紫式部

紫式部

謎多き「源氏物語」の作者

生誕死没ともに不明であるが、天延元(973)年に誕生説があり、没年は1013〜1014年説が有力。

「源氏物語」の作者としてしられ、「百人一首」、「女房三十六歌仙」、「紫式部日記」(18首)、「紫式部集」、「拾遺和歌集」などにも多くの和歌を残す。

実は本名すらわかっていない

紫式部の本名は不明だが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある藤原香子(かおるこ/たかこ/こうし/よしこ)とする角田文衛の説がもある。ただし、紫式部が「掌侍」の地位を得ていた、ということに対して否定的な見方が強い。現状、【紫式部の本名は不明】という見方が一般的だ。

幼少期

越前での出会い

「源氏物語」執筆

初めての宮仕え

女房として活躍

晩年

紫式部は藤原氏の出身

嫡流・藤原摂関家ではなく、傍流の家柄

紫式部は、平安時代の政治の中心にあった藤原氏の出身である。とはいえ、摂政・関白などの重職を担った嫡流・藤原摂関家ではなく、傍流に当たっているため、さほど高い家柄というわけでもなかった。

紫式部の曾祖父の頃までは上級貴族だった

もっとも、紫式部の曾祖父の頃までは、中納言や右大臣といった高官に名を連ねていたのだから、紛れもなく上級貴族の一員であった。

祖父以降、中下級貴族の家系へ落ちぶれる

しかしながら、祖父以降は高位高官に恵まれず、位階は五位、官職は受領(諸国の長官)という中下級貴族の家系へと落ちぶれていた。

祖父・父ともに文才に恵まれていた

ただし、この家系は、和歌などを得意とし、文才に恵まれていた。祖父・雅正(まさただ)は『後撰和歌集』に、父・為時(ためとき)は『新古今和歌集』などに入集していたし、為時はまた、漢学者でもあった。このような文芸の家としての家風が、幼い紫式部にも多大な影響を与えたことは間違いない。

不明な点が多い紫式部の家族たち

母とは早くに死別、姉もいたようが…

紫式部の母については記録があまりなく、早い時期に死別したか、離別したのではないかと思われる。また、姉もひとりいたようだが、若くして世を去っている。

弟(兄とも)・惟規とともに暮らし成長

唯一ともに生育した同母兄弟に惟規(のぶのり)がいる。生年が伝わっていないため、厳密には兄か弟かはわかっていないのだが、弟だと考えられていることが多い。

父から「お前が男だったら」と言われる

あまり出来が良くなかった弟・惟規

この惟規は、漢詩を習ってもなかなか覚えられなかったり、すぐに忘れてしまったりするばかりで、横で聞いていた紫式部のほうが先に習得してしまうため、父・為時が彼女に「お前が男でなかったのが、私の不幸だ」と嘆いた、という有名なエピソードが『紫式部日記』に載っている。

当時、女性が漢籍を学ぶ機会はあまりなかった

こうして、女性が漢籍を学ぶ機会すらほとんどなかった時代において、紫式部は漢学者である父の影響を受け、確かな知識を身につけていった。

断片的にのみ伝わる少女時代

友達、文通、別れ、男性、恋愛、歌を贈られる

本名も、生年も伝わっていない紫式部が、どのような少女時代を過ごしたのかについては、定かではない部分が多い。しかし、彼女の歌集を見てみると、女友達と文通したり、その人が父に従って京を離れる時、別れを惜しんで歌を詠み交わしたり、といった様子が綴られている。時には、方違(かたたがえ)のために自宅に来た男性から、恋をほのめかす歌を送られたりしたことなどもあったようだ。

とりわけ高貴な身分というわけではないが、教養ある家庭に育ち、友と語り合い、別れを惜しみ、恋を夢見て過ごした、少女時代の紫式部の姿がしのばれる。

越前下向と運命の人

24歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)

越前守として下向(げこう:都から地方へいくこと)する父に従い、 京を離れた紫式部。初めて地方暮らしをした彼女に盛んにいい寄ってきたのは、親子ほど年の離れた男性だった。

