生誕死没ともに不明であるが、天延元(973)年に誕生説があり、没年は1013〜1014年説が有力。
「源氏物語」の作者としてしられ、「百人一首」、「女房三十六歌仙」、「紫式部日記」(18首)、「紫式部集」、「拾遺和歌集」などにも多くの和歌を残す。
紫式部の本名は不明だが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある藤原香子(かおるこ/たかこ/こうし/よしこ)とする角田文衛の説がもある。ただし、紫式部が「掌侍」の地位を得ていた、ということに対して否定的な見方が強い。現状、【紫式部の本名は不明】という見方が一般的だ。
紫式部は、平安時代の政治の中心にあった藤原氏の出身である。とはいえ、摂政・関白などの重職を担った嫡流・藤原摂関家ではなく、傍流に当たっているため、さほど高い家柄というわけでもなかった。
もっとも、紫式部の曾祖父の頃までは、中納言や右大臣といった高官に名を連ねていたのだから、紛れもなく上級貴族の一員であった。
しかしながら、祖父以降は高位高官に恵まれず、位階は五位、官職は受領(諸国の長官)という中下級貴族の家系へと落ちぶれていた。
ただし、この家系は、和歌などを得意とし、文才に恵まれていた。祖父・雅正(まさただ)は『後撰和歌集』に、父・為時(ためとき)は『新古今和歌集』などに入集していたし、為時はまた、漢学者でもあった。このような文芸の家としての家風が、幼い紫式部にも多大な影響を与えたことは間違いない。
紫式部の母については記録があまりなく、早い時期に死別したか、離別したのではないかと思われる。また、姉もひとりいたようだが、若くして世を去っている。
唯一ともに生育した同母兄弟に惟規(のぶのり)がいる。生年が伝わっていないため、厳密には兄か弟かはわかっていないのだが、弟だと考えられていることが多い。
この惟規は、漢詩を習ってもなかなか覚えられなかったり、すぐに忘れてしまったりするばかりで、横で聞いていた紫式部のほうが先に習得してしまうため、父・為時が彼女に「お前が男でなかったのが、私の不幸だ」と嘆いた、という有名なエピソードが『紫式部日記』に載っている。
こうして、女性が漢籍を学ぶ機会すらほとんどなかった時代において、紫式部は漢学者である父の影響を受け、確かな知識を身につけていった。
本名も、生年も伝わっていない紫式部が、どのような少女時代を過ごしたのかについては、定かではない部分が多い。しかし、彼女の歌集を見てみると、女友達と文通したり、その人が父に従って京を離れる時、別れを惜しんで歌を詠み交わしたり、といった様子が綴られている。時には、方違(かたたがえ)のために自宅に来た男性から、恋をほのめかす歌を送られたりしたことなどもあったようだ。
とりわけ高貴な身分というわけではないが、教養ある家庭に育ち、友と語り合い、別れを惜しみ、恋を夢見て過ごした、少女時代の紫式部の姿がしのばれる。
24歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)
越前守として下向(げこう:都から地方へいくこと)する父に従い、 京を離れた紫式部。初めて地方暮らしをした彼女に盛んにいい寄ってきたのは、親子ほど年の離れた男性だった。
長徳2年(996)、紫式部の一家に大きな 転機が訪れた。父・為時が大国・越前(福井県北部)の国守に任命され、赴任することとなった。実は、その10年ほど、為時はろくに仕事もなく、収入もあまりないという生活を送っていた。【越前守就任】は、為時一家にとって夢のような出来事であった。
越前守就任に関し、ひとつのエピソードが伝わっている。本来為時は小国・淡路守に就任する予定だったのだが、それに不満を持った為時が申し文(願書)を書き、次のような詩句を添えた。
「苦学の寒夜 紅涙襟を霑す 除目の後朝 蒼天眼に在り」 (苦学を続けた寒い夜、血涙は襟を濡らした。努力はむなしく、任官の日の翌朝、空の青さが我が眼にしみ込んだ。)
この名文が権力者の目に留まり、急遽、為時は大国・越前守に就任することができたのだと伝わる。一説によれば、その権力者とは、藤原道長だという。
こうして為時は越前守として赴任し、紫式部も同行して越前へと下ることとなった。紫式部は、初めて華やかな京を離れ、地方での暮らしを経験することになる。
