された「い号作戦」だが、実際はかなり誇張されたものであった。誇張された戦果が、山本長官の視察に危険はない、という判断を生んでしまう。

い号作戦についての当時の偏向報道

「い号作戦」は昭和18年(1943)4月7日から14日まで実施され、のべ零戦491機、九九式艦爆111機、一式陸攻81機の計683機が出撃。この間のアメリカ側被害は駆逐艦1隻、海防艦1隻、輸送船2隻、航空機25機に過ぎなかった。日本側は43機の航空機を失った。

4隻の空母が再建途上にあったため、その虎の子部隊を根こそぎ動員。作戦終了時、艦載機に限ると全体の3割が撃墜、もしくは被弾により使用不能となる。飛行機と搭乗員の補充なしに、機動部隊は作戦が不可能となった。

い号作戦における山本の行動

貴重な艦上機をなぜ地上攻撃機に転用したのか

昭和17年(1942)10月26日、ソロモン海域で行われた南太平洋海戦は空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを中破する日本側の戦術的勝利であった。
しかし多数のベテラン搭乗員を失ったため、空母からの発着訓練が間に合わず、艦上機を地上に転用した。

山本は、なぜ前線(ラバウル)に進出したのか

連合艦隊司令部は戦艦武蔵に置かれていた。
司令部のラバウル進出を強く主張したのは参謀長の宇垣纏であった。
山本は、藤井茂政務参謀に「味方の本陣がだんだん敵の第一線に引き寄せられていくという形勢は、大局上、芳しいことじゃないよ」と語っている。

山本五十六の戦死

奇襲後わずか3分で被弾し墜落

1943年4月18日午前、長官機が米軍に発見される

昭和18年(1943)4月18日午前7時34分、奇襲隊支援部隊のカニング中尉機が、ブーゲンビル島南西沖で山本一行を発見。
ただちにP-38ライトニング全機が急上昇し、同7時50分には初弾を長官機に浴びせかけた。

直撃を食らいジャングルに消えた山本長官機

直掩零戦隊が追いかけるが、速度に勝るP-38には追い付けない。
長官機は53分に右エンジンを直撃され、そのままジャングルに墜落炎上した。
参謀長機は海上に逃げ、こちらも燃料タンクに被弾し炎上したが、海面に不時着して宇垣参謀長は九死に一生を得た。

宇垣参謀長だけが生き残る

宇垣は陣中日誌「戦藻録」で、海流は強かったが、なんとかブ島に泳ぎ着いたと書き残している。

「双胴の悪魔」P-38ライトニング
航続距離が長く機動性にも優れ、かつ重武装だったことから、陸軍機であるP-38ライトニングが暗殺作戦に使用された。

長官機襲撃空戦結果

山本搭乗機攻撃隊4機と直掩機攻撃隊12機に分かれたアメリカ軍は、山本一行を急襲。突然の襲撃に戸惑う日本側は甚大な被害を受けた一方、アメリカ軍の被害はわずかだった。

アメリカ 日本
戦力 P-38戦闘機16機 [山本・宇垣搭乗機]一式陸上攻撃機2機 [護衛]零式艦上戦闘機6機
被害 P-38戦闘機1機 被撃墜 1名行方不明(のちに戦死認定) 一式陸上攻撃機2機 被撃墜 山本搭乗機11名・宇垣搭乗機8名戦死

長官機の捜索隊が派遣

飛行場まで2キロのジャングル上空で撃墜

長官機が撃墜されたのは、ブイン飛行場までわずか2キロの深いジャングル上空だった。

長官機撃墜を目撃していた日本軍部隊も存在

火を噴く長官機を目撃していたのは直掩零戦隊員以外にもいた。
ブーゲンビル島に上陸していた日本陸軍第6師団23連隊歩兵砲中隊の第1小隊長浜砂盈栄少尉とその部下たちである。

が、目撃した軍人はそれが長官機とは認識せず

もちろん、浜砂少尉は連合艦隊司令長官の乗機であることなど知るはずもない。
ただ、零戦とP-38との空戦を見ながら、双発機(一式陸攻)が墜落していく方向を見つめていた。
浜砂少尉の上官である23連隊長・浜之上俊秋大佐も友軍機墜落を目撃。
長官機とは知らず、中村常男曹長に搜索と救助命令を出した。

