「眠れる獅子」と恐れられた中国・清朝は、日清戦争での敗北で、その弱体した姿を曝け出した。
列強による中国分割が進み、同時に日露間の緊張も高まっていった。
ロシアの中国進出が後に日露戦争の開戦へと繋がる事になる。
>> 満州・韓国を巡る日露の動き年表
日清戦争で、日本の様な島国に対する清の敗北は、その弱体ぶりを世界に晒す事になった。
それまで清に手をこまねいていた欧米列強は、我先にと大陸に進出した。
日本への賠償金などで首の回らない清に、列強は大金を貸し付け、その代償として各地を租借した他、鉄道や鉱山などの利権を手に入れた。
1899年、列強の進出に対し、清の排外主義団体「義和団」が「扶清滅洋」をスローガンに掲げ蜂起。
翌年、北京の外国公使館を襲う(※義和団の乱)と、列強諸国は連合国を組織して出兵した。
実質的な列強による中国への侵略であった。
日本も連合軍の主力として2万2000の大軍を送り、「極東の憲兵」としての地位を得た。
※義和団の乱とは1900年、武力蜂起した中国民衆が政府の支持を得て、北京の外国公使館を襲撃した事件
一方、日清戦争後の極東地域では、旅順、大連港を租借したロシアが遂に満州の占領にも成功するなど、その南下が急速に進展していった。
こうした事態に対して、伊藤博文らは、ロシアに満州での自由行動を認める代わりに、韓国での日本の優越権を認めさせようという「満韓交換」論(日露協商論)を主張。
山県有朋、小村寿太郎らは、英国と同盟してロシアの南下を抑える日英同盟路線を推進した。
1902年、日本は日英同盟協約に調印する。
これは、同盟国の一方が展開する戦争に第三国が参戦した際には、他方の同盟国も「共同戦闘」に当たるという軍事協定を持つ取り決めだった。
この日英同盟は後に、米国の妨害によって解消となる。
西暦 | 出来事 |
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1895年 | 三国干渉 ロシア・フランス・ドイツ3カ国が武力を背景に、遼東半島の返還を日本に要求。 日本は国力不足から、この要求を飲まざるを得なかった。 |
1896年 | 山形・ロバノフ協定 朝鮮財政の日露共同援助、派兵時の用兵地域などを規定。 |
1898年 | ロシアが旅順・大連を租借、東清鉄道敷設権利を獲得する。 これを受け、日本人の反露感情が高まる。 西・ローゼン協定 日本の朝鮮における優越権、ロシアの旅順・大連租借を認める。 |
1900年 | ロシアが義和団の乱に乗じて満州を軍事占領、清に独占権を認めさせる。 |
1902年 | 日英同盟 |
1903年 | ロシアが韓国の鴨緑江河口に軍事基地建設を開始、日本国内では開戦を望む「主戦論」が高まる。 日露協商 日本が、日本の韓国での優越権、ロシアの満州での権益を相互に認め合う事を提案したが、ロシアが拒絶。 |
1904年 | 日露戦争開戦 |