ダンピール海峡の悲劇

ダンピール海峡の悲劇(ビスマルク海海戦)

一か八かの輸送作戦で輸送船団が壊滅

昭和18年(1943)2月28日〜3月3日

ダンピール海峡の悲劇(ビスマルク海海戦)は、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で起こった日本軍とアメリカ&オーストラリア軍による海戦。航空部隊の攻撃をうけて日本軍輸送船団が壊滅、4000人が戦死する悲劇となった。 その、日本側の悲劇的な敗北から「ダンピール海峡の悲劇」と呼称された。

目次

ニューギニア島をめぐる攻防

米豪が日本のニューギニア占領を阻む

昭和17年(1942)夏から始まったガダルカナル島の占領作戦に続いて、アメリカ及びオーストラリア軍は、ソロモン海に浮かぶニューギニア島の全面的な確保に乗り出した。
島といっても、ニューギニア島の面積は日本の約2倍と極めて大きい。地理的には、太平洋の南洋諸島とオーストラリアを隔てる位置にある。

要衝の港湾都市ポートモレスビー

とくに南部の港湾都市ポートモレスビーは、日本軍の南下を阻止する基地群の中核であり、ここに米豪軍は巨大な防御陣地と大規模な航空部隊を置いていた。
当然、日本側としては無視することはできず、まず昭和17年の春、陸側からポートモレスビーの占領を目指すが、これは完全に失敗した。

八十一号作戦〜強力な増援部隊を派遣

陸海軍が協力したニューギニア増援輸送作戦

しかし日本は、その後もニューギニアにはかなりの兵力からなる陸軍を送り込み、連合軍と対峙していた。
これを支援する目的で、翌年18年(1943)3月初旬、日本軍は歩兵第51師団を中心とする強力な増援部隊を派遣する準備を整えた。
これは「八十一号作戦」と呼ばれた。

8隻の輸送船を8隻の駆逐艦が護衛

人員7000人、車両40台、火砲40門、物資2500トンが8隻の輸送船に搭載され、これを同数、つまり8隻の駆逐艦が護衛する。
さらに米豪軍の航空部隊の阻止攻撃が予想されるため、船団を守る航空部隊も充分配備された。

海軍40機、陸軍20機の戦闘機も防衛に参加

日本軍としては珍しいことで陸海軍が協力し、海軍の戦闘機40機、陸軍の20機が上空掩護を担当する。
つまり零戦、隼の共同作戦であった。
船団の目的地は、日本軍の手中にあるニューギニア中部のラエ基地であった。

日本軍輸送船団がダンピール海峡へ

昭和18年(1943)2月28日、船団は大基地ラバウルを出港、ニューブリテン島の北方海域を通過し、島の西端であるグロスター岬で針路を南にとり、ダンピール海峡を進んでいく。

さっそく豪軍航空部隊の攻撃が始まる

同時に、ポートモレスビーから飛来した米豪軍航空部隊の猛烈な攻撃が開始された。
まず大型爆撃機B17が高空から爆撃、これに対して護衛の戦闘機は、船団を離れて追撃する。
この行動が日本側の最初の失敗であった。

航空部隊の攻撃で輸送船団が壊滅

中型爆撃機100機以上が船団を攻撃

船団の上空に大きな隙間が出来てしまい、ここを狙って100機以上の中型爆撃機が船団を攻撃した。
この際、爆撃隊は爆弾を船の側面数百メートルに投下し、それが海面で跳ねて命中するという新戦術スキップボミングを採用している。これが実戦で使われたのは初めてであった。

輸送船8隻すべて沈没

この攻撃は二日連続で行われ、効果は凄まじかった。
輸送船8隻はすべて沈没、護衛の駆逐艦も4隻が海面から消えていった。

米豪軍の損失は航空機5機のみ

これだけの戦果を挙げた米豪軍の航空機の損失は、わずか5機にすぎなかった。
一方、日本軍の戦闘機も同じ数が失われている。

日本側の戦死者4000人

のちに兵員約1500人は駆逐艦に救助されているが、他の兵員、物資はすべて水没し、同時にニューギニアにおける戦局の行方は一方的にならざるを得なかった。(日本側の戦死者は約4000人、米豪側は20人)

海面漂う日本兵を銃撃した連合軍航空機

なお、連合軍の航空機は、沈没した輸送船から脱出し、海面を漂う日本兵を銃撃するという、非人道的な行為を行っている。

ビスマルク海海戦の敗因とは

航空部隊が船団護衛の経験を持っていなかった

この戦いは、のちに“ダンピール海峡の悲劇”として広く知られている。
失敗の最大の原因は、日本軍の航空部隊が船団護衛という任務の経験を全く持っていなかったことであろう。この際、重要なことは、敵機の撃墜ではなく、船団の安全であるのは言うまでもない。
ここに日本軍の戦術思想の欠陥が、如実に現れたのであった。

以降、日本の航空部隊の弱体化が顕著に

最大の航空攻勢「い」号作戦

昭和18年(1943)4月7〜14日の8日間、日本海軍航空部隊は山本五十六司令長官の指揮のもと、ニューギニア方面の米軍に対して大規模な攻撃を実施するが、これは「い」号作戦と呼ばれる行動であった。
空母艦載機と基地航空部隊が協力し、参加機数は実に390機であった。これはまさに真珠湾攻撃に匹敵する。
また「い」号作戦は3つの目標に対して行われ、出撃数は延べ680回を超えている。
しかしながら、その戦果は駆逐艦1隻、輸送船4隻撃沈、航空機18機撃墜と、作戦の規模と参加機の多さの割には大きくなかった。しかも日本側の損害は43機であり、航空部隊の弱体化が明らかになってしまったのであった。
アメリカ側は、この攻撃自体を特別なものとは認識していないままだったのである。


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