この越前の地で紫式部の人生を大きく変える出来事が起きる。将来、夫となる男・藤原宣孝(のぶたか)との恋を実らせていったのだ。 ただし、「恋」とはいっても、宣孝と紫式部は親子ほども年が離れていた。しかも、当時は一夫多妻制で、宣孝には、他に何人かの妻と子がいた。紫式部は、のちに宣孝の求婚を受けることになるのだが、それは本妻ではなく、あくまで「妾」としてであった。
しかし、宣孝の父は権中納言にまで出世した人物で、宣孝の一族は為時の一族よりも羽振りがよかった。また、紫式部よりかなり年上である分、父・為時とも仲が良く、この縁組は為時が積極的に進めたともいわれている。
実はあの清少納言も、『枕草子』の中で宣孝のことを書いている。貴族たちが連れ立って金峯山参りに出かけたとき、他の貴族たちは皆お決まりの浄衣姿だったのに、宣孝は「みんなと同じではご利益も少なかろう」と、息子とふたりで派手な衣装で参詣し、みんなを驚かせた、というエピソードである。
宣孝という男は、ユニークで明るく、そして女性にはマメでやさしい性格だったように思われる。やがて紫式部の心も揺らぎはじめた。そしてついに、年上の既婚男性・宣孝の愛を受け入れることとなる。
25〜32歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)
夫・宣孝との別れが名作のはじまりとなる。紫式部の幸せな結婚生活は突然に終止符を打たれた。絶望の淵に立たされた彼女は、その喪失感の中から世界を魅了する奇跡の物語を生み出していく。
長徳3年(997)、紫式部は父を残して越前国を離れ、京へと戻った。宣孝との結婚に向けての旅立ちとされ、翌年の冬頃にふたりは結ばれたと思われる。
年齢差もあり、妾という立場だったとはいえ、結婚生活は比較的幸せなものだったようだ。ふたりの間には一女(賢子。のちの大弐三位)も生まれている。
しかし、幸せな日々は長く続かなかった。長保3年(1001)、夫・宣孝がこの世を去ったのである。当時流行中の疫病に罹患したためだとされる。推定では宣孝の享年は40代後半。将来を嘱望されたまだ働き盛りの壮年貴族の突然の死であった。
こうして、紫式部の結婚生活は、わずか3年足らずで終わりを告げたのである。
夫の死という現実を突きつけられ、紫式部はかなりの衝撃を受けたようだ。この頃に読まれた彼女の歌には、その心に残された暗い影が表れている。
などの文字が連ねられている。
愛する夫、自分を愛してくれた夫、明るく楽しかった夫を早くに亡くした紫式部の喪失感は、やはり大きかった。 当時、その寂しい心を少しでも慰めてくれるものがあったとすれば、それは愛娘・賢子だけだったのかもしれない。
夫・宣孝(のぶたか)の死からしばらくして、紫式部は、ひとつの行動に出た。卓越した文才を活かし、幼い頃から好きだった物語の執筆を始めたのだ。
「いづれの御時にか(どの天皇の御代かは定かではないが)」で始まるその物語は、皇子として生まれながら源氏姓を賜った「光る君」が主人公。類稀なる才能と容姿を併せ持ったその人は、多くの女性たちと恋をし貴族社会の頂点を極めていく。
これがのちに日本文学史上における奇跡の傑作といわれる『源氏物語』である。現代の我々が目にしているものと、質・量とも違いがあると思われるが、その原型がこの時、初めて生まれたのである。紫式部は、夢のようにきらびやかな物語を描くことによって、絶望の底から這い上がろうとしたのかもしれない。
33〜35歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)
自分の娘・彰子のために数多くの才女を女房として採用した藤原道長。白羽の矢が立った紫式部だったが彼女に宮仕えは合わなかった。
『源氏物語』は貴族社会で短期間で話題になり、権力者たちの目にも止まった。
その頃、並みいる貴族たちの頂点にあった藤原道長は、娘の彰子を一条天皇のもとに入内させて、生まれた皇子を次代の帝として外戚(母方の祖父母)の地位を得んと画策していた。そのためには、彰子が一条天皇の寵愛を得なくてはならない。
かつて一条天皇が限りない愛情を捧げた中宮・定子のもとには、清少納言をはじめ著名な才女が仕えており、定子自身も漢籍を得意とした教養溢れる女性だった。 天皇の寵愛を得るには、娘・彰子のまわりにも清少納言に勝るとも劣らぬ才女を起用し、彰子を教育するとともに、いわば「文化的サロン」を築くことが必要だと考えた。
