日本国内の産業の発達を阻害した列強との不平等条約の改正は、対外的な独立達成の為にも、明治政府の悲願であった。
開国から半世紀を費やした条約改正は、坂本龍馬と所縁のある外相の陸奥宗光が実現した。
>> 条約改正までの道のり年表
幕末に江戸幕府が締結した不平等条約の改正(対等条約の実現)は、明治政府にとって最大の外交課題だった。
領事裁判権の撤廃と居留地の廃止による法権の回復、協定関税制の廃止による関税自主権の回復などが試みられた。
政府は、1871年に岩倉使節団を欧米に派遣して条約改正の予備交渉を試みたが、あえなく失敗。
その後、外務卿寺島宗則が米国との交渉を進めたものの、英独の反対にあい再び失敗。
1866年、紀伊半島沖で英国船ノルマントン号が難破し日本人乗客全員が溺死するが、英国人船長が領事裁判で無罪となる。
この事件を機に、条約改正の声は高まった。
その後も、井上馨、大隈重信と2代にわたる外相が改正寸前までこぎ着けたが、いずれも挫折してしまう。
ロシアがシベリア鉄道を起工し、東アジア進出を開始すると、それまで条約改正に難色を示していた英国の姿勢が一転する。
当時、ロシアと対立していた英国は、ロシアが東アジアでの権益を広げる事を危惧しており、日本に好意的に行動する必要があった。
青木周蔵による交渉は大津事件(ロシア皇太子を日本人巡査が襲撃)によって挫折したが、1894年、第二次伊藤博文内閣の外相・陸奥宗光は、遂に日英通商航海条約の締結に成功する。
これによって、法権回復、関税自主権の一部回復などの実現が確実になったのである。
他の欧米諸国とも同様の条約を結び、40年近くにもわたる悲願を達成した。
1911年には、第二次桂太郎内閣の外相・小村寿太郎が日米新通商航海条約締結に成功し、関税自主権の完全回復が実現した。
西暦 | 出来事 |
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1858年 | 安政の五カ国条約、江戸幕府が米英仏蘭露5カ国と修好通商条約を締結。 諸外国の領事裁判権を認め、関税自主権の欠如した不平等条約を結ぶ。 |
1871〜73年 | 岩倉具視(岩倉使節団)右大臣が欧米視察を兼ねて米国と予備交渉を行うが、米国が拒否し失敗する。 |
1873〜79年 | 寺島宗則外務卿が関税自主権回復を目標に米国と交渉し、承諾を得る。 しかし、英独の反対で失敗、批准される施行されず。 |
1879〜87年 | 井上馨外務卿・外相が、欧化政策を進め、各国の代表を東京に集めて、外国人判事の任用などを条件に領事裁判権撤廃などを交渉する。 外国人の日本居住、外国人判事の任用といった条件への政府内外の反対、ノルマントン号事件や極端な欧化政策への国民の反発で交渉中止に。 |
1888〜89年 | 大隈重信外相、各国と個別秘密交渉、条件付きで領事裁判権撤廃を認める改正条約を米独露との間に結ぶ。 しかし、外国人判事の大審院任用という条件が発覚し、国内世論が反発して失敗する。 |
1889〜91年 | 青木周蔵外相、英国に接近し、領事裁判権撤廃の同意を得る。 しかし、大津事件の為、交渉中止。 |
1892〜96年 | 陸奥宗光外相、1894年に日英通商航海条約に調印。 その後、各国とも同様の条約を結び、領事裁判権撤廃と関税自主権の一部回復に成功する。 これによって、独立国家として国際社会に認められた事となる。 条約上、列強諸国と対等の地位を得る事に成功した。 |
1908〜11年 | 小村寿太郎外相、1911年に日米新通商航海条約に調印。 各国とも同様の条約を結び、関税自主権の完全回復に成功した。 |