天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変により織田信長が家臣・明智光秀に殺害された。
徳川家康は“信長の死”の報に取り乱し、「自刃する」と主張するが、本多忠勝ら家臣に説得されて帰国を決意、伊賀を越え、三河へ帰還した。
服部半蔵、茶屋四郎次郎の働きで命拾いした家康の“その時”をみてみる。
天正10年6月2日の早朝に起きた本能寺の変は、家康に死をも覚悟させるほどの苦難をもたらす事になった。
そのとき家康も、織田信長から京都見物を勧められ、畿内に滞在していたからである。
ことの発端は、この年の3月に行われた甲斐攻めに遡る。
家康に寝返った武田氏の一族の穴山梅雪は、信長から一命を助けられた。
その為、家康は梅雪を伴って安土城の信長の下に赴いたのである。
家康・梅雪一行の安土到着は5月15日の事だった。
そのとき、明智光秀がその接待役を命じられた事はよく知られている。
安土滞在中に、信長から京および堺見物を勧められたのであろう。
21日、家康と梅雪は、信長の家臣・長谷川秀一の案内で京都に入っている。
そして28日まで京都に滞在し、京都遊覧を楽しんだ。
その後、29日には、和泉の堺に向かった。
当時の堺は、国際貿易港として繁栄していた日本有数の都市であり、信長にも遊覧を進められていたらしい。
因みに信長自身はこの日、京都の本能寺に宿泊している。
翌6月1日、家康と梅雪は堺に滞在し、堺の豪商・今井宗久と津田宗及の茶会に招かれた。
明けて2日の早朝、家康と梅雪は堺を出立して京都に向かったのだが、ちょうど河内の枚方まで来たところで「本能寺の変の報せ」を受け取っている。
情報を知らせたのは茶屋四郎次郎であったという。
茶屋四郎次郎は京都の豪商で、代々、四郎次郎を通称としている。
この時の当主は茶屋清延であった。
信長の死を知った家康と梅雪は、その後の取るべき行動を考える。
この時代、合戦に負けた側は、勝った側に追討されるだけでなく、落ち武者狩りで殺害される事もよくあったからである。
明智光秀が1万3千という大軍を擁していた事を家康も知っていただろう。
京都周辺はもちろん、東海道や中山道など、東へ通ずる主要幹線が明智の軍勢によって掌握されてしまえば、生きて本国に戻る事が出来る保証などなかった。
家康は結局、主要幹線を避け、伊賀越えの間道を通る事に決めた。
落ち武者狩りから家康を守る為に活躍したのが、服部半蔵ら伊賀の土豪であった。
それとともに豪商の茶屋四郎次郎は、家康一行の先を行き、村々の主だった者に銀子(銀貨のこと)を五枚とか十枚ずつ握らせ、落ち武者狩りを未然に防いだという。
茶屋四郎次郎が銀子を配ったというのは、イエズス会の宣教師も記録している事なので、事実であったと考えられる。
伊賀の丸柱・柘植を経て3日に伊勢の白子に出た家康は、そこから船に乗り、4日朝、三河の大湊に着く。
こうして、居城の岡崎城に無事帰還する事が出来たのである。
この逃避行は、後に『神君伊賀越え』と呼ばれる様になった。
岡崎城で軍備を整えた家康は、14日、出陣して畿内に向かった。
しかし、尾張の鳴海に付いたところで“秀吉からの使者”に光秀の敗死を聞いたという。
そのため21日、鳴海から浜松に戻ったのであった。
家康は、服部半蔵や茶屋四郎次郎のお陰で命拾いしたといえる。
それは、家康とは別行動を取った穴山梅雪が、宇治で“落ち武者狩りの襲撃”を受け、殺されてしまった事をみれば明らかだ。(切腹とも云われる)
後に家康は、服部半蔵らを伊賀者としてまとめ、諜報活動に重用した。
また、茶屋四郎次郎に対しては、幕府御用達の呉服師とする事で、その恩に報いている。
伊勢国からの船を手配した角屋七郎次郎秀持は、以後廻船自由の特権を与えられた。
家康に随行していた供廻は、以下の僅か34名。
家康本人、徳川四天王など徳川家の重鎮が揃っており、襲われていたら徳川家への大打撃は必至であった。