戦国武将の日常生活

戦国武将の日常生活〜衣・食・嗜など

戦ばかりというイメージのある戦国武将たちだが、彼らも平時は普通の人とさして変わらない日常や家庭生活をおくっていた。残された日記や家訓、手紙などから当時の日常生活がみえてくる。意外に質素で鍛錬に励んだ、武将の一日とは。食事、衣服、髪形、婚姻、教養、娯楽まで簡単にまとめる。

目次

北条早雲〜武家の暮らし

北条早雲が家臣に伝えた【日常の心得】

早寝早起き、時間も水もムダ遣いをせず

まず、当時とくに模範とされたのは早寝早起きだ。夜は8時前後(戌の刻)までに寝て、朝は4時前後(寅の刻)には起き、時間を有効に使う。
厠から厩、庭と門外までよく見まわり、最初に掃除する場所を適切な者に言いつける。
その後、水を無駄にせず、手早く手水で顔を洗い神仏を拝む。

怒鳴らず、静かに、気を緩めず

大声を出さない。当日の用事を妻子や家来に申し付けて出仕する。
「主人が遅く起きてはご奉仕もできず、1日が無駄になる。家来も気を緩めることになる」と早雲は家臣に戒めた。

日の出までに出仕(遠方の者は大変)

当時、城や役所の始まりは日の出だから、それまでに出仕しなければならない。
夏の日の出は大体4時頃。遅刻は怠惰とみなされたのだから、遠方の者は大変だった。

日が出ている間は必ず働く(冬は慌ただしい日々)

日の入り時間は19時頃だから、明るい時間は夏が約15時間、冬は9時間半とずいぶん差があった。
冬は、15時間の作業を9時間半で終わらせるため一日が慌ただしかった。

身支度は見栄を張らず、見苦しくもせず

武士は身支度も大変だった。刀や衣裳は無理せず、立派なものでなくても見苦しくなければ十分だが、常に身だしなみは整えておくべきとされた。
「たとえ出仕しない日でも、少しの用事があれば人前に出るものだ。客人が来てから狼狽えるようでは見苦しい」

家内安全は自ら行い、夜盗に用心

仕事は午後2時頃に終わるが、帰宅後も気を抜けない。
下男下女の報告で済ませず、自分で厩から家の裏まで見て回り点検する。
夜6時には閉門。火の用心は何度もかたく申し付け、台所や茶の間も自分の目で見る。
夜、早く休むのは灯油の節約と夜盗に備えるためだ。

早雲以外の武将も同じことを家臣に守らせていた

「夜盗は子丑(深夜11時から3時)に訪れるものだから、この時刻に寝入ると対処できない。家の存亡だけでなく外聞も悪い」と防犯対策や火の用心を繰り返し述べた。
加藤清正の『掟書』や、藤堂高虎の『遺書録』にも、やはり早寝早起きや武術の鍛錬、日常の心得の大切さなど大体同じことが家臣に言い聞かせるように記してある。
平時でも怠りなく過ごすことが治国の第一歩であった。

北条早雲と家臣たちの一日

後北条氏の祖・北条早雲(伊勢宗瑞)が残した資料より、彼と彼の家臣たちの一日の過ごし方をまとめる。

北条早雲(伊勢宗瑞)とは

後北条氏の初代。延徳3年(1491)に伊豆国を収め、小田原城を制圧し、その後、相模国を従え、北条氏発展の元となった戦国武将。88歳まで長生きし、倹約家としても有名で、細かい家訓を残した。