越前へ向かう紫式部一家

10年ほど仕事も収入もなかった父・為時

長徳2年(996)、紫式部の一家に大きな 転機が訪れた。父・為時が大国・越前(福井県北部)の国守に任命され、赴任することとなった。実は、その10年ほど、為時はろくに仕事もなく、収入もあまりないという生活を送っていた。【越前守就任】は、為時一家にとって夢のような出来事であった。

父・為時の文才が藤原道長の心を動かす

越前守就任に関し、ひとつのエピソードが伝わっている。本来為時は小国・淡路守に就任する予定だったのだが、それに不満を持った為時が申し文(願書)を書き、次のような詩句を添えた。

「苦学の寒夜 紅涙襟を霑す 除目の後朝 蒼天眼に在り」 (苦学を続けた寒い夜、血涙は襟を濡らした。努力はむなしく、任官の日の翌朝、空の青さが我が眼にしみ込んだ。)

この名文が権力者の目に留まり、急遽、為時は大国・越前守に就任することができたのだと伝わる。一説によれば、その権力者とは、藤原道長だという。

紫式部も都を離れ、地方・越前へ向かう

こうして為時は越前守として赴任し、紫式部も同行して越前へと下ることとなった。紫式部は、初めて華やかな京を離れ、地方での暮らしを経験することになる。

夫・藤原宣孝との出会い

親子ほど歳が離れたうえ、本妻ではなく「妾」

この越前の地で紫式部の人生を大きく変える出来事が起きる。将来、夫となる男・藤原宣孝(のぶたか)との恋を実らせていったのだ。 ただし、「恋」とはいっても、宣孝と紫式部は親子ほども年が離れていた。しかも、当時は一夫多妻制で、宣孝には、他に何人かの妻と子がいた。紫式部は、のちに宣孝の求婚を受けることになるのだが、それは本妻ではなく、あくまで「妾」としてであった。

紫式部一家より格上だった宣孝一家

しかし、宣孝の父は権中納言にまで出世した人物で、宣孝の一族は為時の一族よりも羽振りがよかった。また、紫式部よりかなり年上である分、父・為時とも仲が良く、この縁組は為時が積極的に進めたともいわれている。

個性的だった夫・宣孝、派手な衣装で参拝

実はあの清少納言も、『枕草子』の中で宣孝のことを書いている。貴族たちが連れ立って金峯山参りに出かけたとき、他の貴族たちは皆お決まりの浄衣姿だったのに、宣孝は「みんなと同じではご利益も少なかろう」と、息子とふたりで派手な衣装で参詣し、みんなを驚かせた、というエピソードである。

やがて紫式部は求婚を受け入れる

宣孝という男は、ユニークで明るく、そして女性にはマメでやさしい性格だったように思われる。やがて紫式部の心も揺らぎはじめた。そしてついに、年上の既婚男性・宣孝の愛を受け入れることとなる。

『源氏物語』の誕生

25〜32歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)

夫・宣孝との別れが名作のはじまりとなる。紫式部の幸せな結婚生活は突然に終止符を打たれた。絶望の淵に立たされた彼女は、その喪失感の中から世界を魅了する奇跡の物語を生み出していく。

3年ほどで終わった宣孝との新婚生活

997年、紫式部は父を残して京へと戻る

長徳3年(997)、紫式部は父を残して越前国を離れ、京へと戻った。宣孝との結婚に向けての旅立ちとされ、翌年の冬頃にふたりは結ばれたと思われる。

幸せな結婚生活、女の子を一人もうける

年齢差もあり、妾という立場だったとはいえ、結婚生活は比較的幸せなものだったようだ。ふたりの間には一女(賢子。のちの大弐三位)も生まれている。

1001年、夫・宣孝が疫病により世を去る

しかし、幸せな日々は長く続かなかった。長保3年(1001)、夫・宣孝がこの世を去ったのである。当時流行中の疫病に罹患したためだとされる。推定では宣孝の享年は40代後半。将来を嘱望されたまだ働き盛りの壮年貴族の突然の死であった。

