第一次世界大戦敗戦の後、ヒトラーはミュンヘンに戻る。
そこでヒトラーはドイツ労働者党に参加、政治の道へ進み、演説の才能を開花させる。
当時のドイツは第一次世界大戦敗戦を受け、戦争責任と多額の賠償金によって困窮を極めており、ヒトラーをはじめ、ドイツ国民らは中央政府(ヴァイマル共和国政府)に対して大きな不満を抱えていた。
やがてヒトラーは、無力な中央政府と対立しミュンヘン一揆をおこすも失敗。収監先のランツベルク刑務所のなかでヒトラーは『わが闘争』を執筆した。
ウィーン時代からずっと、ヒトラーは「マーラー(絵描き)」ないし「クンストマーラー(正真正銘の画家、アーティスト)」と名乗っていた。
しかし、党への申告の職業欄に「カウフマン(自営販売業)」と記入しているが、これには意味があった。
バイエルン国防軍部隊コマンド4からも、「カウフマンのヒトラー氏は、今後は党専属の宣伝演説家になる」とみなされていた。
入党後も保持していた軍籍を1920年3月に離脱するまで、ヒトラに対しては軍費も支払われていた。
やがて党に対するヒトラーの「より大規模な集会を開くことにより党員数を増やす」という提案があたり、同1920年11月半ばのビヤホール演説会では、130名の聴衆を集めることに成功。
彼が人を集める(寄付金の多寡が党財政を左右した)ことで、党内における彼の権力ポジションが跳ね上がったことは間違いない。
ヒトラーの演説セールスのポイントは「連合国によるヴェルサイユ強制講和が、なによりドイツへの戦争責任の一方的おしつけと戦争犯罪断罪にある」と聴衆にハッキリと言い聞かせた事にあった。
1920年2月24日、ミュンヘン「ホーフブロイハウス」の大ホールで約2000名の聴衆を集めた党の記念すべき大集会が催された。
このとき、国民社会主義ドイツ労働者党という新党名(ナチ党:チス)が披露され、同時にナチ党綱領25カ条が公表された。
二つの重要発表をヒトラー自身が行い、大集会の組織者としても決定的役割を果たしている。
ヒトラーの演説は、戦争敗北と革命のカタストロフィーよって動揺し、昂進するハイパーインフレによる経済的窮乏の中で絶望感にとらわれた大衆にとって、希望の光に見えていた。
「『ドイツは背後からのひと突きで負けた」という、イギリスの一将軍の言葉は正しい。ドイツの敗北について、前線で善戦を続けた軍に責任はない。他の誰に責任があるかは明白だ」。これは、ベルリンでの敗戦原因調査委員会に証人喚問を受けたヒンデンブルク元帥の典拠も裏付けもない無責任な「証言」だった。
大戦初期の対ロシア戦タンネンベルク戦役大勝利の英雄による、この「銃後」後方社会への敗戦の責任転嫁は「背後のひと突き」伝説として、現在では悪名高い陰謀論の典型に位置づけられている。
当時ヒトラーは、このデマによる“民主主義破壊への致命的効果”を、けっして見逃していなかった。
反革命派、反動派、君主主義者、分離主義者たちで沸きかえったミュンヘンにおいて彼の演説はすでに軍事的秩序保護者たちの関心も集めていた。
1920年3月、ヴェルサイユ条約に反する義勇軍の解散をめぐり起こった、反共和国勢力による一大クーデタ(カップ一揆)は、4日天下で失敗に終わった。
しかし、バイエルンでは右翼保守派政治家のフォン・カールが政権を握る一方、マイア大尉から「民族至上主義陣営の(下からの)原動力・推進力として第一級の演説家になった」と評されたヒトラーは、翌年夏、ナチ党から独裁権を与えられ党の「総統」(フューラー)に就任する。
ヒトラーは、ムッソリーニ率いるファシズム運動が権力掌握に成功したのを範とし、ドイツが包括的危機に瀕した1923年11月、これ以上の好機なしと判断したという。
革命5周年を記念するバイエルン政府主催晩会場となっていたミュンヘンの大ビヤホール「ビュルガーブロイケラー」に配下の突撃隊を引き連れて乗り込み「国民革命」を宣言。
自らを首班とする新中央政府の結成を告げた。
すでに、無力な中央政府との対決姿勢は鮮明にしながら、ヒトラーに出し抜かれたとの感を拭えなかったカールたちは、決起を促されても面従腹背、ひそかに会場を脱し一晩で態勢を挽回し翌朝にはヒトラーを完全に孤立化させた。
事態打開をはかるナチ党のミュンヘン市内武装デモも16人の犠牲者を出して鎮圧され、ヒトラーの企図は粉砕された。
反逆罪で、裁判の結果5年の禁固刑になり、1年1ヵ月収監される筈であったが、実際には半年ほどで仮釈放された。所内では秘書としてルドルフ・ヘスが隣室に常駐し、面会も自由であった。
自由な収監所での暮らしのなか、彼が物した自省・政治考察録が『わが闘争』であった。