日本の医療・病気

日本の医療・病気の歴史

吉田兼好が「人皆病あり。病にをかされぬれば、その愁え忍びがたし(徒然草)」というように、人は皆、病気に苦しめられてきた。
医療の歴史は、そんな病気の苦しみに対して、人々が知恵をもって立ち向かってきた戦いの歴史である。
祈祷に始まる時代から、科学技術を駆使して病気を征圧しようとする現代まで、日本人の健康に医療が果たした役割を探る。

古墳時代 祭祀と医療の時

生産性が低かった古代の社会において、病気はその存続に重大な影響を与えるものであった。
そのため、『古事記』の「因幡の白兎」の物語にもあるように、首長には優れた医療の技能が求められた。
しかし、成果が目に見えやすい医療は、失敗すれば首長の信頼をも揺るがしかねなかった。
そのため、次第に首長の役割から切り離され、専門集団の氏族に任されるようになった。
医師は氏族内の伝習方式で養成されたが、古墳時代には、百済(朝鮮)から交代で派遣される医博士によって教育されるようになった。

飛鳥時代〜 官営医療の時代

8世紀に入り、律令国家の歩みを始めた日本は、中国(唐)に倣って、大宝律令に「医疾令」を定め、官営の医療制度を整備した。
中央には、医療を担当する「典薬寮(てんやくりょう/くすりのつかさ)」が設けられ、医師の教育や任用が行われた。
医師の卵である医生は、典薬寮において、渡来人による指導を受けたり、中国の医書を学んだりして、医術を習得していった。

湯薬、灸、針、蛭治療、湯治など

試験に合格して無事に卒業出来た者は官医となり、役人や宮中の人々の医療にあたった。
医療の内容は、主に湯薬蛭治療湯治などであった。

典薬寮

今日の厚生労働省と大学医学部および附属病院の機能を併せ持った官司。
医官の養成や診療を行う。
医学生(四色生)は、渡来人の系譜を引く氏族「薬部」と3代にわたり医業を継承する氏族「世習」の子弟だった。
定員に足りない場合は、官人の子弟の聡明な者からも採っていた。
当初は道教の呪で厄災を払う呪術師もいたが、平安時代に入ると見られなくなった。

薬園

典薬寮には薬園が併設され、2人の薬園師が管理し、そのもとで6人の薬園生が学んでいた。
典薬寮では、諸官司において使用される一年分の薬量を計算し、薬園で栽培した。
不足分については、公民の雑徭により採取させたり、市場で購入していた。

医療の科目分類は典薬寮で生まれた

医師となる者(医生)40人と針氏となる者(針生)20人は、典薬寮で教育を受けていた。
教育課程は2年で、主に漢から初唐の中国の医学書を学習する。
医疾令により、医生、針生がそれぞれ履修するべき書が定められている。
医生40人のうち、4人は耳鼻口歯科に4年、6人は少小(小児科)に5年、6人は創腫(外科)に5年、24人は体療(内科)で7年間、勉強していた。
針生20人は針の勉強を7年間行う。
そして試験を経た後、卒業となり、任官となった。
なお、自学習者といわれる非卒業生にも任官への道は開かれていたようだ。

現在の大学院「医得生業」

現在の大学院にあたる「医得生業」という制度で、さらに7年以上就業する者もいた。
その場合の任官は29〜32歳頃となった。
その中で優秀な者は、医博士・針博士となり、それぞれ、医生・針生の教育に当たった。
勤務評価は病気の治癒率によってなされた。

施薬院

施薬院(せやくいん/やくいん)は仏教思想に基づき、都の庶民などの病人を診察し医薬を施す使節で、730年、聖武天皇の皇后・光明子が設置した。
その後も歴代の天皇によって擁護された。

国衙

国衙(こくが)は地方政治を司る役所であった。
医薬師が1人おかれ、典薬寮と同様に国医生の教育を行った。
後に医師の質の低下が問題となった。

看病僧

古代インドの医学が仏教を通じて流入し、釈迦が説いた慈悲の心で看護を実践する「看病僧」もいた。
彼らは祈祷による治療に従事しているので、医学とは関わらない。

鎌倉時代〜 僧医の時代

平安時代末期になると、国家の財源不足により官位制度が衰退、官医の養成は氏族に任される事となった。
技量の衰えが目立つ官医に代わって活躍するようになったのが僧医(そうい)である。
僧になる為には五明(五つの学問)の履修が義務付けられていたが、国家の僧に対する財政支援が失われた平安中末期、中下級僧の中に五明の一つ医方明(医薬学)を活用して渡世する僧医が現れた。
中国の先進医学を学ぶ僧医もいた。

僧医

僧医とは、僧侶にして医師を兼ねた者の事をいう。
中国へ留学するなどして医学を学び、実力を磨いていた。
公家の中にも僧医を雇う者がいた。
関白太政大臣・九条兼実や藤原定家の侍医も僧医であった。
室町時代の僧、桃源瑞仙(とうげんずいせん)が南善寺の僧による漢文の講義を手記に纏めており、講義の内容が医学の知識に及んできた事が分かっている。