こうして、紫式部の結婚生活は、わずか3年足らずで終わりを告げたのである。

夫との死別が妻の心に暗い影を落とす

夫の死という現実を突きつけられ、紫式部はかなりの衝撃を受けたようだ。この頃に読まれた彼女の歌には、その心に残された暗い影が表れている。

  • 「世を嘆く(はかなき世を嘆く)」
  • 「若竹のおひゆくすゑを祈る(幼い我が子の行く末を祈る)」
  • 「この世をうしといとふ(人生を辛いものと疎まうとしく思う)」

などの文字が連ねられている。

最愛の夫を失った喪失感

愛する夫、自分を愛してくれた夫、明るく楽しかった夫を早くに亡くした紫式部の喪失感は、やはり大きかった。 当時、その寂しい心を少しでも慰めてくれるものがあったとすれば、それは愛娘・賢子だけだったのかもしれない。

絶望の底から名作が生み出される

失意の底で、無我夢中で執筆し始める

夫・宣孝(のぶたか)の死からしばらくして、紫式部は、ひとつの行動に出た。卓越した文才を活かし、幼い頃から好きだった物語の執筆を始めたのだ。

自分とは違う時代だが、同じ世界の物語

「いづれの御時にか(どの天皇の御代かは定かではないが)」で始まるその物語は、皇子として生まれながら源氏姓を賜った「光る君」が主人公。類稀なる才能と容姿を併せ持ったその人は、多くの女性たちと恋をし貴族社会の頂点を極めていく。

自分が見ている世界とは違う【夢の世界】

これがのちに日本文学史上における奇跡の傑作といわれる『源氏物語』である。現代の我々が目にしているものと、質・量とも違いがあると思われるが、その原型がこの時、初めて生まれたのである。紫式部は、夢のようにきらびやかな物語を描くことによって、絶望の底から這い上がろうとしたのかもしれない。

宮仕えと引きこもりの日々

33〜35歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)

自分の娘・彰子のために数多くの才女を女房として採用した藤原道長。白羽の矢が立った紫式部だったが彼女に宮仕えは合わなかった。

藤原道長が紫式部の才に目をつける

道長は娘を天皇のお気に入りにしたがっていた

『源氏物語』は貴族社会で短期間で話題になり、権力者たちの目にも止まった。
その頃、並みいる貴族たちの頂点にあった藤原道長は、娘の彰子を一条天皇のもとに入内させて、生まれた皇子を次代の帝として外戚(母方の祖父母)の地位を得んと画策していた。そのためには、彰子が一条天皇の寵愛を得なくてはならない。

娘・彰子のまわりを【文化的才女】で固めたい

かつて一条天皇が限りない愛情を捧げた中宮・定子のもとには、清少納言をはじめ著名な才女が仕えており、定子自身も漢籍を得意とした教養溢れる女性だった。 天皇の寵愛を得るには、娘・彰子のまわりにも清少納言に勝るとも劣らぬ才女を起用し、彰子を教育するとともに、いわば「文化的サロン」を築くことが必要だと考えた。

『源氏物語』を描いた紫式部はうってつけの才女

こうして道長は、紫式部に白羽の矢を立てたとされる。『源氏物語』が評判となっていたことに加え、かつて「苦学の寒夜紅涙襟を霑す・・・・・」の名文を書いた為時の娘であるということが、道長の評価に影響を与えたであろうことは想像に難くない。

初めての宮仕えも、引きこもりに

1005年ごろ、一条天皇の中宮・彰子に仕える

やがて紫式部は、女房として道長の娘で一条天皇の中宮(皇后)、彰子に仕えることになった。寛弘2(1005)年、ないし翌年の年末のことと考えられている。

が、宮仕えは耐えがたいものだった

しかし、初めての宮仕えは、紫式部には耐えがたいものだったようだ。すぐに出仕ができなくなり、自宅に引きこもる日々が続いた。その理由はいくつか考えられる。

中下級貴族としての暮らしに慣れていた紫式部

ひとつには、宮中での暮らしがこれまでの世界とは違いすぎたことが挙げられるだろう。紫式部のまわりは、父・為時をはじめ受領(国守)階級の中下級貴族の者ばかりだった。それが、宮中という日本で最高の家柄の人々が集う華やかな世界の只中に突然入れられたのだから、なじめないのも当然である。

