六国史以後の国史

六国史の以後、国史が消えた理由

奈良時代初期の『日本書紀』に始まり、平安時代初期の『日本三代実録』を最後に終わってしまった国史の編纂。中止の判断が下ったわけではないが、なぜ国史は作られなくなったのか。 7番目の国史編纂の計画もあったが天皇家と朝廷の影響力の低下などの理由から未完のまま終わる。 六国史以後は個人や幕府によって国史が編まれていく。

目次

天皇が実権を奪われる

歴史書(文字)の前は古墳が正史がわり?

巨大古墳の造営から「文字」の時代へ

弥生時代晩期〜古墳時代の日本は、権力者の巨大な「お墓」を競って造っていた。
弥生時代の首長墓とされる墳丘墓に始まり、古墳時代には前方後円墳を中心に、全長200〜500メートル超の王墓とされる古墳が多数造られた。

巨大な古墳が人々に“力の存在”を伝えた

王の絶大な力を示すためには巨大古墳が必要だった。
古墳は王権の統治・政治基盤としても機能し、地方豪族もヤマトに倣った古墳を造ることで、大王を頂点とする古代社会の秩序が形成された。

文字の普及とともに古墳築造は止まる

だが6世紀に入ると古墳は小さくなり、7世紀には前方後円墳は消滅する。
要因としては仏教や火葬の普及、大化の薄葬令などが取り沙汰される。

権力者が「なぜ偉いのか」を文字で説明する時代に

考古学者の松木武彦氏は、『目からウロコ日本古代の新常識!』(中央公論新社)のインタビューの中で興味深い知見を示す。
「6〜7世紀に文字が普及して律令国家への移行が進むと古墳は衰退します。稲荷山(古墳)鉄剣銘も有名ですが、文字が『こういう理由でこの人は偉い』と理屈を述べると、感覚に訴える必要はなくなります。要は人を何で仕切るか、という話ですね。」

5世紀頃から文字(漢字)による統治が始まる

6〜7世紀に歴史の編纂が始まる

日本で漢字が記された現存文献は5世紀からだ。国作りが進む中、漢籍・仏教の理解、法整備、民の把握に文字は必須となり、文字による統治が始まる。
国史の編纂は推古朝から始まり、律令国家の『日本書紀』に結実した。
まさに天皇はどうして偉いのかを内外に示す書である。文字による律令格式と国史は支配の基盤であり、『日本書紀』は六国史の中でも別格の存在といえる。

幻となった7番目の国史

『日本書紀』は重要な学問とされた

『日本書紀』は編纂された当時、どう読まれていたのか。宮中では養老5年(721)から康保2年(965)まで大がかりな講義が7回開催されていることが確認されている。その後も専門知識を持つ家で、読みは継承されている。平安官人には重要な学問だったようだ。

朱雀〜冷泉が国史編纂に取り掛かる(936〜969)

六国史は延喜元年(901)で途切れたが、朝廷は国史編纂を取りやめたのではなかった。
朱雀朝の承平6年(936)から冷泉朝の安和2年(969)までの33年の間、国史の編纂と担当者任命の宣旨が出されていたのである。
時の実力者・藤原実頼が総責任者となったほか、学問の家である大江氏が別当として深くかかわったことが確認できる。

宇多・醍醐・朱雀の三代の紀が、未完成で終わる

この国史は『新国史』というタイトルだが、仮題ともいう。
内容は不明な点が多いが、『続三代実録』と伝えられ、宇多・醍醐・朱雀の三天皇の紀だったことが有力だ。2代40巻、3代50巻の2種があったともいう。
しかし、完成が奏上された記録がまったくないため、「草稿のまま終わった」ということが確定的である。

朝廷の力不足が原因で失敗したという

なぜ完成できなかったのか。これは一つに人材不足が大きかったようだ。
また、「もっと大きな原因は政治の衰顔であろう。財政窮乏による政府事業の縮小、弥縫姑息の無気力の政治といったものが、必然的に律令政治の象徴の一つである国史撰修を挫折させたのである」(坂本太郎『六国史』吉川弘文館)ともいう。

個人が「国史」を編纂した時代

歴史書編纂は朝廷とは別の人々が編んでいく

律令制とともに国史編纂事業は消えた。
しかし当然、天皇・朝廷にかかわる文字が消えたわけではなかった。

編者不詳の国史『日本紀略』

平安末期に成立した歴史書に『日本紀略』がある。
神代から11世紀初頭の68代後一条天皇までの史実を漢文編年体で記した書だ。
編著者は不詳で、伝えられる巻数もまちまちだが、現在は近代に編纂された『国史大系』に収められた34巻を指す。
前半は六国史から抄出したものだが、早良親王廃太子事件など六国史の欠落部分を補うところが多い。
後半は新国史や記録類、貴族・官人の日記から構成されている。
「勅撰」ではない「私撰」の国史であるにせよ、平安時代を知る重要史料である。