4時頃:早起き
夜は早く寝て、4時頃には起きる。起床後、洗顔の前に(便所)や馬小屋、さらに庭や門外の見回りを行い、掃除すべきところなどを家来に指示。洗顔では水を無駄遣いしない。
6時頃:出仕
出仕しても、いきなり主君の前に出てはならない。まず次の間に控えて同僚の様子を観察。身だしなみに注意。服装は立派である必要はなく、質素で構わない。その後、主君に御目通りする。
8〜9時頃:持参した弁当で朝食
勤務時間内は、時間を無駄にしない。朝食は、勤務の合間を見て持参した弁当を食べる。主君からの命令がない時は、読書や剣術、乗馬などの稽古に励む。さらに時間があれば、歌道を学ぶ。
14時頃:仕事が終了
8時間の勤務が終了したら、速やかに帰宅。仕事仲間も大切にしつつ、プライベートでは学問の友人など、良い友をつくる。趣味は持たなくてもいい、悪友となる遊び友達は必要ない。
16〜17時半頃:夕食
下働きの者は、家のことなど構わず、その場しのぎで無責任者が多い。帰宅したら家の周囲は自身で点検し、必要に応じて修繕などの指示を出す。夕食は、18時の閉門前には済ませる。
18時頃:閉門・火の用心
18時頃には門を閉じ、人が出入りする時だけ開閉する。遅くまで門を開けていると、必ず災難が降りかかる。台所などの火の元の確認も人任せにせず、自身で見て回り、下働きに指示を出す。
20時頃:早寝
無駄な夜更かしはせず、20時頃までに寝る。主人が朝寝坊すると、家来や下働きの気が緩んでしまう。そうなると朝の支度も遅れ、公務に遅れてしまい、主君の信頼を失うことになる。

武将たちの武芸の鍛錬

武士には【武芸】と【鍛錬】が第一

元来、朝廷の護衛役から始まった武士という存在。先の『早雲寺殿廿一箇条』にも「勤務の合間に乗馬の稽古をすべし」「文を左、武を右にするのは古来からの決まりで記すに及ばぬ」とある。彼らに必要とされたものといえば、まず一にも二にも武芸だった。

「武芸四門」と「六芸」

とくに必須だったのが「武芸四門」すなわち馬・弓・刀・鉄砲。
これに槍と柔術を加えて「六芸」ともいわれた。(「武芸四門」と「六芸」)

鉄砲
足利義輝の治世のころ、砲術の射撃法が津田監物算長により秘伝書として記され、その後稲冨一夢も研究を重ね数十巻の砲術書を残し、それぞれ流派を成した。
刀術
刀術(剣術)は、武士たるものの基本とされた。戦国期には一刀流、陰流、霞流など多くの流派が誕生した。
弓術
鉄砲より速射が可能。放物線を描くように射れば、頭上から敵を攻撃することができた。そのため鉄砲が普及しても、犬追物など弓の鍛錬が行われていた。
馬術
馬術は、河川や海浜を渡る水練などと、馬と騎手が一体となった稽古が欠かせなかった。馬上で槍や弓、刀を用いるのは技術が必要で鍛錬が必須だった。

弓馬は上級武士の証、礼儀作法も同時に学ぶ

弓馬は技能を上達させるだけでなく、武士が身に付けるべき作法や所作が求められた。
たとえば小笠原流馬術では身分が上の者に下馬して拝礼するなど、兵を指揮するのに必要とされた振る舞いが教え込まれた。
弓術では矢をつがえてから放つまで、背筋を一直線に保つのが理想的な動作である。
そもそも弓馬は槍術や剣術より費用がかかるため、上級武士の証でもあった。

【実戦的な鍛錬】を求めた織田信長

織田信長は弓を市川大介、兵法(剣術)を平田三位、鉄砲を橋本一巴に習ったと伝わる。馬術については決まった師を持たなかった。
当時、小笠原流が礼法としての性質が強かったためとみられ、より実践的な鍛錬を求めたのであろう。

長宗我部元親〜初陣にて槍を使いこなす

槍(鑓)については長宗我部元親の逸話が知られる。
初陣を前に家臣から「敵の目を狙って突かれよ」と指導されたというもので、教えどおりに槍を使い、見事に2人の武者を討ち取ったという。

足利義輝〜剣豪将軍とされるも最期は敗北

屋外の戦場と違い、狭く天井も低い屋内での戦いで必要とされたのが刀剣であった。
剣聖と称された塚原卜伝に師事した足利義輝は御所でみずから刀を振るい、壮絶な最期を遂げたとされる。