素顔を晒すことに抵抗が強かった平安貴族の女性

また、当時の貴族の女性は、基本自宅にこもり、家族以外に顔を見せることはほぼなかった。しかし、宮仕えをするとなれば、男性貴族をはじめ不特定多数の人々に素顔をさらすことになる。現代なら、突然下着のまま人前に出ることを強いられるのに近いだろう。あの清少納言でさえ、当初は恥ずかしくて仕方がなかったと語っている。

「偉そう」「近寄りがたい」といった風評被害にあう

さらに、才女の誉れ高い紫式部に対して他の女房たちは「偉そうな人」「近寄りがたい人」と敬遠していたともいわれている。むろん、実際の紫式部はそのような高慢な女性ではない。しかし、「才女=気取った女」という偏見が風評を生み、他の女房たちとの仲は疎遠なものとなっていく。

引きこもり生活は半年近くに及ぶことに

こうして紫式部の引きこもりの日々は、翌年5月頃まで、半年近くにも及ぶこととなった。

宮仕えの日々

34〜41歳までごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)

引きこもりの生活を抜け出し宮仕えの仕事を始めた紫式部。女房としての仕事と生活について。

女房として輝きだした紫式部

同僚からの優しい手紙の心の整理がつく

紫式部の引きこもりは半年近くに及ぶが、そこに、やさしく出仕を促す同僚女房からの手紙も届く。手紙を読んだことで心の整理がついてきたのか、ようやく彼女は女房として出仕するようになる。

女房として、彰子に住み込みで仕える

女房とは、部屋を与えられて住み込みで貴人に仕える侍女のことをいう。紫式部もまた、中宮彰子の身のまわりの世話や儀礼・儀式などをつかさどり、貴族との間の取次などを行ったことだろう。

同僚に睨まれぬよう、あえて教養を隠す

女房の仕事を務めていく中で、「生意気な女」という誤解も解け、小少将(こしょうしょう)の君のような仲の良い同僚も生まれた。もっとも紫式部のほうでも他の女房などを刺激しないよう、極力、教養のないおっとりとした人物だと見せるようにして、本来は漢籍の教養にあふれているのに、「一」の文字さえ書かないようにしていた、という。

中宮彰子への漢文講義を請負う

紫式部だけの、他女房たちと違った役割

才女・紫式部には、他の女房たちとは違った役割も与えられた。彰子に乞われ、漢文(『白氏文集』「新楽府」)の講義をすることとなったのである。

他女房に目をつけられるリスクもあった

本来、教養などないようにふるまっていた紫式部にとって、このような仕事を引き受けるのは、むしろ迷惑だったはずだ。しかし、彼女は、この家庭教師的ともいえる仕事を承諾した。理由はおそらく、彰子の熱心さに心を動かされたためではないだろうか。

【漢籍】が一条天皇と彰子を結び付けた?

その当時、中宮彰子は、一条天皇からの寵愛を得ようと必死だった。そして、一条天皇も、かつて天皇が愛した故・中宮定子も、漢籍を好んでいた。一条天皇の愛するものを知りたい、少しでも近づきたい、そんな彰子の熱い思いが紫式部の心をも動かしたのだろう。

宮廷の記録係として活躍

彰子の出産や関連行事に関する記録を担当か

さらに、紫式部は、その文才を活かすべく、さまざまな行事の記録係も務めたようだ。現在我々が目にすることができる『紫式部日記』の前半部、彰子の出産とその関連行事に関する記述は、紫式部がそれらの記録係に任命されて記したものだったのではないかと考えられている。それは、中宮の出産(将来の天皇候補となる皇子の誕生)という一大行事を、中宮の近くに仕える女房による生々しい視点でとらえた、貴重な記録である。