『本朝世紀』『扶桑略記』

ほかに平安時代の私撰国史には、平氏政権と深くかかわった信西(藤原通憲)が編纂した『本朝世紀』、比叡山功徳院の僧・皇円が編纂した『扶桑略記』などがある。

公家の日記『百錬抄』、幕府の史書『吾妻鏡』

鎌倉後期成立の『百錬抄』は冷泉朝の安和元年(968)から後深草朝の正元元年(1259)までの公家の日記、諸記録を編集したものだ。
武家方の『吾妻鏡』とともに、朝廷と幕府「二つの王権」が並び立った鎌倉時代を知る重要な書である。

明治から現代まで続く史料編纂事業

天皇の力は衰えつつも神話は語り継がれる

中世は天皇の政治的な力が著しく失墜した時代だが、逆に一般庶民には六国史に象徴される「天皇の物語」が広く受容された時代であったことが注目される。
国史の読み手は、宮中・寺社関係者ら限られた階層にとどまるものだった。
だが、中世では特に『日本書紀』の神話と神々は、神仏習合の中で多様な解釈と認知が広がり、必然的に天皇の権威を押し上げた。

天皇の大衆化で「天皇が頂点」という認識が浸透

また、寺社縁起や絵巻物、軍記・説話のたぐいから芸能まで、天皇を頂点とする京の文化が広く深く浸透した(天皇の大衆化)。
近世までの武家政権が朝廷を潰せず、権威を利用しつつ関係を保った大きな要因はこれだ。

明治新政府により国史が編纂、しかし停止

幕末の尊王運動を経て、王政復古の大号令の下、明治新政府が樹立されると国史編纂の機運が再燃した。明治天皇は『日本三代実録』を継承する正史編纂の詔を発し、太政官では9代後醍醐天皇以降を編纂対象とする方針がまとめられた。だが学者間の対立があった上、編纂委員の久米邦武の論文が神道界から猛烈な批判を浴びた事件もあり、明治26年(1893)に事業は停止した。

現代まで研究が続く

2年後、帝大に史料編纂掛(現東京大学史料編纂所)が設置され、正史の記述でなく、史料を列挙する史料集の編纂事業へと方針を変えた。これが現在も刊行が続く『大日本史料』、『大日本古文書』である。国史事業はなくなったが、六国史後の貴重な文字遺産が集積されており、日本史研究の基礎資料となっている。

天皇実権と共に六国史編纂も終焉

変わる天皇と国家 国史のない時代へ

六国史が記す天皇の歴史は平安時代前期で終わる。その後、藤原道長により摂関政治は全盛期を迎え、平安末期には武士の時代が到来する。天皇主導により国史が記されなく時代は、天皇の一極体制の終焉と同時に訪れる。

平安時代、天皇の実権に陰り

六国史は58代光孝天皇の時代で終了(〜887)

六国史は58代光孝天皇の伝記をもって終了するが、平安時代は77代後白河天皇の頃まで続く。400年の平安時代は天皇と国家のあり方が変質した時代でもある。
なお、六国史は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の6つだ。

平安前期には天皇の権威は向上したが…

平安前期に天皇の権威は著しく向上した。まず「薬子の変」(810)がでは52代嵯峨天皇が兄の平城上皇を退け、君主権(大権)が天皇一人に帰すことが改めて確認された。
その後、嵯峨-仁明系の直系継承王統が確立し、天皇制は血統重視のシンプルかつ明確なものとなる。

朝政は官僚(公家ら)が主導、天皇はハンコを押す役

仁明朝は時代の画期だった。仁明は学者肌の天皇で、学芸・文化の頂点に立つ新たな天皇像を築いた。
天皇が政治の前面から引き、内裏にこもるようになったのもこの頃からだ。
律令体制の下、天皇は最終決裁者だが、朝政は官僚が主導していく。

天皇個人は御簾のなかへ籠る(10世紀ごろ)

10世紀に至って天皇は行幸もしなくなり、御簾の中へ消える。
天皇親政の一つの到達点といえるが、そのが希薄化した感は否めない。

藤原氏が実権を握り、天皇は御簾のなかへ

藤原北家、天皇の外戚となり天皇家に喰い付く

一方、代わって政治の前面に出てきたのが藤原良房を中興の祖とするとも藤原北家である。
策略家の良房は伴氏や橘氏、藤原式家らライバルを蹴落としたほか、妹や娘を天皇家に嫁がせて外戚となり、太政大臣に上り詰めた。

56代清和天皇、藤原氏の血を引く天皇が誕生

この中、天安2年(858)に56代清和天皇が即位した。直系継承の余波で、幼い子どもが天皇になった初例だ。
このとき、良房は祖父として清和を後見し、事実上の摂政となる。人臣初の摂政である。

まだ“院政”が存在せず、天皇家は藤原氏を出し抜けなかった

清和天皇の場合、従来なら上皇か母后が後見、また母后が中継ぎ女帝となる手もあった。
だが当時、上皇は不在、また平安時代は王族でない藤原氏ら臣下の母后だったので、女帝擁立もできなかった。
結果、外戚の北家が摂政・関白として強大な権力を得ることになる。