柔術・格闘の鍛錬も積んでいた

日常の鍛錬としては木刀が好まれ、素振りや組討ちも盛んだった。
戦場での素手や小刀での組討ちともなれば、やはり柔術が求められた。
相手を組み伏せて首を取るという、ルール無用の格闘では日頃の鍛錬がよりものをいった。

戦国武将の食事について

1日2食、飯量は1日5合ほど

武将は家臣と食事を共にする

食事は1日2食が基本だったが、飯の量が多く1日5合程度食べた。当時記された『永禄日記』には、1日3食の記述がみられる。戦国武将は家臣と食事を共にするが、家族と食事することはなかったようだ。

大名と家臣の献立内容

主食
大名は白米だが、家臣は玄米に麦などを混ぜた雑穀を食した。
副食
里芋などの煮物や豆腐、さらに地域によって納豆も出された。大名は雉なども食したが、家臣は干物や焼き魚などをよく食べた。
汁物
大名は味噌汁。しかし家臣は、栄養はあるが、まずい糠味噌汁を飲んでいた。

米以外の主食となる「飯」

「飯」といえば色んな穀物

現代と違い、戦国時代の人々は米以外にも様々な穀物(麦・粟・稗・黍など)を主食として摂っていた。現代で飯といえば米だが、当時はこれら穀物を飯と称した。

大豆・小豆などが「飯」の代わりになることも

また動物性タンパク質よりも安定して採れる大豆・小豆などの植物性タンパク質も多く摂られ、これが飯の代わりになることもあった。

豆腐・蕎麦・素麺などの精進料理も

鎌倉仏教の影響から、豆腐料理や蕎麦・素麺などを使った精進料理が普及し、工夫と改良が進んだのも戦国期の特色といえる。

今と少し違った飯の炊き方、強飯と姫飯・堅粥

飯の調理法は、コシキで蒸した強飯、釜に入れて煮た姫飯・堅粥の2種。 強飯は粘りのないもので現在の「おこわ」、姫飯は現在の「ごはん」である。

湯漬け〜食べ方にも作法あり

酒宴ののちは、よく湯漬けも食された。『貞丈雑記』に「まず飯に湯をかけて口にし、次に香の物を口にし、本膳には汁を置かない」とある。 湯は飯を食べているときには啜らず、飯を食べ終わった後に残った湯を飲むなど食べ方の作法もあった。

戦場でも米飯が重宝した

『雑兵物語』には「兵1日6合の米、10人で1日塩1合と味噌2合が支給された」とあるとおり、戦場では煮炊きが楽な米飯が重宝され、戦国末期にはそれがかなり普及していたようである。

あらゆる【山海の幸】も栄養源

動物性タンパク質に魚貝類

副食については、動物性タンパク質は魚貝類が圧倒的に多かった。干魚、のし鮑、のしイカが多い。 北条家から沼田城へ送られた食物に「蜜柑、干海鼠、干物」というリストがある(『上杉家文書』)。他に鯛やタコなどの名前も出てくる。

鷹、狸、猪、カワウソ、熊までも調理して食べていた

動物では鳥類(鴨・鶉・雉・鷹・鶴・雁)が多く、そのほかに鹿・狸・猪・兎・カワウソ・熊などの調理法が『料理物語』に見える。 野菜はゴボウやダイコンなどの根菜類、ゼンマイなどの山菜。間食として葡萄や桃などの果物が食された。