当時の貴族社会のようすを現在に

また、祝賀の行事で酔い乱れる貴族たちの様子が当事者の実名入りで記されるなど、当時の貴族社会のようすを生き生きと伝える第一級の史料ともなっている。

紫式部と藤原道長の関係

道長の娘・彰子に仕えた紫式部。つまり、彼女にとって道長は主君の父に当たる。恋愛関係にあったともいわれるふたりの本当の関係について。

女房時代の紫式部に恋人はいたのか

いわゆる【バツイチ】だった紫式部

女房として充実した日々を送るようになった紫式部であるが、夫・宣孝と死別して以降、恋の噂はあったのか。わずかであるが、史料にのこっている。

教養あり、イイ女の条件を満たしてもいた

女房というのは、前述のようにさまざまな男性貴族たちと接する機会の多い仕事である。ましてや才女の誉れが高く、当時の女性の魅力のひとつでもあった和歌などの素養も高い紫式部のこと。恋の噂が立たぬはずがない。

紫式部のことを「道長の妾」と記した史料も

実際に有力な恋人候補といわれる人物がいる。それが、当時最高の権力者にして彰子の父・藤原道長である。 事実、後世の『尊卑分脈』という史料には、あくまで伝聞、噂としてであるが、紫式部のことが「道長の妾」と記されているのだ。

藤原道長と親密な関係だった?

『尊卑分脈』の記述だけをもって二人が「恋仲」であったという根拠にはたらないが、他にもそれをおもわせる史料がある。実は、『紫式部日記』の中にも、ふたりの親密な関係を思わせるエピソードが描かれている。

道長が紫式部に「和歌を詠め」といいよった

たとえば、親王誕生五十日(いか)の祝いの際に、酔い乱れる人々が多かったために、紫式部と宰相の君(藤原豊子)がふたりで御帳台のうしろに隠れていると、わざわざ道長がやってきて、「和歌を詠め」といいよったという話が紹介されている。そのときに交わされた歌が「いかにいかが〜」の歌であり、そのときの様子を描いた絵画もある(『紫式部日記絵巻』)が、とても親しげに描かれている。

道長が紫式部の寝室を訪問して拒否られる

ほかにも、ふたりの関係をにおわせる話もある。紫式部が寝ている部屋の戸を叩いて、道長が訪問しようとしたという説話である。そのときの歌が「ただならじ〜」の歌で、そのようすも絵画に描かれている。結局、紫式部は道長の誘いに応じなかったのだが、寝室を訪れるくらい。ちなみに、このときのふたりの贈答歌は、『新勅撰和歌集』の「恋の部」に入集している。

道長が紫式部に関心を寄せていたのは確実

そもそも彰子の女房に紫式部を抜擢したのは道長本人であり、何度も歌などを詠み交わしているのだから、道長が紫式部に好意を持っていた可能性は十分にある。紫式部にしても、時の権力者で美男子とも伝わる道長のことを受け入れていた可能性もなくなはい。

正式な妾ではなかった、ことも確実

ただし、ふたりが恋仲だったことを明確に示す史料がないことからも、正式な妾として認められていたとは考えづらい。

晩年の紫式部

42歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)

紫式部はいつごろまで藤原彰子に仕え、いつごろ亡くなったのか?晩年の様子ついて残された史料は非常に少ない。

『小右記』に記されていた紫式部

1013年ごろまでは女房として務めていた

晩年の紫式部がどのように生きたのか、あまり定かではない。 寛弘8年(1011)、一条天皇が崩御し、彰子は中宮でなくなったのだが、その後もしばらくは彰子のもとに仕えていたと思われる。長和2年5月(1013)の藤原実資の日記『小右記(しょうゆうき)』に、「越後守為時女(為時の娘=紫式部)」という記述があるので、この頃までは元気に女房としての仕事をこなしていたようだ。

父・為時は越後守に、弟・惟規には先立たれる

ちなみに、『小右記』にもある通り、寛弘8年(1011)、為時は越後守となっており、息子の惟規をともなって下向している。しかし、惟規は現地で没してしまい、紫式部は弟に先立たれることとなった。

没年は1014年(40代前半)説が有力

父・為時は1014年に職務を放棄し帰京

その為時は、長和3年6月(1014)に、まだ越後守の任期中だったにもかかわらず、辞任して帰京した。しかも、その2年後には出家もしている。

娘と息子を失ったことがショックだったか

これは、越後守任期中に惟規だけでなく紫式部にも先立たれてしまい、ふたりの子どもを失った悲しみに心を打たれたためだともいわれており、それを裏付ける歌なども存在する。

