土偶は縄文時代の草創期に誕生したときはまだ頭部がなかった。最初期の土偶は女性像が多く、乳房などの上半身のみのものが主流であった。
前期に簡素な頭部や手足が造られ、中期に造形が精巧・多様化し、後期に土偶文化は成熟、晩期にはユニークな造形の土偶が造られる。
稲作が始まり弥生時代に入ると、土偶文化は消失するが、その因果関係は分かっていない。
日本列島域における発生期の土偶は、大きな乳房をもつ、直立した女性のトルソーとして出現した。
現在のところ最古段階の土偶で、1万3000年前の縄文時代草創期のものとされる滋賀県相谷熊原遺跡出土の事例では、顔や腕、脚はないが、大きな乳房とくびれた腰、そして下半身があれば、お腹が大きかっただろうというフォルムをもっている。
また、ほぼ同時期の三重県粥見井尻遺跡出土の事例も、顔面表現はないものの、肩から腰までのライン、そして一対の乳房が表現されている。
縄文時代は定住生活が開始された時代であり、草創期はその最初期にあたる。
つまり、定住生活の始まりと共に土偶が出現したことになる。
定住生活が始まり、それが進展すればするほど、そして、それと連動して人口数が増加し、人口密度が上昇してくるほど、移動生活を行っていた時には問題とならなかったような、様々な社会的問題が生じてくる。
例えば食料の問題である。食料のほとんどを自然に依拠していた縄文時代の人々にとって、集落周辺の食料の増減は最大の関心事のひとつであった。
しかしながら、集落周辺にいつも十分な量の食料があるとは限らない。
そこで人々は様々な面から技術改良を行うと共に、「祈る」という優れて観念的な方法で様々な問題の解決を図ろうとしていた。
その際に用いられたのが土偶や石棒といった呪術具だったのではないだろうか。
弥生時代になって土偶が姿を消したのは、稲作の普及で食糧を安定的に得られるようになったから、と考えると辻褄は合う。
定住生活が進展すると、各地における自然環境に適応した地域差が生まれる。
縄文土器の型式が時期・地域によって多様化するのはそのためであり、土偶もまた例外ではなかった。
草創期に女性のトルソーとして出現してきた土偶は、早期になってもその形状を大きくは変えなかったが、定住生活が進展し、地域性が顕在化する中期以降になると、土器型式に対応する形で、各地で多様な土偶の造形が見られるようになる。
例えば関東西部から中部山岳地域における広義の勝坂式土器を出土する地域では「縄文のビーナス」をはじめ、腹部を膨隆させた土偶が多くなるし、後期の関東地方では「山形土偶」や「みみずく土偶」と呼ばれるものが連続的に出現する。
晩期の東北地方には特徴的な目をした遮光器土偶が登場するなど、土偶の時期差・地域差はまさに多様である。
土偶とは、土(粘土)で作られた人形のことである。しかし、土偶という言葉は本来は日本の石器時代(戦前における縄文時代から弥生時代)の土製の人形に対して用いられたものであった。
研究が進んだ現在では、縄文及び弥生時代の、完全な形であれば頭・手足のついた人形の土製品に対して「土偶」の語を用い、それ以降の事例に対しては、「埴輪」を除き、「人形土製品」の語を用いることが多い。
土偶は初期段階から、体の前面に一対の膨らんだ乳房の表現をもち、自立する、あるいは自立せずとも立った状態を前面として見る形で作られており、いわば女性像のトルソー(五体を除いた胴体部分の模型)として出現してくる。
脚部をもち自立するものは基本的に二足で直立し、長野県棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」のごとく、歩行する様を表現したものも存在する。
直立二足歩行は人類の定義でもあることから、土偶の形状は元来ヒトをモチーフとして作られたと考えられる。
また、土偶には他の動物に見られるような尾が存在せず、多くの(2つ以上の)乳房が存在する表現をもつものもない。
そうした点も、土偶本来のモチーフがヒトだったことを傍証する。
さらに、長野県中ッ原遺跡から出土した「仮面の女神」のように、股間に女性器の表現が付加される事例もあることに加え、腹部が膨らみ、妊娠線と思われる文様が施されるなど妊産婦を模したと考えられる事例も多いことから、土偶は基本的には人間の女性をかたどったものと考えられている。