戦国武将の食事にまつわる逸話

上杉謙信
酒好きで梅干しを肴に飲んだという。日頃は質素だが出陣前は将兵に大量の飯と山海の幸を豪勢に振る舞った(かちどき飯)。
織田信長
「うつけ」と呼ばれた頃は餅や柿、瓜などをかじりながら町を歩いていた。田舎風の濃い味付けを好んだとも伝わる。
明智光秀
京の人々から粽を献上されたが、光秀は笹の葉の包みも剥かずに粽を口に入れた。信長を討ったことで動揺していたのか。
豊臣秀吉
出世後も地元・尾張中村の大根やゴボウを望んだ。胃腸に優しい割粥(米を細かく砕いて煮たもの)も好んだ。
徳川家康
地元・岡崎城に近い八丁村で作られた八丁味噌が好物だった。あまり美食をとらず、麦飯を好んだという。
加藤清正
「食は黒飯たるべし」と家中に触れを出している。熊本城の畳の芯に芋の茎を使ったのは籠城戦への備えともいう。
石田三成
幼少期、鷹狩の途中に立ち寄った秀吉に振る舞った3杯の茶の逸話で有名。細川忠興に干し柿を持参した逸話もある。
伊達政宗
城下町で味噌(仙台味噌)を作り、千飯倉も設けている。娘に鮎ずしを送った書状も残されている。

米と味噌が兵糧として重要で、現在も続く名産となっているものが多い。また甘い物は貴重で糖分は主に果物から摂取していた。

武将の服装と髪型

実用性重視の小袖が好まれた

源頼朝は最高位の衣服を着用した

武士が政権を握った頃の正装は、神護寺所蔵の「伝・源頼朝像」で有名な袍(ほう)をまとった束帯姿(そくたい)だった。
これは朝廷で儀式のときに着用するもので武家最高の礼服。現代の天皇が儀式のときに着用するためテレビなどで観ることがある。

鎌倉後期、武家の衣服が簡略化する

だが時代が下り、鎌倉時代後期以降から大きく変化が生じた。それまでは庶民が着るものとされた直垂(ひたたれ)が武家の正装となり、それに武家をあらわす家紋や旗印などを大きく入れたものが、直垂と区別して大紋と呼ぶようになる。

室町期、実用性重視の小袖が好まれる

室町時代は、小袖が一般化した。それまでの礼装だった直垂や素襖(すおう)などは儀礼用の限定的な服となり、公服は小袖の上に肩衣(かたぎぬ)と袴を身に着けるという、さらに簡略化された服装が主流となっていく。
これを身に着けた肖像画としておなじみなのが緑色の肩衣をまとう織田信長像である。
小袖はもともと公家が直垂の下に下着として着用していたものだった。

小袖は庶民も武家も公家も好んで着用した

その一方で、庶民は小袖を上着として日常的に着用した。
やはり実用性が高いために公家社会でも上着として小袖が着られるようになり、武家でも正装として通用するようになった。
ただし、小袖は肩衣と合わせると表面に出るため、武家用のものには装飾が施されてはいた。

袖はない方が好んで着られた

肩衣は袖を取り払った上衣のことで、邪魔な袖がないことから好まれた。甲冑の上にまとう陣羽織と同じ理屈であった。
この肩衣と袴の上下を同じ布から作った服装が正式となり、やがて江戸時代になると正装としておなじみの「裃(かみしも)」(紋付)に変わっていく。

武将の髪型〜かぶり物にあわせていた

髷〜髪の毛を後ろで結ぶオールバック

武将の髪型で特徴的な髷(まげ)は、冠や烏帽子(えぼし)を着用する際、巾子に髪をまとめて入れたところから始まる。
当初は総髪と呼ばれる、髪全体を束ねて後方に結んだポニーテールのような髪型で、兜をかぶるときは髷を解いていた。

月代〜頭部の髪を剃ってしまう

もう一つ、武将の髪型といえば、頭頂の髪を抜いた月代(さかやき)が知られる。
月代にする理由としては、「兜を被ると頭が蒸れるから」「合戦のときに頭に血が上るから」などとされ、宣教師ルイス・フロイスも「合戦時、武士が頭を血だらけにしている」と記しているほど。
その後、月代は次第に【抜く】から【剃る】剃るに変わっていく。

武将の教養や娯楽

茶道 鷹狩 和歌 能、嗜みに学ぶ

ひと口に娯楽といっても、それは大名にとってのステータスであり、外交や人心掌握の手段にもなり得る複合的な要素を持っていた。優れた武将にとって、娯楽とは教養を身に付ける絶好の場だったのだ。