40代前半ごろに亡くなった可能性が高い

となると、紫式部は、長和2(1013)年5月から長和3(1014)年6月までの間に亡くなったことになる。 この有力な説に従えば、紫式部は、まだ40代前半ごろに命を落としたことになる。もちろん、道長も彰子も、いまだ健在な時期である。

1019年まで生き、道長と過ごしたとも

同じく『小右記』に似たような書き方が残る

ところが、紫式部の没年には別の説がある。前述の『小右記』寛仁3(1019)年正月の記事に登場する女房が、実は紫式部なのではないかとする説である。はっきりと「為時女」と書かれているわけではないのだが、似たような書き方がされているというのだ。この説を信じるなら、紫式部は寛仁3(1019)年以降も生きていた可能性も残る。

道長と紫式部が二人で余生を過ごした説

ちなみに同年3月、藤原道長は出家し、約8年後に死去している。紫式部が生存していたなら、道長と紫式部のふたりはほぼ同時期に第一線を退き、静かに余生を過ごした可能性がでてくる。 ただし、晩年のふたりにどのような交流があったのかは、まったくわかっていない。

娘・賢子は、高階成章と結ばれることに

一方、紫式部の娘・賢子は、母の晩年、ないし死後間もなく、母と同じく彰子に仕えることとなる。のちに大宰大弐となる高階成章(たかしなのなりあき)と結ばれ、夫婦ともに従三位に昇進。これによって彼女は「大弐三位」と呼ばれるようになり、『小倉百人一首』にも選ばれるなど、歌人としても活躍する。

紫式部の和歌(三十一文字)