土偶が造られた理由に関しては、正確な事は分かっていない、永久にわからないだろう。
この謎に対して、これまで考古学研究者は多くの考察を行ってきた。例えば、土偶の研究が始まった明治時代前半頃には、玩具説・神像説・装飾説が唱えられており、その後に護符説や祖霊像説などが追加されている。
日本における石器時代研究の初期段階において、すでに土偶は祭祀・呪術に使用される遺物と考えられていた。
大正時代に入ると土偶の事例数も多くなり、そのほとんどが女性像であることが指摘され、安産のお守りという説も出た。 昭和時代には、「大地の地母神像」とする説や特定の性別にとらわれない精霊説、神霊が宿るための依代説など、様々な説が出された。
土偶は通常、遺物包含層や土器などの「捨て場」から、頭や手足、胴体がバラバラの状態で出土する。
また、出土した場所付近で破片同士が接合しないことがほとんどなので、土偶は意図的に壊されたと考える研究者も多い。
この意図的破壊説の根拠として、しばしばハイヌウェレ型神話との類似が指摘されている。
ハイヌウェレ型神話とは、殺された女神の死体から様々な作物が生まれたとする食物起源神話の一つだ。
日本神話においても、『古事記』にはオオゲツヒメ、『日本書紀』にはウケモチノカミという食物の起源に関与し、殺される女神が存在する。
土偶がこの女神殺しの神話に先行するものであり、マメ類などの栽培作物や大地の豊穣を祈るために意図的に破壊され(女神が殺され)、地面に蒔かれたとする説もある。
しかし、土偶の中には、壊れて取れてしまった手足をアスファルトを用いて接着させたものや、埋葬されたような状態のものも見付かっている。
必ずしも、全ての土偶が破壊されるために作られたものではないということ。
これは土偶の用途が必ずしも一つではなく、各時期・地域におけるあり方を注意深く検討する必要があることを示している。
いかにも人形を表現しているように見えるものの、頭部や顔の細かい表現がされていない。三重県と滋賀県で出土した最古級の土偶は、いずれも小形でやや厚みのある板状のもので、頭部と両腕を突起で表現している。また、乳房ははっきりと表現されており、女性の体を表しているのがわかる。
草創期に引き続き手づくねで形を作っているものがほとんどで、いまだ頭部や顔を詳細に表現するには至っていない。早期になると、北海道から九州まで、日本の広い範囲で出土例が見られる。しかし、地域ごとの造形に違いはあまり見られず、おおよそ同じフォルムになっている。
それまでよりもやや大きなサイズで作られるようになり、よりなめらかに仕上げられるようになる。頭部と手足がしっかり作られるようになっていくものの、顔に関してはほぼ表されないか非常に簡素な表現に留まっている段階。三内丸山遺跡出土の板状土偶などが代表的。
この時期に土偶が大きく発展し、各地で多様な造形の土偶が作られるようになった。最大の変化は顔の表現がされるようになったことである。また、乳房と同様にボリュームのある臀部が作られた土偶も多く存在しているほか、女性性を強く感じさせる体の表現がよく見られる。
国宝に指定されている5つの土偶のうち、実に3つが後期に製作されたものである。成熟した文化と豊かな表現力、そして高い技術で、全国各地で多種多様な土偶が作られるようになった。中期からの流れを汲みながらも、それぞれの地域で独特のデザインが見られるようになる。
北海道〜東北地方で多く出土した遮光器土偶のように、作りこまれたユニークな土偶が多数登場するようになる。また、髪を結った姿を模しているとされる結髪土偶や、入れ墨を入れた姿を表しているとされる黥面土偶のように、当時の風俗を表現した土偶も数多く誕生した。
縄文時代後半期、東日本では多くの土偶が作られたが、新たな精神文化を伴う農耕文化の到来とともに、急激に減少した。また、ほぼ同時に土版や石棒などの呪術具も消失し、縄文時代的な精神文化が消えていった。土偶は一部弥生時代にも残存するが、青森県垂柳遺跡出土例には喉仏が存在するなど、その性格が変化したと考えられる。
国立民族学博物館研究報告参考