磐座と本殿

なぜ大神神社には本殿がないのか

大神神社には本殿がない。古くから受け継がれている重要な磐座があったため、本殿をあえて建てる必要がなかったためだ。原始神道の形態が残る日本最古の神社の1つで、標高約467mの三輪山をご神体とし、神社祭祀誕生前の太古の信仰を今に伝える。

山麓にある拝殿奥の三ツ鳥居を通して三輪山を遥拝するが、鳥居の成立年や由来は明らかになっていない。

目次

本殿がない大神神社

原始神道の形が残る最古の神社の1つ

大神神社(おおみわじんじゃ)は標高約467メートルの三輪山をご神体とする神社で、本殿を持たない。
山麓にある拝殿奥の三ツ鳥居を通して三輪山を遥拝する。
原始神道の形態が残る、日本最古の神社の1つである。
三ツ鳥居は3つの明神鳥居をひとつに組み合わせた特殊な形状で、成立年や由来は明らかになっていない。

拝殿は在るが、いつから在るかは不明

現在の拝殿は1664年に4代家綱が造営

大神神社には本殿はないが拝殿は存在する。
現存する拝殿は、寛文4年(1664)に4代将軍徳川家綱が造営したものとされる。

10代崇神の時代に建物が建てられた可能性

最初の拝殿が造営された時期は定かではないが、『日本書紀』崇神天皇紀における記述がある。
実在の可能性がある最初の天皇ともされる10代崇神天皇(大王)は、3世紀末から4世紀初頭に在位したと想定されている。(崇神の時代に三輪山にオオモノヌシノカミを祀ったとされる)
この崇神天皇の時代に大神祭が盛大に行われたとあり、「神宮」「殿戸」「神門」といった言葉が並ぶ。
そのため、何らかの建築物があった可能性も否定できないが、事実かどうかを確認することは難しい。

鎌倉時代以前は拝殿もなかった

1000年頃には【宝殿】が存在していた

平安時代に編纂された『日本紀略』には、長保2年(1000)に大神神社の宝殿が鳴動(揺れ動くこと)した記述がある。(この宝殿は、宝物を納める蔵のこともあれば、本殿や拝殿といった社殿を指すこともある)

平安後期〜鎌倉期にかけて全国で社殿が造営

確実な記録としては、文保元年(1317)、95代花園天皇の時代に拝殿造営が行われたことがわかっている。以降、たびたび修繕が加えられた。
全国の神社で社殿が造営されるようになったのは、平安時代後期から鎌倉時代にかけてと考えられるため、大神神社でも鎌倉時代に拝殿が造営されたものと考えられる。

平安後期の歌に当時の神社の様子が記される

平安時代後期の歌学書『奥義抄』には、「このみわの明神は、やしろもなくて、祭の日は、茅の輪を3つつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。
ここからも鎌倉時代以前には社殿はなく、神が宿る磐座に茅の輪を3つ置いたものを祭祀場としたことがうかがえる。

磐座に置いたつの3茅輪が三ツ鳥居に発展か

茅の輪とは、全国の神社で毎年6月と12月に行われる大祓で用いられる輪で、イネ科の植物の茎でつくられる。
この3つの茅の輪が三ツ鳥居に発展した可能性もある。

鎌倉時代以前には三ツ鳥居のみがあった

嘉禄2年(1226)に成立した『大三輪神三社鎮座次第』には、「当社古来無宝殿・唯有三個鳥居而已」とあり、鎌倉時代以前には三ツ鳥居のみがあったと考えられる。

山中に残る【磐座祭祀】の痕跡

厳しい入山規制、大部分が禁足地

現在も三輪山には多数の磐座が残っている。
大神神社のご神体である三輪山は、かつては厳しい入山規制がしかれていた。現在も三輪山の大部分は禁足地となっており、神職でさえ足を踏み入れることはできない。
ただし、頂上にある奥宮である高宮神社を参拝する登山道のみ、登拝料を支払えば入山できる。
登拝中の飲食や撮影、スケッチすら禁止されている。お参りのみが許され、供物も持って帰らなければならない。

現在も残る三輪山の磐座

登山道の入り口は、大神神社境内にある摂社・狭井神社の脇にある。
山頂や中腹には磐座とされる巨石群があり、中腹には中津磐座、高宮神社の奥には奥津磐座がある。
『奥義抄』で記された「いは」とはこの奥津磐座と考えられる。

発掘調査から見える三輪山の祭祀

勾玉、銅鏡、盃、臼杵が発見

三輪山は禁足地であるため、過去に発掘調査は行われていない。
しかし、昭和30年代の三ツ鳥居の修繕の際に、子持勾玉(勾玉の周囲に小さな勾玉を付けたもの)や土器片が発見されている。
また狭井神社の北東にある山ノ神遺跡は禁足地ではないため、発掘調査が行われ、磐座の下から銅鏡や勾玉、盃、臼杵などが発掘されている。

豊作を願い祭祀が行われていたか

稲作を中心とする農耕社会だった日本では、山から流れる雪解け水や湧水は農業に欠かせないものだった。
このことから「山の神は春に里に降りてきて田の神となり、秋に収穫を終えると山に帰っていく」という信仰が生まれた。
また祭祀にも欠かせない酒は、米と水からつくられるため、山の神は酒造神とされることも多い。 大神神社の祭神は酒造の神としても信仰されている。
山ノ神遺跡の出土物を見ると、磐座に祭壇を設けて鏡を置き、勾玉を用いて祭祀を行い、盃、杵臼などで酒を含む供物を捧げた可能性がある。

なぜ大神神社には本殿がないのか

本殿そのものの優先順位は高くない

神社の形態は、@磐座などの神の依り代となるもので祭祀が行われ、次にA依り代が鎮座する山自体が「神体山」となる。
さらにB神域である神体山と俗界を分けるための鳥居が設けられるようになり、C祭祀を行う拝殿がつくられる。
最後にD神自体を祀る本殿がつくられるようになったと考えられる。

依り代となる磐座が在るため、本殿は要らなかった

大神神社では、古くから受け継がれている重要な磐座があったため、本殿をあえて建てる必要がなかった。
そのため、第5段階である本殿造営にまでいかなかったと考えることもできる。


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