こうして道長は、紫式部に白羽の矢を立てたとされる。『源氏物語』が評判となっていたことに加え、かつて「苦学の寒夜紅涙襟を霑す・・・・・」の名文を書いた為時の娘であるということが、道長の評価に影響を与えたであろうことは想像に難くない。
やがて紫式部は、女房として道長の娘で一条天皇の中宮(皇后)、彰子に仕えることになった。寛弘2(1005)年、ないし翌年の年末のことと考えられている。
しかし、初めての宮仕えは、紫式部には耐えがたいものだったようだ。すぐに出仕ができなくなり、自宅に引きこもる日々が続いた。その理由はいくつか考えられる。
ひとつには、宮中での暮らしがこれまでの世界とは違いすぎたことが挙げられるだろう。紫式部のまわりは、父・為時をはじめ受領(国守)階級の中下級貴族の者ばかりだった。それが、宮中という日本で最高の家柄の人々が集う華やかな世界の只中に突然入れられたのだから、なじめないのも当然である。
また、当時の貴族の女性は、基本自宅にこもり、家族以外に顔を見せることはほぼなかった。しかし、宮仕えをするとなれば、男性貴族をはじめ不特定多数の人々に素顔をさらすことになる。現代なら、突然下着のまま人前に出ることを強いられるのに近いだろう。あの清少納言でさえ、当初は恥ずかしくて仕方がなかったと語っている。
さらに、才女の誉れ高い紫式部に対して他の女房たちは「偉そうな人」「近寄りがたい人」と敬遠していたともいわれている。むろん、実際の紫式部はそのような高慢な女性ではない。しかし、「才女=気取った女」という偏見が風評を生み、他の女房たちとの仲は疎遠なものとなっていく。
こうして紫式部の引きこもりの日々は、翌年5月頃まで、半年近くにも及ぶこととなった。
34〜41歳までごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)
引きこもりの生活を抜け出し宮仕えの仕事を始めた紫式部。女房としての仕事と生活について。
紫式部の引きこもりは半年近くに及ぶが、そこに、やさしく出仕を促す同僚女房からの手紙も届く。手紙を読んだことで心の整理がついてきたのか、ようやく彼女は女房として出仕するようになる。
女房とは、部屋を与えられて住み込みで貴人に仕える侍女のことをいう。紫式部もまた、中宮彰子の身のまわりの世話や儀礼・儀式などをつかさどり、貴族との間の取次などを行ったことだろう。
女房の仕事を務めていく中で、「生意気な女」という誤解も解け、小少将(こしょうしょう)の君のような仲の良い同僚も生まれた。もっとも紫式部のほうでも他の女房などを刺激しないよう、極力、教養のないおっとりとした人物だと見せるようにして、本来は漢籍の教養にあふれているのに、「一」の文字さえ書かないようにしていた、という。
才女・紫式部には、他の女房たちとは違った役割も与えられた。彰子に乞われ、漢文(『白氏文集』「新楽府」)の講義をすることとなったのである。
本来、教養などないようにふるまっていた紫式部にとって、このような仕事を引き受けるのは、むしろ迷惑だったはずだ。しかし、彼女は、この家庭教師的ともいえる仕事を承諾した。理由はおそらく、彰子の熱心さに心を動かされたためではないだろうか。
その当時、中宮彰子は、一条天皇からの寵愛を得ようと必死だった。そして、一条天皇も、かつて天皇が愛した故・中宮定子も、漢籍を好んでいた。一条天皇の愛するものを知りたい、少しでも近づきたい、そんな彰子の熱い思いが紫式部の心をも動かしたのだろう。
さらに、紫式部は、その文才を活かすべく、さまざまな行事の記録係も務めたようだ。現在我々が目にすることができる『紫式部日記』の前半部、彰子の出産とその関連行事に関する記述は、紫式部がそれらの記録係に任命されて記したものだったのではないかと考えられている。それは、中宮の出産(将来の天皇候補となる皇子の誕生)という一大行事を、中宮の近くに仕える女房による生々しい視点でとらえた、貴重な記録である。
また、祝賀の行事で酔い乱れる貴族たちの様子が当事者の実名入りで記されるなど、当時の貴族社会のようすを生き生きと伝える第一級の史料ともなっている。
道長の娘・彰子に仕えた紫式部。つまり、彼女にとって道長は主君の父に当たる。恋愛関係にあったともいわれるふたりの本当の関係について。
女房として充実した日々を送るようになった紫式部であるが、夫・宣孝と死別して以降、恋の噂はあったのか。わずかであるが、史料にのこっている。