官医のその後

官位制度を国家財政でまかなう事が難しくなると、典薬寮の役職を代々担ってきた丹羽氏や和気氏(後に半井と改名)が、それぞれの家で医師を養成するようになった。
しかし、官医の技量を上回る民間医の登場で、官医の権威は失墜していった。

室町時代〜 民間医の時代

室町時代に入ると、歯科眼科産婦人科など、専門分野が細分化され、それぞれの専門家が流派を開くようになった。
また、応仁の乱以降は、戦場に同行して刀傷を治す金創医(きんそうい:外科医)も現れた。

新旧医療を巡って派閥が出来る

そんな中、「日本医学中興の祖」と呼ばれる曲直瀬道三(まなせどうさん)は、多くの門徒を育て、「後世派」と呼ばれる医派を成した。
また、江戸時代に入ると後世派を批判するグループが現れ、「古方派(古医方派)」と呼ばれた。

豊臣秀吉の医療政策

豊臣秀吉は、中世に衰退していた施薬院を復興しており、この事業は江戸幕府にも受け継がれた。
秀吉が出した施薬院高札の内容は、
「6月1日から9月10日までの100日間、身分・境遇・男女・年齢を問わず、病症に応じて治療を施す」
「大病で来院出来ない者は、京都以外でも往診する」
「明け六ツ時(午前6時頃)から日中まで開院する」
といった内容であった。

江戸時代〜

8代将軍徳川吉宗の時代には、民間医の養成所が設置されたり、薬草栽培を本格化させたりするなど、医療面でも様々な改革が行われた。
吉宗は1722年、小石川薬園の中に小石川養成所を創設した。
貧しい病人や身寄りのない病人を収容した。
医師が配置され、40人(後に117人)収容の病室を備えた。

医学館

医学館は幕府の医学校である。
1791年に、医師・多紀 元簡(たきもとやす)の医学所・躋寿館(せいじゅかん)を接収して、直轄としたのが始まり。
漢方医学の中央教育機関として、江戸時代末期まで存続した。

蘭方医(西洋医学の台頭)

吉宗の漢訳洋書輸入緩和を受け、1774年に杉田玄白らが『解体新書』を出版すると、西洋医学は急速な広がりを見せた。
緒方洪庵(おがたこうあん)の「適塾」や佐藤奉然の「順天堂」など、各地に蘭方医学塾が開かれる。
長崎ではドイツ人医師のシーボルトが全国から集まった日本人医師に西洋医学を教えた。
シーボルト事件を切っ掛けに幕府は西洋医学を修行する事を禁じたが(蘭方医禁止令)、天然痘の流行に種痘が有効である事が分かると再び蘭方医が活躍するようになった。
また、漢方(古方)医でありオランダ医学も学んだ華岡青洲が、世界初の麻酔手術を成功させるなど、漢方とオランダ医学の融合も進んだ。

お玉が池種痘所

お玉が池種痘所は、1858年に漢方医により江戸に作られた種痘所。
医師の養成も行っていた。
後に幕府直轄の医学所となり、幕府は漢方の医学館と合わせて、漢方と蘭方の両方の医師養成施設を持つようになった。
後の東京大学医学部である。

明治・大正・戦前の医療

衛生立国・健康報国の為の医療

明治政府は、医療の近代化を目指し、西洋医学に基づく医学教育と医師開業免許制度を定めた「医制」を実施した。
これ以降、医師は西洋医学を学び、国家試験に合格した者のみが成れるようになった。
しかし、当時の庶民にとって、医療とは即ち漢方薬を飲む事であり、漢方医学はその後も民間療法として人々の生活に息づいていく。
日清日露戦争に突入すると、医療は富国強兵を支える基盤として重視されるようになった。

偏っていた戦前日本の健康保険

昭和に入り、戦時体制がさらに強まると、「健康報国」のスローガンが唱えられるようになる。
1938年に厚生省が設立、国民健康保険が導入された。
その一方で、回復の難しい病人や障がい者は、国家の保障の枠から外されるという、差別的な側面もあった。

大学医学部の開設

国家医療体制の下、医師の養成は大学の医学部が担う事になった。
お玉が池種痘所を前進とする東京大学医学部をはじめとして、全国に大学医学部が開設された。
初期には、ミューレル、ホフマン、ベルツなどドイツから招かれた医師が主に指導にあたった。

戦後の医療

社会保障としての医療

戦後、日本は米国を手本に医療制度の改革を行った。
民主主義の精神に基づき、医療は社会保障の意味合いを強く持つモノとなる。

治療から予防へ

近年、医療費が国の財政を圧迫するようになった為、医療は「治療から予防へ」と方向転換が図られる。
生活習慣病の予防や、病気の早期発見に重点が置かれるようになった。
多くの感染症が克服されていく一方で、生活習慣病が死因の大半を占め、公害病など新たな疾患も現れる。
最新の科学技術を利用した新たな治療の道も探られている。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 46号 高度成長がもたらしたもの』朝日新聞出版 監修:新村拓

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