源頼政

源頼政

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源頼政(みなもとのよりまさ)

生没:長治元年(1104)〜治承4年(1180)

平清盛に信頼され、流刑中の源頼朝を庇護

源頼政(みなもとのよりまさ)は平安時代末期の武士、兵庫頭源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。源三位の通称が伝わる。先祖に「大江山の鬼退治」を指揮した源頼光がいる。
大内守護という宮廷警護の役を長く務め、朝廷からの信頼も厚かった。伊豆の知行主となったことで、流刑中の源頼朝に危害が及ばぬよう庇護する形となった。

源氏でありながら平氏につく

頼政は、源氏でありながら平氏についた裏切り者といわれることもあるが、血縁のよしみより己の立場を貫き、派閥の論理で行動した頭脳派であった。
平清盛に信頼され、武士としては破格の出世を遂げた源頼政。情に流されず、政局を読み解く冷静な判断力があった。

源頼政像

【源頼政像】袈裟頭巾をかぶった頼政。晩年の出家後の姿で、源三位入道と呼ばれた。出典:ColBase

源頼政は摂津源氏の棟梁

河内源氏(清和天皇)と伊勢平氏(桓武天皇)

源氏と平氏は平安時代末期を代表する二大武士団で、どちらも賜姓皇族に由来する。(賜姓皇族とは、膨らみすぎた宮廷経費節減のため、皇族に姓を与えて臣下の身分とし、自立を促す制度をいう。) 当時、もっとも成功を収めていたのが、清和天皇の血を引く河内源氏と、桓武天皇の血を引く伊勢平氏だった。

河内源氏に次ぐ存在だった【摂津源氏】

源頼政は、都が不穏と化した12世紀半ば、のちに源頼朝を世に送り出す河内源氏に次ぐ存在だった、摂津源氏の棟梁の座にあった。

源氏でありながら平氏につく

当初は親政派として平氏と対立するも…

親政支持派として、院政支持派(平清盛ら)と対立

頼政は都での地位を築くため、血縁的にも近い美濃源氏の土岐光保(みつやす)とともに、鳥羽天皇の后・美福門院とその娘を妻とする二条天皇のもとに結集する。
天皇が自ら政治を行う二条天皇の親政支持派として、後白河院の周囲に結集した信西入道、藤原信頼、平清盛などからなる院政支持派と睨み合う形となった。

院政派内で信西入道と藤原信頼が対立

二条天皇親政といっても、実際には後見役である美福門院と信西入道による二頭政治だった。
上級貴族の多くが鳥羽院政を引き継ぐ美福門院と二条天皇を支持していたことから、思考の柔軟な信西は親政派との決定的な対立を回避するため、強硬派の藤原信頼を抑えがちだった。

平治の乱(1159)〜頼政も当初は源氏側

院政派内の不和の隙を突いて源氏らが挙兵

頼政ら親政派の一部が、この院政派内での信西と信頼の対立に乗じて、両者が共倒れになるよう画策したことが、平治元年(1159)の平治の乱へとつながっていく。
挙兵した信頼と源義朝が信西入道を殺め、後鳥羽院と二条天皇を確保したことから、頼政も当初は反乱側に身を置いた。

源氏を裏切り平氏についた頼政ら親政派

ところが、熊野詣から帰還した平清盛らが後鳥羽院と二条天皇の身柄を奪取するに及んで、頼政ら親政派の面々は反乱陣営から離脱する腹を固める。同じ源氏としてのよしみより、親政派としての立場を優先させたのである。
この頼政ら二条天皇親政派の寝返りが戦いの決着を速めることになったと言える。

平治物語絵巻六波羅行幸巻

『平治物語絵巻六波羅行幸巻』源義朝らが身柄を確保していた二条天皇らが、平清盛の自邸があった六波羅へと向かうシーン。これを機に頼政は平氏側につくことになる。出典:ColBase

頼政は信頼より伊豆国を与えられていた

反乱が成功して寝返るより前、頼政は藤原信頼から伊豆国を与えられた。
それは国司を推挙する権利を認められたということで、行政権を掌握したのも同然だった。

平氏のもとで肩身の狭い頼政が挙兵

二条天皇の崩御で親政派が解体の危機に

仁安2年(1167)年正月、頼政は従四位下(じゅしいのげ)に昇進する。しかしこの時、すでに美福門院と二条院(二条天皇)は没したあとで、次期天皇に推す人物がいないままでは、親政派解体の危機が現実味を帯びてきていた。(二条天皇は六条天皇に譲位した翌月に崩御)

追い詰められる頼政が

永暦元年(1160)に土岐光保が謀反の嫌疑で失脚、殺害されてから、実務面を取り仕切っていた頼政は、親政派の解体を防ぐため、二条院の准母(じゅんぼ:生母と同等の地位)の八条院(鳥羽院の皇女)を仰ぐ。

頼政は以仁王を担ぐことに

当時、出家して生涯独身を貫く皇女は名義貸しを事実上の生業とし、上皇や法皇の代わりに荘園の寄進を受けて、マージンを手にしていた。つまり、八条院には派閥の長として必要な財力があったわけだ。
そして八条院の寵臣が以仁王の妻となり、その妻が出産した以仁王の王女を八条院が養子として引き取ったことで、頼政ら親政派が推すべき皇族は、以仁王に確定するのだった。

以仁王の挙兵にて死去

平家の世に不満が高まるなか、以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。
しかし、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。
頼政の意思は、結局は同じく源氏である頼朝らに受け継がれていく。

出典・参考資料(文献)

  • 『弱者の日本史』宝島社 監修:小和田哲男

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