女房というのは、前述のようにさまざまな男性貴族たちと接する機会の多い仕事である。ましてや才女の誉れが高く、当時の女性の魅力のひとつでもあった和歌などの素養も高い紫式部のこと。恋の噂が立たぬはずがない。
実際に有力な恋人候補といわれる人物がいる。それが、当時最高の権力者にして彰子の父・藤原道長である。 事実、後世の『尊卑分脈』という史料には、あくまで伝聞、噂としてであるが、紫式部のことが「道長の妾」と記されているのだ。
『尊卑分脈』の記述だけをもって二人が「恋仲」であったという根拠にはたらないが、他にもそれをおもわせる史料がある。実は、『紫式部日記』の中にも、ふたりの親密な関係を思わせるエピソードが描かれている。
たとえば、親王誕生五十日(いか)の祝いの際に、酔い乱れる人々が多かったために、紫式部と宰相の君(藤原豊子)がふたりで御帳台のうしろに隠れていると、わざわざ道長がやってきて、「和歌を詠め」といいよったという話が紹介されている。そのときに交わされた歌が「いかにいかが〜」の歌であり、そのときの様子を描いた絵画もある(『紫式部日記絵巻』)が、とても親しげに描かれている。
ほかにも、ふたりの関係をにおわせる話もある。紫式部が寝ている部屋の戸を叩いて、道長が訪問しようとしたという説話である。そのときの歌が「ただならじ〜」の歌で、そのようすも絵画に描かれている。結局、紫式部は道長の誘いに応じなかったのだが、寝室を訪れるくらい。ちなみに、このときのふたりの贈答歌は、『新勅撰和歌集』の「恋の部」に入集している。
そもそも彰子の女房に紫式部を抜擢したのは道長本人であり、何度も歌などを詠み交わしているのだから、道長が紫式部に好意を持っていた可能性は十分にある。紫式部にしても、時の権力者で美男子とも伝わる道長のことを受け入れていた可能性もなくなはい。
ただし、ふたりが恋仲だったことを明確に示す史料がないことからも、正式な妾として認められていたとは考えづらい。
42歳ごろ(天延元(973)年誕生説にもとづく)
紫式部はいつごろまで藤原彰子に仕え、いつごろ亡くなったのか?晩年の様子ついて残された史料は非常に少ない。
晩年の紫式部がどのように生きたのか、あまり定かではない。 寛弘8年(1011)、一条天皇が崩御し、彰子は中宮でなくなったのだが、その後もしばらくは彰子のもとに仕えていたと思われる。長和2年5月(1013)の藤原実資の日記『小右記(しょうゆうき)』に、「越後守為時女(為時の娘=紫式部)」という記述があるので、この頃までは元気に女房としての仕事をこなしていたようだ。
ちなみに、『小右記』にもある通り、寛弘8年(1011)、為時は越後守となっており、息子の惟規をともなって下向している。しかし、惟規は現地で没してしまい、紫式部は弟に先立たれることとなった。
その為時は、長和3年6月(1014)に、まだ越後守の任期中だったにもかかわらず、辞任して帰京した。しかも、その2年後には出家もしている。
これは、越後守任期中に惟規だけでなく紫式部にも先立たれてしまい、ふたりの子どもを失った悲しみに心を打たれたためだともいわれており、それを裏付ける歌なども存在する。
となると、紫式部は、長和2(1013)年5月から長和3(1014)年6月までの間に亡くなったことになる。 この有力な説に従えば、紫式部は、まだ40代前半ごろに命を落としたことになる。もちろん、道長も彰子も、いまだ健在な時期である。
ところが、紫式部の没年には別の説がある。前述の『小右記』寛仁3(1019)年正月の記事に登場する女房が、実は紫式部なのではないかとする説である。はっきりと「為時女」と書かれているわけではないのだが、似たような書き方がされているというのだ。この説を信じるなら、紫式部は寛仁3(1019)年以降も生きていた可能性も残る。
ちなみに同年3月、藤原道長は出家し、約8年後に死去している。紫式部が生存していたなら、道長と紫式部のふたりはほぼ同時期に第一線を退き、静かに余生を過ごした可能性がでてくる。 ただし、晩年のふたりにどのような交流があったのかは、まったくわかっていない。
一方、紫式部の娘・賢子は、母の晩年、ないし死後間もなく、母と同じく彰子に仕えることとなる。のちに大宰大弐となる高階成章(たかしなのなりあき)と結ばれ、夫婦ともに従三位に昇進。これによって彼女は「大弐三位」と呼ばれるようになり、『小倉百人一首』にも選ばれるなど、歌人としても活躍する。