陸奥宗光

陸奥宗光

陸奥宗光(1844〜1897)は紀州藩出身の政治家(外相・外交官)である。
カミソリ大臣と呼ばれた。
坂本龍馬と知り合い亀山社中に参加し、明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。
第二次伊藤内閣で外相となり、不平等条約の改正(条約改正)で活躍、英国を皮切りに治外法権の撤廃を足し遂げた。
日清戦争後の講和交渉を有利に運んだが、三国干渉に遭い、遼東半島を返還するという譲歩を強いられた。

陸奥宗光

陸奥宗光

明治維新までの陸奥

生い立ち

天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子の六男として生まれる。
歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。
父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。

幕末

安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。
その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、龍馬と行動を供にした。
勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、龍馬は「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と評価した。
龍馬の暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

維新後

投獄

西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。
翌年にこれが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。
獄中で陸奥は自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込み、後にベンサムの『Principles of Morals and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。

欧州留学

明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許されヨーロッパに留学する。
ロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知る事に従事し、近代国家の在り方を学んだ。

緊迫する極東情勢を利用し、条約改正を勝ち取る

陸奥宗光の外交デビューは、1868年に遡る。
岡山藩士のフランス兵への発砲事件を切っ掛けに列強が神戸を占拠したとき(神戸事件)、勅使に同行して各国行使と交渉し、武装解除に成功した。
こうして明治政府の初の外交事件で、その一端を担った陸奥だったが、その後、活躍の場は中々訪れなかった。

メキシコと対等条約

転機は、大隈外交下で駐米公使となり、日本初の対等条約(アジアを除く)をメキシコと締結した事だ。
これは、安政以来の不平等条約を改正へと一歩前進させる出来事だった。

改正交渉に妥協しない

その後、外相となった陸奥は、それまでの改正交渉を「殆ど失敗の歴史」と酷評した。
長く用いられてきた井上馨の半面的改正案を「立憲制度に合わず、国民の期待にも添えない」と、全面的改正へと転換した。

不平等条約改正に尽力

陸奥が改正交渉に成功したのは、世界情勢を積極的に利用し、ロシアの極東進出を牽制したい英国を最初の交渉相手に選択したからだった。
外相として改正交渉をした経験のある青木周蔵を、条約改正全権委員に任命。
青木の理詰めかつ強気な交渉で条約改正を成功させたのを皮切りに、15カ国との改正を成し遂げた。
一方で、現実主義に徹し条件交渉をしやすい治外法権撤廃を優先させ、関税自主権は税率引き上げに留める情勢判断の鋭さも持っていた。

三国交渉で列強の軍事力に屈する

こうして条約改正では成果を上げた陸奥だが、日清戦争後の三国干渉では大きな譲歩を強いられた。
この時の屈辱が、以後の日本を軍備拡張へと向かさせる事となった。


↑ページTOPへ