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よはの月かな」
大意:せっかくお目にかかれたのに、本当にあなただったのかもよくわからないうちにお帰りになってしまいました。雲隠れした夜半の月のようなあなたですこと。
解説:紫式部の歌の中で最も有名な歌で、小倉百人一首にも選ばれている。恋の歌と解されることが多いが、『紫式部集』では、娘時代の紫式部が、幼馴染の女性と何年かぶりにつかの間の再会をしたときの歌として掲載されている。
「北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲のうはがき かきたえずして」
大意:北へ行く雁の翼にことづけてほしい。雲の上を行く雁がはばたきをやめないように、手紙の上書を絶やさないでくださいね。
解説:紫式部には、亡くなった実姉の代わりとして「姉君」と呼んで慕っていた友人がいた。のちにその友人も紫式部自身も京を離れることとなり、別れの際に「今後も文通を続けたい」という意味を込めて交わした、という歌。
「春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」
大意:春とはいえ、白山の雪はいよいよ積もっていて、解けるのはいつになることかしれません。
解説:この歌は、紫式部をデートに誘った男(おそらく宣孝)が、「春は雪が解けるもの(あなたの心もうちとけるべき時)とお知らせしたい」といってきたのに対し、「白山の雪は春なのに解けそうもありません(あなたにうちとけるのはいつになるかわかりません)」と返している。しかし、本心では、すでに宣孝に心を通わせていたのかもしれない。
「みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ」
大意:近江の湖(琵琶湖)で友を呼んでいる千鳥よ。どうせならあちこちの港に飛び回り、絶えることなく声をかけなさいよ。
解説:近江守の娘にいい寄っているという男に対して詠んだという紫式部の歌。その男とは宣孝をさすとおもわれる。「いっそのこと近江の女性だけでなく、あちこちの人にいい寄ればいいじゃない」などといいつつ、本心では宣孝の浮気心を戒めている。
「垣ほ荒れ さびしさまさる とこなつに 露おきそはむ 秋までは見じ」
大意:夫の死後、垣も荒れ、さびしさがつのるわが家のとこなつ(撫子)の花に、秋には(涙の)露が加わることになるだろうが、私がそれを見ることはないだろう。秋まで生きていられそうにないから。
解説:夫の死後、家も荒れ、心身ともに弱っていく様子を詠んだ歌とされる。「とこなつ(撫子)」の花には、ふたりの娘・賢子のイメージを重ねていると見る向きもある。
「花すすき 葉わけの露や なににかく 枯れ行く野べに 消えとまるらむ」
大意:すすきの穂を分けて下葉に置かれた露よ、どうして枯れていく野辺に消えずに残っているのでしょう(なぜ夫の死後も私は生きながらえているのでしょう)。
解説:はかないはずの露がいつまでも消えないように、生きる甲斐もない自分がなぜ生きながらえているのか、と歌う紫式部。両歌とも、夫の死後、絶望感に襲われた心境を詠んだものと思われる。
「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重ぞ 思ひ乱るる」
大意:わが身を辛いものと思う気持ちは心の中につきまとい、今、九重(ここのへ:宮中)にいても、幾重にも思いが乱れるばかりだ。
解説:初めて内裏周辺を見た時に詠んだ歌とされる。宮中の異称である「九重(ここのへ)」に「幾重にも乱れる」心をかけている。
「わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき」
大意:仕方ないことだ。私の周囲の人々は私を人並みの者だとはいわないだろう。かといって、自分で自分の身を捨てることなどできるだろうか。
解説:出仕後、引きこもってばかりいた紫式部に対し「あら、偉ぶっていらっしゃること」などと人々が噂しているということを耳にして詠んだという歌。才女というレッテルから来る周囲のそしりに心を痛めていた様子がわかる。
「めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ」
大意:敦成親王という新たな光が加わったご生誕祝いの盃ですから、欠けることのない望月のように、皆さまの手に渡され、千代もめぐり続けることでしょう。
解説:一条天皇と彰子の間に生まれた最初の皇子・敦成親王の生誕5日目産養(生誕祝い)での祝い唄。「さかづき」には「盃」と「月」が、「もち」には「(盃を)持ち」と「望(月)」の意がかけられている。状況に応じて機知に富んだ歌を詠むのも女房の大切な仕事だった。
「いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の あまりひさしき 君が御代をば」
大意:本日は五十日のお祝いの席ですが、どうやって数えることができるでしょうか、幾千年も続く若宮のあまりに久しいご寿命を。
解説:こちらは敦成親王誕生五十日の祝いの席にて、道長に乞われて詠んだ歌。「いかに」には「いかに(どうやって)」と「五十日に」がかけられている。
「人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ」
大意:梅の実は誰もまだ折っていないのに、誰がすっぱいものだといったのでしょう?同じように誰にもいい寄られていない私のことを、誰が好きもの(好色)だなんていったのでしょう?
解説:道長が「梅の実はすっぱくて美味だからその実をとるために枝を折らないものがいないように、好色と評判のあなたにいい寄らない人はいないでしょう」と歌いかけたのに答えた歌。「酸きもの(すっぱいもの)」と「好きもの(好色)」とをかけている。
「ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし」
大意:ただごとではないというふうに戸を叩いた水鳥ですが、ほんのつかの間の気持ちだったのでしょう?戸を開けていたら、どれほど悔しい思いをしたことでしょう。
解説:紫式部が寝ている部屋の戸をしきりに叩く音がする。怖くて戸を開けなかったのだが、翌朝、戸を叩いたのは私だったのに、との歌が道長から届く。それに対しての返歌である。
「年暮れて わがよふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな」
大意:年も暮れ、私も年老いていく。夜更けの風の音を聞いていると、心が寒々としてしまう。
解説:実際には、初出仕の頃の歌だが、年をとってからの寂しい心情を詠んだもののようにも受け取れる。「わがよふけゆく」には、「私の年齢が老けていく」の意と「夜が更けていく」の意味がかけてある。
「いづくとも 身をやるかたの 知られねば うしと見つつも ながらふるかな」
大意:どちらへ身をやったらよいのかわからないので、住みづらさを覚えながらも、この世を生きながらえている私である。
解説:こちらも、実際には宮仕え中に同僚の女房と詠み交わした歌だと思われるが、身を寄せる方もないまま、寂しい思いを抱きつつ生きながらえている晩年の心境をうたったもののようにも思える歌である。

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