天皇の地位は安定すれど、即位と皇太子は安定せず

平安の天皇の地位は確かに強化、絶対化されたが、後見役を必要としていた。
「個々の天皇を見ると、強力な後見を持たなければその地位を保てないという脆弱性を併せ持っていた」(神谷正昌『皇位継承と藤原氏』吉川弘文館)。

未熟な天皇に代わり、藤原摂関家が政治の実権をとる

摂政・関白は正式な職でなく(令外官)、臨時的な職務を指す言葉だったが、良房と子の基経(初の関白)により、公職としての役割や性格が形づくられる。
一般に摂政の職務は天皇が成人するまでの代行者、関白は成人後の補佐役である。
平安末期の公卿・藤原頼長は、日記『台記』で「摂政は天子、関白は臣位」と定義する。
もっともこれは名目的なもので、摂政・関白とも国政を主導したことに変わりない。

実力ある天皇が立てれば、摂関は無用

なお60代醍醐天皇・62代村上天皇の「延喜・天暦の治」の頃は摂関が置かれず、後の世では聖代とされたが、単に制度として摂関が定着していなかったためで、意図的に摂関を置かなかったわけではない。

弱い天皇が立てば、藤原氏が暗躍し他氏を排斥

康保4年(967)に病弱な63代冷泉天皇が即位した際、北家嫡流の藤原実頼が関白となったことは転機だった。
実頼は政敵だった左大臣の源高明を失脚させ(安和の変)、対抗勢力をほぼ駆逐した。
以後、北家嫡流が天皇幼少時は摂政、成人後は関白となることが定着する。

道長の子孫が“摂関を世襲”しはじめる

藤原道長〜藤原北家の黄金期

藤原北家の黄金期を築いたのが藤原道長である。
摂関政治の象徴として知られ、法成寺(御堂)の建立により「御堂関白」の通称もある。
ただし関白にはなっておらず、摂政になった時期も短期間である。

道長の子孫が“摂関を世襲”しはじめる

道長は、長徳元年(995)に兄の死により氏長者(氏の代表者)となり、関白に準じる政務代行職の内覧となった。
万寿4年(1028)の逝去まで政務の第一人者であり続け、道長の子孫は摂関を世襲し、摂関家と呼ばれることになる。

天皇の外戚となり藤原氏が最盛期を迎える

道長は特に優れた政治家ではなかったが、次々に娘を宮中に入れ、外孫を即位させることでその地位を不動のものとした。天皇外戚であり続けることが権力の源泉だった。

中央政府(朝廷)の存在感が薄れていく

荘園開発が進み、律令体制は崩壊していく

この時代の日本を王朝国家と呼ぶ。
9〜10世紀初頭に社会は変容し、人口増、浮浪・逃亡の続出、荘園(貴族や寺社の私有地)の増大により、人民を直接把握・支配する律令制は行き詰まった。
税収確保に苦しんだ朝廷は、国司の最上位者(受領)に地方支配の一切の権限を与え、その代わり税の全責任を負わせる受領制を考案した。

徐々に天皇(と朝廷)の税収が落ちていく

受領は徴税請負人であり、強力な権限で富を収奪し、一定の税収以外をわが物とした。
その多くは摂関家関係者が任じられ、その政権を支えた。
特に道長の時代に受領の苛政に対する訴えが多発しているのは注目される。
道長はあの紫式部らの庇護者でもあったが、華やかな王朝文化の陰には受領の存在があったのだ。

武家の台頭、政治も武家中心に

摂関世襲が成功せず、藤原摂関家も衰退

栄華を極めた摂関家だが、皇子の誕生・即位という不確定な運に依拠する仕組みには限界があった。
道長の子の時代、ついに嫁いだ娘に皇子は生まれず、治暦4年(1068)に、外戚関係がない71代後三条天皇が即位し、摂関家の力は衰えた。

院政開始で天皇家が一時的に実権を取り戻す

72代白河天皇は応徳3年(1086)に8歳の堀河天皇に譲位して上皇となり、幼帝を後見して「院政」を開始する。
御簾の外へ飛び出した上皇は、皇室の当主(治天の君)として絶大な権力を持ち、摂関家の力は決定的に後退した。
ただし、それでも藤原氏は摂関を独占世襲する家ではあり、権門の一角としての地位は維持し続けた。

白河上皇の「北面の武士」がやがて伊勢平氏に

白河上皇が「北面の武士」と呼ばれる武装集団を所有するが、これが後に伊勢平氏台頭となり、朝廷から完全に実権を奪う遠因となってしまう。

中央政府(朝廷)がお飾り程度の存在に

地方では受領が任国の豪族や有力者を官人(在庁官人)として登用し、実務に当たらせていた。
受領が赴任しないパターンも増え、在庁官人は力を蓄えて、戦乱に際しては武装化した。
武士の誕生には諸説あるが、こうした在庁官人の多くが後の武家政権に組み込まれていったのは確かだ。
平安400年の天皇・朝廷・地方の変質は、中世という新時代の呼び水となっていく。
当然、武家に実権をとられることにより、天皇の歴史(六国史)の編纂も完全に終わりを迎える。


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