捜索隊は撃墜当日はすぐに引き返す

当時、食料不足に悩まされていた浜砂少尉は、救助兼搭載食料を入手しようとの目論見から捜索に出る。
しかし、中村隊、浜砂隊ともに生い茂った樹木、スコールで増水した川に阻まれ、4月18日の撃墜当日は日没とともに引き返した。

翌日から本格的に捜索開始(撃墜機が長官機と認識したため)

本格的な捜索は翌日からで、佐世保鎮守府第6特別陸戦隊の吉田雅維少尉と23連隊の浜砂少尉を指揮官とする各1個小隊は、最初から山本機と知らされて別々にジャングルへ入った。

山本長官は座席に座ったまま絶命

翌日、長官機がすぐに発見される

19日午前10時ごろ、浜砂隊の隊員のひとりがガソリンの臭いがすると言い、その臭いをたどって行き、長官機を発見した。

軍刀を握ったまましていた山本長官

浜砂少尉の報告書によれば、山本長官の遺体は、墜落時の衝撃で機体から投げ出された座席にベルトで固定されたまま着座していた。
右手は軍刀を握ったままだったという。これは墜落直後はまだ生存していた可能性を示す。

左には高田軍医長の亡骸

すぐ左には、寄り添うように高田軍医長の遺体があった。
山本長官遺体発見の報告を受け、連合艦隊司令部から現場に急行した渡辺安次戦務参謀も、ほぼ同じ報告書を提出している。

何故か海軍によって山本長官戦死の状況は改竄されている

ところが、日本海軍公刊戦史ではまったく違う記述となっている。
なぜ山本長官戦死がこのように捻じ曲げられていったかは、今日までさまざまな憶測を呼んでいるが、まだ定説というものはない。

山本五十六機上死の謎

山本は空中戦で機銃掃射によって戦死したとされているが、遺体に関する記録・証言には矛盾も多く、また、軍刀を握ったまま座していたなど遺体発見時の不自然な状況もあり、現在も真偽については議論がある。下表は、謎とされている状況の一例。

銃創 死因は「銃弾が顔を貫通したこと」とされたが、P-38戦闘機の機銃は口径が大きく、本当に命中していれば頭が半分は吹き飛んでいたはず。
遺体の状況 座席に座った状態のままで発見されており、ほかの遺体と違って黒焦げでもなければ蛆も湧いていなかった。
検死報告の内容 検死調書には銃創はなかったとの記述がある。一方で銃創があったとする軍医の証言もあり、詳細は不明。

米国内で山本戦死に報道規制

暗号解読の事実をなるべく隠蔽したかった米国

山本長官機奇襲撃墜は、合衆国国内でビッグニュースとして取り扱われるどころか、まったく報じられなかった。合衆国政府が各報道機関に強烈な報道規制をかけていたからである。
理由は、日本海軍に解読済みの暗号を使い続けてもらうためであった。

米軍内部ではかん口令が敷かれる

山本搭乗機を撃墜した奇襲隊長ミッチェル少佐以下隊員たちは、4月25日に特別機で本国に帰還した。その時から、長官機撃墜に関しては、厳重なかん口令が命じられた。

日本が山本長官戦死を公表

日本の公表後、米国でも公表される

ただし、日本が長官戦死を公表してからは、米国では奇襲隊全員が1階級特進し、ミッチェルは殊勲飛行十字章を、部下全員は海軍十字章を受章し、聞などで大々的にとりあげられた。

日本軍は長官戦死を機密扱いしつつも国葬は画策

日本側は「海軍甲事件」と称して、山本長官戦死を機密扱いとしたが、海軍大臣嶋田繁太郎大将から、昭和天皇には上奏されている。
このとき、山本を国葬として遇したいと嶋田が言上したが、昭和天皇は「国葬とする理由はなにか」と問い、嶋田は答えられなかったという。

当時の国葬は皇族・華族までとされていた

というのも、当時の慣例として国葬は皇族、華族以外は許されなかったからだ。
いかに海軍大将連合艦隊司令長官といえども、身分は平民。
戦前の身分制度の中では、抵抗感があったのである。

山本五十六の国葬が行われる

山本長官戦死と連合艦隊司令長官に古賀峯一大将が親補されたことは、約1ヵ月伏せられたのち5月11日に公表され、格別なる勲功があることから昭和天皇も納得の上で、山本五十六の国葬も行われた。


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