娯楽のなかから教養を学んだ武将たち

北条早雲は『早雲寺殿廿一箇条』で「歌道を学ぶこと。歌の心得のない人は品がない」「少しでも暇があれば、本を読むこと。読み書きの練習をせよ」と説いている。
日常生活において、武士たちは娯楽に興じながらも、さまざまな嗜みにも通じていなくてはならなかった。
それは戦国を生きる上での基本要素であり、必要とされる教養でもあった。

教養がなければ公家・僧と話が合わなかった

明智光秀が本能寺の変を起こす前に、愛宕山で催された連歌会に参加したことはよく知られている。
公家や僧などの教養人が集う場であり、そうした場にふさわしい歌が詠めなくてはならない。
家中における和歌や連歌の会はまた、当主と家臣の関係を深める重要な機会でもあった。 酒宴や茶会も同様であった。

茶の湯〜嗜まなかった武将はいなかったほど

茶の湯は室町文化を代表するものとして知られる。
名も無き山城や、辺境にある城址を含む、全国に残る城館遺構の発掘調査では、5割から7割ほどの確率で当時用いられていた茶碗が出土する。その年代を調べると、茶人の武野紹鴎や千利休が出現する以前、16世紀初めごろから、地方でも喫茶、茶の湯の習慣があったことを物語るかのようである。

妙喜庵待庵〜現存する千利休の茶室

京都の山崎に残る妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)は、千利休がつくったもので唯一の現存茶室である。
茶室は二畳で、一畳分は点前のための座。もう一畳が客座だ。室内の明かりは窓が頼りで、入り口は躙口(にじりぐち)といわれ、身をかがめて入る。刀はつかえて邪魔になるため、立てかけねばならない。膝を突き合わせるような距離に丸腰で座る。
この計算され尽した狭い造りが茶の湯の場であった。

信長もハマり、秀吉もマネた茶道と茶道具

織田信長は茶道具を蒐集(しゅうしゅう)し、集めたそれらを家臣に褒美として与えた。
これが茶の湯ブームを引き起こす。永禄11年(1568)、上洛した信長の前に「九十九茄子(つくもなす)」を手土産に持ち、臣従してきたのが松永久秀であった。
家臣の滝川一益が武田氏の旧領よりも「珠光小茄子(じゅこうこなす)」の茶器を欲したという逸話もあるほどだ。
豊臣秀吉が茶の湯に興じたのも、信長の影響によるところが大きいのであろう。

相撲に囲碁・将棋、多趣味だった信長

多趣味な信長は若い頃から相撲が大好きであった。『信長公記』によると、安土城内で再三にわたり相撲大会を開催。優秀な力士には知行100石を与えるなど上機嫌であった。
また囲碁・将棋も好んだ。本能寺の変が起きる数時間前まで、信長は本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)と鹿塩利賢(かしおりげん)との対局を観て、それから床に入ったのである。

鷹狩〜鷹を飼い慣らし獲物を狩らせる

信長・秀吉・家康がそろって興じたのが鷹狩であった。鷹を飼いならし、山野に放って野鳥を捕獲させるというものだ。信長には全国の大名が競うようにして鷹を献上してきた。
鷹狩は広い範囲で行うため、今でいうスポーツ的な要素があり、とくに家康は健康法として最晩年まで行っていた。

和歌・連歌
和歌に親しんだり、連歌会などに招かれた場合でも恥をかかぬよう、読書や手習いなど、日常的に教養を高める努力が求められた。連歌は人の歌を受けて詠むため、解釈力など相当の技量が必要だった。
茶道
和歌や連歌と同様に、茶の湯の指導・習得には相応の金銭を必要とした。経済力や地位がものをいった娯楽で、名器を所有することは、そのまま権威の象徴ともなった。
織田信長が桶狭間の戦い直前に「幸若舞(こうわかまい)」を披露したように、名手の演目を見る以外に自身で嗜む者も少なくなかった。秀吉も自ら舞い、手厚く能役者を保護し、家康も愛好した。

↑ページTOPへ